第3話 手を出してはいけない

「先生は、お名前を何とおっしゃるですか? 僕は、三枝といいあす」」

 と自分を名乗ったうえで聞くと、

「私は、安藤みゆきといいます。あの高校に赴任して、4年が経ちました」

 というので、

「じゃあ、1学年分の生徒は、入学してきてから、卒業は見送ったということになるんですね?」

 と三枝がいうと、

「ええ、そういうことになりますね。そういう意味で行くと、高校時代を自分で送っている時は、どれだけ長かったんだろう? って思いましね。それを感じると、余計に、高校っていうのは主役は生徒なんだって、余計に思いますよね」

 とみゆきは言った。

「担任というのは、もう持たれたんですか?」

 と聞かれたみゆきは、

「いいえ、今はまだ持っていません。とりあえず、副担任というところまでは来ていますが」

 というので、

「そうなんですね? でも、先生という職業が大変だということは、聞いています。今の世の中で、思い切りブラックな職業だということもですね」

 というと、

「分かっていただけますか? でもまだ私は、担任を持っていないので、まだマシだと思うんですが、実際に一つのクラスの担任ともなると、数十人の生徒を自分で見ていかなければいけないので大変ですよ、進学であったり、就職であったり、送り出してあげなければならない。それは、3年間という限られた時間の中でのことであり、しかも、日々成長しているわけなので、そのあたりを分かっていないと、生徒を見失ってしまう。それだけはできないと思うと、かなりのプレッシャーになりますよね?」

 と、興奮気味にみゆきは答えてくれた。

 どうやら、みゆきには、こういう悩みを話せる相手が、いないのではないだろうか?

 学校の他の先生は、ほとんどが皆先輩であり、しかも、担任を持っていたりすると、人の話を聞いている場合ではないだろう。

 つまりは、みゆきは学校で孤立していて、いつも一人である。しかも、プライベートでも話ができる人もいないようだ。そうなると、孤立が招くものは、孤独しかなく、それを今、みゆきは、嫌というほど感じているに違いない。

 そう思うと、

「彼女は本当に野球が好きで、ここにいるのだろうか?」

 という思いを感じた。

 嫌いではないのだろうが、それだったら、ライトスタンドの応援団の近くにいてしかるべきだと思った。

 そうではないということは、彼女も三枝と同じようなところがあり、野球を冷静に見たいと思っている一人なのではないだろうか?

 野球を見ているその目は、実際に楽しそうに見える。もっとも、みゆき先生に限らず、この席に座る人は、野球をさまざまな目で見て、興味津々の表情をしている。

 ピッチャーの球筋であったり、表情であったり、さらに、バッターとの駆け引きなどを、ピッチャーサイドから見る人、あるいは、どのコースに的を絞って、どんなスイングをしようか? と思って見ているバッター目線の人もいるだろう?

 三枝は基本的にピッチャー目線だった。

 自分が学生時代にやってみたかったポジションはピッチャーであり、ただ、監督はやらせてくれなかったのだ。

 時期によっては、

「本当にピッチャーをやらせてくれないのであれば、辞めてやる」

 と思った時期があったが、それは半分本音だった。

 実際に、身体を壊したのも、精神的にピッチャーへの未練があったことで、身体が、自分の意思の通りに動いてくれなかった結果だとも思っている。

 だから、身体を壊した時、身体が治れば、本当であれば、野球を続けてもかまわなかったのだが、

「こんな中途半端な気持ちで続けるのは嫌だ」

 という精神的な面で、すでに限界を感じていたので、スッパリと野球をやめることができた。

 あのまま辞めずにしがみついていれば、どうなっていたかと思うと、余計に恐ろしさを感じる。

 実際にもっとひどいケガをしていたか? もしそうなっていれば、お決まりの転落コースが自分を待ち構えていることだろう。

 ピッチャーをできないことのストレスを抱えていながら、中途半端に成績を残していたので、高校のスカウト連中が注目していたのも事実だった。

 他の生徒だったら、少しは舞い上がったかも知れないが、三枝は複雑な気分だった。

「野球を続けたいのは、やまやまだが、俺が本当にやりたいのはピッチャーなんだ、それができないのであれば、野球を続けるのは、却ってきつい」

 と思っていた。

 ピッチャーを皆が支えて、試合にするのが野球というスポーツで、だからと言って、ピッチャーがやりたいのは、支えられたいなどという気持ちからではない。目立ちたいという気持ちからでもない。確かに、ピッチャーが試合の最初を演出する。ピッチャーが球を投げて成立するスポーツだからである。

 だからと言って、ピッチャーにしがみつくのは、正直自分でもよく分かっていない。それだけに、ピッチャーを他の人がしているのをまわりから見ていることに耐えられるほど、自分の人間はできていないと思うのも無理もないことであった。

 ピッチャーとして、マウンドに立つと、あれほど気分のいいものはない。ただ、その分、孤独であるということも分かるのだ。

 自分だけが、他の人よりも高い位置にいる。その場所から見ると、他のポジションの選手が皆近くに見える。バッターもキャッチャーも近いのだ。

 だから、18.44メートルという、マウンドから、キャッチャーまでの距離は、実際には、15メートルくらい、あるいは、さらに短く感じられる時がある。そんな時は、

「絶対に打たれることはないだろう」

 と思うのだ。

 しかし、実際には打たれるのではないかと思う。だから、一度打たれ出すと、抑えが利かない選手がいて、点を取られ始めると、抑えが利かない人もいるようだ。

 ただ、その傾向が自分にはあるようで、一度監督に、

「ピッチャーをさせてほしい」

 といって直訴に行ったことがあったが、その時言われたのは。

「お前は、我が強すぎる。そのために、一度ストライクが入らなくなると、舞い上がってしまって、今度は、まわりに気を遣うようになる。悪いことではないのだが、それなら、もっと早くから、要するに普段からそういう態度を取っていれば、そこまでのプレッシャーを感じることはないだろう。だから、余計にプレッシャーを感じるのだろうな。だけどな。それがまわりには伝わらないんだよ。せっかくのお前が思っていることはすべてが空回りしてしまって、誰もお前を信用しなくなる。そうなると、そんな孤独なマウンドにお前は押し潰されることになる。試合はメチャクチャになって、本当にお前はまわりから完全に浮いてしまうことになるんだ。それでもいいのか?」

 と言われると、何も言えなくなった。

 この時に辞めてしまおうかとも考えたが、

「今はまだ成長期なので、自分がピッチャーとしての器に近づくことができるのではないか?」

 と思い。-、そのまま部活に残ることにした。

 だが、実際にやってみると、思ったよりもうまくいかず、身体の方が先に悲鳴を上げたのだった。

「もう、ダメだ」

 と思ったが、それでも、少しだけ無理をした。

 その結果が部活を辞めることを強いられたが、思ったよりもアッサリしたものだった。

 最後に無理をしたのは、自分のささやかな抵抗だったのかも知れない。

 野球というスポーツ、そして、ピッチャーというものが、自分の中で、

「野球というスポーツのただの一つのポジションではなく、まるで独立したスポーツのような気がしていたのだ。そういう意味で、ピッチャーができないのなら、野球をする意味はないということで、諦めるいいきっかけになったということだった」

 好きなポジションを志し半ばでやめなければいけなくなったわけではないだけ、マシではないかと思ったが、まさにその通りだった。

 そうでなければ、趣味として、野球場に来て、スコアをつけようなどと思わないだろう。そんなことを考えながら、いつもスコアをつけていた。

「俺は決して負け犬なんかじゃないんだ」

 という気持ちからである。

 スコアをつけていると、ピッチャーの心理状態が分かってくる。

 その心理状態に。

「自分がマウンドにいたら?」

 という思いとをシンクロさせることが面白かった。

 スコアをつけながら、客観的に見ていると、これほど気楽なものはなかった。

「もし、中学の時、これくらいの余裕を持った気持ちでいられれば、気楽にプレイもできたであろうし、監督にピッチャーを任せてもらえたかも知れない」

 と感じた。

 自分でいうのも何であるが、連中の時であれば、いい球が投げられていた。まわりのクラスメイトも、

「なかなかいい球投げるじゃないか」

 と言われ、気持ちよくなっていたのも事実だし、何よりも、自分が一番納得のいく球が投げられていた。

 少し腰を沈めれば、低めに力強い球を投げることもできていたのに、マウンドに行って、バッターが立っただけで、どうしてここまで変わってくるのであろうか?

 そう思うと、

「やはり、辞めて正解だったのだろうな」

 と感じた。

 今では、あの時ほどの執着は何にしても持つことができない。裏を返せば、

「ピッチャーをやりたいと思ったあの時が、一番の自分の欲望のピークであり、それ以上何かを望むということは、もうないかも知れないな」

 と感じていた。

 それはきっと、成長期の中で、諦めという、まったく時系列に逆らうような精神状態を乗り越えることができたからではないだろうか?

 それを思うと。あの時の経験は、別に悪いものではなく、これから先の自分の生き方に、大いなる影響を与えるものだったといえるだろう。

 それが、いいことなのか悪いことなのか、三枝にはハッキリとは分からなかった。少なくとも、今まで生きていた中では分かることではなかった。きっとこれから、その答えが見えてくることもあるだろうと考えるのだった。

 ピッチャーというものに執着した時期は、実に短いものだった。

 執着した時期よりも、それを諦めるに至るまでの時期の方が結構長かったように思える。それは、時間の感覚が、いい時と悪い時で、まったく違うという発想からきているのかも知れないが、前述のように、

「まったく正反対のことでも、紙一重であったりするかも知れない」

 という思いが、今の人生でも考えさせられることになっているからだった。

 つまり、悩んでいる時は、きっと、躁鬱状態だったのかも知れない。

 まずは、鬱になって苦しんでいるところで、一定の期間が来たので、出口が見えてきた。元に戻るかと思いきや、何でもいい方に向かう躁状態へと抜けていた。

 だが、そう長く続くはずもなく、悪い方に向かってくると、またしても、鬱に迷い込んでしまった。そんなことを何度も繰り返していくうちに、

「元に戻れるのだろうか?」

 という思いが湧いてきて、まるで人生ゲームのような気持ちになっていった。

「キッチリと、止まらなければ、ゴールできずに、はみ出した分だけ戻される」

 というものである。

 せっかく、最期の橋に最初に到着していても、キチンとゴールできずに、次々後からきた連中に追いつかれて。さらにゴールされてしまう。

 まるで、わんこそばで残された人のようではないか。

 まわりから攻撃されれば、集中砲火を受けるのは必定。分かっていても、逃れることのできないこの状況を、どのように打破すればいいのか、考えさせられてしまうのだった。

「そうだ、ピッチャーをやりたいと思った時も、こんな人生ゲームのような気持ちになっていたのかも知れない」

 と感じた。

 うまく気持ちをいいところで止めようとして、プレッシャーに耐えられず、ビッタリのコールの目を引くことができない。そのことを自覚できているだけに、

「どうせ、俺にはできないんだ」

 という思いがさらに強くなり、

「負のスパイラル」

 というものを描き続け、

「気が付けば、奈落の底に堕ちていた」

 ということになってしまうのではないだろうか?

 それを思うと、スコアをつけている自分も、何者だという思いにならないとも限らなかったのだ。

 歴史の話も少し一段落し、その後、またスコアブックをつけ始めた。

「今、お話をしている時間、スコアブックを付けられなかったのではないですか?」

 と言われたが、

「大丈夫ですよ。僕は話をしながらでも、スコアブックをつけるくらいはできるんですよ。やっぱり、ずっとやっていれば、ながらでもできるようになるものですね」

 と言ったが、正直にいえば、何球かは、見逃していた。

 正直に言ってもよかったのだが、とっさにウソをついてしまったので、気にせず、そのままウソをつくことにしたのだった。

 なのに、彼女はそこにこだわってきた。

「まるで聖徳太子みたいですね。やはり集中力のたまものなのでしょうか?」

 と言われたが、

「いや、やはり慣れでしょう」

 としか答えられなかった。

 別に三枝は、聖徳太子のように、何人もの人の話を一瞬にして聞き分けることなどできはしない。そもそも、こんなものは逸話であって、実話だとは、到底思えない。

 今でこそ聖徳太子といっても、ピンとこないかも知れないが、歴史に詳しくない人でも、昭和を知っている人なら、

「あっ、一万円札の人だ」

 といって、すぐに反応するだろう。

 聖徳太子は、時代的には、飛鳥時代の人だといっていいだろう。

 彼の偉業はいくつもあり。

「憲法十七条や、冠位十二階を制定した人」

「法隆寺や国分寺を建立した人」

 などというと、それだけで、歴史の授業を思い出して、

「ああ、そうだそうだ」

 というに違いない。

 さらには、彼は、朝鮮から伝来してきた仏教を保護した。仏教寺院としての法隆寺や、国分寺はそれだけ、国の力を示すものとしての存在感もあった。

 また以外と知らない人もいるかも知れないエピソードが、遣隋使の話である。

 聖徳太子が、小野妹子を隋の国に派遣し、皇帝である煬帝に対して出したとされる高飛車な手紙も有名である。

「日出る国の天子が、日沈む国の天子に」

 という親書を託したことで、最初は。煬帝の怒りを買ったが、煬帝が、

「よほど国力に自信がなければ、これだけの手紙を書くことっはできない」

 ということで、敬意を表するようになったという。

 その際に、遣隋使が帰国する時、隋の使者が日本に同行してきたという。その時、煬帝の命を受けて、日本を観察しに来たのだろうが、法隆寺や国分寺などを見て、たいそう感心して帰っていったということだ。

 それだけ、仏教を手厚く保護していたということと、国力の強さを見せつけたということで、聖徳太子の名は、日本だけでなく、隋にも知れ渡ったということであろう。

 聖徳太子という人物が一万円札になったというのも頷けるというものだ。

 そういう意味では、昔のお札の方が、知名度が高かったというか、政治家や、皇室系が多かったということであろう。

 今の時代は、平成以降は夏目漱石などの作家であったり、野口英世のような研究家、福沢諭吉のような、思想家が増えてきたが、昔であれば、板垣退助、伊藤博文、岩倉具視などのような政治家や公家などが多かった。

 高橋是清というのもあったが、それは、当時としては(今でもそうなのだが)、大蔵大臣(今の財務大臣)の中で名実ともに、一番の人物としてお札になったというのも、分かる気がする。

 余談だが、そういう意味では、お札になった人は、暗殺されたり、暗殺されそうになった人が多いというのは、気のせいであろうか?

 伊藤博文を筆頭に、高橋是清、板垣退助など、暗殺されたり、されかかったりした人々だ。

 やはり、明治から大正にかけての動乱の時代、

「元勲や偉人は、暗殺と背中合わせだ」

 といってもいいだろう。

 伊藤博文のように、朝鮮で暗殺された人もいたが、考えてみれば、明治の元勲で暗殺された人のなんと多いことか。

 代表例としては、薩摩の大久保利通なども言い令である。

 当時は、内務卿となっていたので、ひょっとすると、初代の内閣総理大臣は、伊藤博文ではなく、大久保利通だったかも知れない。薩摩は、西郷隆盛が、西南戦争で命を落としたりと、長州閥が強くなっていったのも分からなくもない。

 特に、総理大臣や陸軍系などでは、伊藤博文と、山県有朋との間で交代で行われるかのような状態であったので、ほぼ、長州閥が独占という感じだったのだろう。

 余談が過ぎたが、スコアブックをつけながら、人の話を聞くなど、正直、ほとんど無理であった。それでもごましか利いたのは、

「相手がスコアのつけ方に関しては、ずぶの素人だった」

 ということだからであろう。

 スコアブックのつけ方にも、実はいろいろ種類がある。基本的には同じなのだが、実際のスコアラーと呼ばれる人がつけているやり方と、スポーツ新聞などで、素人でも分かるような書き方をしているようなものである。

 三枝は、野球部に所属はしていたが、マネージャー経験があるわけではないので、スコアを実際に自分が野球をしていた頃、つけたことはなかった。

 野球を辞めてからも、高校時代は野球から遠ざかっていた。それなのに、また野球を見に行くようになったのは、正直、

「暇だった」

 というのが、最初の理由だった。

 不謹慎なようだが、高校時代は必死になって、大学受験に邁進していた。中学時代までは適当な勉強で適当な成績だったので、高校も中途半端になってしまった。

 卒業後の就職組も結構いるような学校で、その中で進学するということだと、それなりに受験勉強が必要だった。

 中学時代は結構必死に勉強していたが、なかなか受験するレベルまで達することはできなかった。それでも、何とか間に合わせて、それなりの大学に入学し、そこから先は普通の大学生活を送り、普通に就職した。

「人生で一番頑張った時期は?」

 と聞かれると、

「今のところは、高校時代だ」

 と、迷わずに答えることだろう。

 大学生になってからは、皆と同じように、勉強もそれなりにやって、部活に、バイトにと、いろいろ考えていたが、本当は、例愛のようなことがしてみたかった。

 実際に、大学に入って、女の子の友達もたくさんできたのだが、その中の誰かと付き合えるようなことはなかった。

 最初は理由が分からなかったが、途中から気づいたのは、

「距離が近すぎるからではないだろうか?」

 ということであった。

 距離が近すぎると、相手を意識しすぎるし、遠すぎると、本来なら見えるはずの距離が見えなかったりするので、そのあたりが実に微妙な距離感なのだ。

 だから、大学時代に実際につき合った人は大学の中にはいなかった。

 しかし、まわりを見てみると、

「何で皆、そんなに同じ大学内で付き合えるんだ?」

 と思ったが、他の友達に聞いても、

「俺には分からない」

 という返事しか返ってこない。

 ということは、その友達も同じように、大学内で付き合える人を探しているのだが、なかなかそんな人に巡り合うことができていないのだろう。

 そうかと思うと、アルバイトなどで一緒になった女の子に、誘いを掛けると、意外と簡単に乗ってくる。しかし、2,3度デートするかしないかくらいで、すぐに別れることになる。

 相手から連絡がこなくなり、こちらから連絡をしても、無視されたりで、無視されると、さすがにそれ以上は押し切ることはできない。

 その頃になると、完全に嫌われているようで、しつこくすればするほど、まるでストーカー扱いで、気持ち悪がられてしまい、まわりから。

「もうよせ」

 と言われるのが関の山だった。

 そこまで言われれば、さすがに、どうすることもできない。 

 しつこく迫れば迫るほど、自分の立場は喪失し、まわりの友達も失いかねない状況になるのだ。

 中には、真剣に好きになった子もいた。

 その子を諦めるのは、かなりの辛さがあり、その思いがトラウマになって、同じ大学の女の子を、恋愛対象として見ることができなくなった。

 そのくせ、イチャイチャしてる連中を見ると、羨ましいと思い、自分の中で矛盾した思いになっていることに気づかされたのだった。

 そのため、なるべくアルバイトをするようになった。それも、日雇いバイトか、短期バイトが多い。

 もし、長期バイトに入っていて、そこで彼女ができたとしても、もし別れることになったら、気まずいに決まっている。その時はどちらkが辞めないといけなくなることを思えば、最初から短期バイトがいいことは火を見るよりの明らかだった。

「バイトを聞ける基準って、それなのか?」

 と、きっと話をすれば呆れられることだろう。

 そんなことは分かっている。分かっていて、どうしても諦めきれないのは、

「せめて、大学を卒業するまでに、ちゃんと女の子をつき合いたい」

 という表の気持ちと。

「彼女と、初体験をしたい」

 という裏の気持ちが、交差して絡み合っていうからであった。

 実際に、大学2年生の頃までは童貞だったので、先輩が見かねて、風俗で童貞は捨てさせてくれた。

「素人童貞を卒業したいのであれば、一度プロにご指導願った方が絶対にいい」

 ということであった。

「テクニックとか、そういうことじゃないんだ。心構えが最初からあれば、相手に臆することはないだろう? その臆することのない気持ちを教えてもらうという意味で、童貞を失うのは、風俗のお姉さんがいいと思っている人は結構いるんだぞ」

 と言われたのだ。

「風俗のお姉さんは、いろいろ教えてくれた。女性の扱い方。女性の感受性。どうすれば、女の子に好かれるか? そして、嫌われないか?」

 ということをであった。

「女の子に好かれる」

 ということ、そして、

「嫌われない」

 ということは、言葉のニュアンスは似ているが、正直まったく違ったことなのである、

 特に、今は、SNSなどが普及していることもあり、女の子と、客の間で、一定の会話ができるようなところもある、

 あまりの人気嬢ともなると、さすがに全員には難しいが、そうでもなければ、何度か通って仲良くなれば、ダイレクトメールなども可能である、優先的に予約ができたりもするのであった。

 だが、それだけに、変に思い入れが激しいと、ややこしいことになることもある、今でこそ、ストーカー防止法などがあったりするが、昔はなかった。店の前で出待ちをしている人や、店から出てきたところを、後から追いかけたりして、家を突き止めるなどというとんでもない輩がいたりするのではないだろうか?

 今であれば、警察にいえば、それなりの処置をしてくれるだろう。生活安全課というところで、ストーキング被害に遭っている場合など、もし、相手がどこの誰なのかがハッキリと分かっている場合は、警察が連絡をし、それなりの説得を試みるだろう。

 もちろん、今でも罪になっているというこお¥とをしっかりと説明したうえでのことであろう。

 もし、それでも止まらなかったり、相手がどこの誰か分からなかった場合には、警察がパトロールを強化するなどの措置が取られることだろう。

 三枝が、大学生の時、同じクラスの女の子にストーカー被害に遭っている女の子がいると聞かされて、その時、友達が一緒に警察まで行ったのだが、その時の話に、

「警察がどういうことをしてくれたのか?」

 ということを教えてくれたのだった。

 今から、ちょうど10年くらい前のことなので、今はまた少し変わっているかも知れない。

 その時は、彼女のケイタイ番号を登録しておいて、その番号から掛かってきた時は、警察は、緊急事態として扱うようにしておくような措置を取っていたという。

 まだ、その頃はスマホもそれほど普及していなかったので、GPSなどというものもなかなか利用できなかった。

 今では、個人のプライバシーとの絡みもあるが、本当にストーカーからの攻撃が怖いと思えば、警察に、GPSで監視もしてもらえるのではないだろうか?

 それを思うと、元々、なかった、

「個人情報保護法」

 と、

「ストーカー犯罪防止法」

 というものが、ほぼ同じくらいの時期にできたというのも、実に皮肉なことである。

 そういう意味で、昔のように怪しい行動や、手を出しにくくなったというのも事実である。

 しかも、今はコンプライアンスの問題などもあることで、昔であれば、

「放送禁止用語」

 なるものくらいが、タブーなワードだったりするが、今では、男女雇用均等法の観点からか、男女の問題に限らず、差別的な発言となるものは、ダメだと言われるようになっていた。

 男女雇用均等の問題から、昔から言われていた、慣れ親しんていた、

「スチュワーデス」

 などという言葉を使うと、煩くなった。

 実際には、放送禁止用語と同じで、法律違反ではないが、倫理的な意味で禁止ワードになっているのだった。

 差別的なものとしては、就職活動などにおいても、会社側がしっかりと見ておかなければいけないところがいくつかある。

 例えば、募集要項に年齢制限を載せないとか、履歴書に、本籍や、家族構成などを書かせてはいけなかったり、今では最終学歴などもまずいのではないだろうか?

 さらに、最近では、いろいろなハラスメントなどという言葉もあり、それが大きな問題になっているというのだ。

 そういう意味で、

「手を出してはいけない」

 ということは、あらゆる場面で存在するのではないだろうか?

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