第5話
その夜、リュックを机の下に隠してベッドに入りました。リュックが見つからなければあの女がまた来てもすぐに諦めると思ったのです。
これが浅知恵と思い知りました。
その夜も寝苦しく、ようやくウトウトしかけたとき。
不快な匂いが鼻について、ぼくは思わず顔をしかめました。樟脳とカビや埃の匂いに混じって、しばらく風呂に入っていない人間の放つ据えた匂いが漂ってきたのです。
樟脳の匂いで連想したのは押入れです。ぼくは心臓に氷を押し付けられたような感覚にぶるぶる震え始めました。
目を開けるのが怖い。この部屋に何かがいる。ぼくはまぶたをぎゅっと閉じました。
鼻先に生臭い息が吹きかけられるのを感じました。叫びそうになるのを必死で堪えました。
頬に使い古した筆のようなものが触れました。
ぼくはたまらず薄目を開けると、誰かが寝ているぼくを覗き込んでいました。
昨晩リュックを漁っていた猫背の女です。間近で見る顔は唇はかさかさ、頬はこけており、目は深く落ち窪んでいました。暗闇の中で澱んだ目が薄ぼんやり光ってぼくを見つめていまささた。
まるでミイラだ、と思いました。薄汚れた白い布を纏い、鎖骨は浮き出てみるからに全身ガリガリなのです。
女は枯れ枝のような手を伸ばしてきました。
「かえして…かえして」
女は掠れた声で訴えます。ぼくは恐ろしくて声にならない叫びを上げ、頭から布団を被りました。
「あれがないとあの子がくるのよぉ」
女はひゅーひゅー喉を鳴らしながら執拗にそれを繰り返しました。ぼくは恐ろしさに布団の中で身を丸めて、どこかへ行ってくれと願い続けました。
いつしか気絶していたのでしょう。母の声に起こされたときはすっかり陽が昇っていました。
「あんたもう九時よ、いつまで寝てるの」
学校も始まるのにだらしない、と母は文句を言っていました。その声すらありがたくて、ぼくはホッとしてベッドから起き出しました。
ベッド脇の床にはパサパサの長い髪の毛と埃まみれの足跡がついていました。昨日の光景は夢ではなかったのです。
ぼくは廃屋の幽霊を連れてきてしまった。
毎晩あんな風に恐ろしい女が現れたらぼくは気が狂ってしまう。いったいどうすれば。
女の言葉を思い出しました。かえして、と言いながら探していたのはリュックに詰め込まれたお札でした。
もしかしたら、お札をあの押入れに返せば良いのかもしれない。
ゴミ箱を見ると、先程母が片付けてしまったようです。ぼくは慌てて階段を駆け下り、部屋のゴミをどうしたか尋ねました。
母はゴミをまとめて括っているところでした。ぼくはゴミ袋を漁り、お札を取り出しました。
母はひどく呆れていましたが、気にしている暇はありません。
ぼくは廃屋にお札を返しに行くことにしました。でも、ひとりで行くのはあまりにも怖かったため、健太と弘志を誘うことにしました。
しかし、健太は夏休みの家族旅行、弘志は熱を出して寝込んでいるというのです。
ぼくは一人きり、あの廃屋へ戻ることにしました。
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