第五話 『鉄に泪』
カイくん、と穏やかに、楽しそうに己を呼ぶその唇が、ほとんど動かなかった。代わりに伸ばされたのは、躊躇いがちで遠慮に浸らせたような手の一本だけだった。それがやんわりと背中を撫で、言いたいことを全部押しとどめているのがわかる。
そうさせたのは己だと、何よりもわかっていた。
* *
たぶん今日は仕事に来ないだろうな、と思っていた。ギルは情に厚く、人のことをよく考えられる男だ。気にしなくてもいいことを気に病むし、一般常識でいえば気にした方がいいであろうことはサックリ諦める。結局よくわからない男であるのは確かだ。そのよくわからない男を、この数ヶ月で理解できたと思っていたのだが――、
ギルは、いつもと変わらない時間に来た。いつもと同じように「カイくん、おはよう」と目を細めた。いつもと違ったのは、自分だけ。
全てを話した後で、ギルのような人間が自分に悪感情を持つはずがないことなんてわかっていた。でも、それでも、ギルの視線を真正面から受け止めることはできなかった。目を合わせて「おはようございます」と言うはずのカイが、足元を見ながら頷くだけですませるのを見て、ギルは大股で近づく。
「カイくん」
「――?」
「お墓参り、一緒に行ってくれない?」
――あまりに意識の範囲外だった言葉に、思わず顔を上げる。カイの間抜けな顔を見て、ギルが笑った。
春の日差しを含むような笑みだった。
* *
カイくんは訳がわからない、という顔をしながらも、俺の提案に頷いた。なんだかんだ素直な子なのだ。俺の挨拶だって無視すればよかったのに、そんなこともできないくらい優しい。
その墓地は丘を登ったところにあった。緑の草が道端に増え、野花がところどころに咲いている。舗装もされていないけど、人が通る分のところだけ土が見えている。カイくんが一言も喋らなかったから、俺も一度も口を開かなかった。
「――ここ、は」
「うん。戦没者墓地だよ」
ようやくたどり着いたそこは、緑の広がる穏やかな土地だった。ある程度同じ形の岩がずらっと定期的に並べてあり、近づけばそこに名前が刻まれていることがわかる。俺は迷いなくその中を進んでいく。カイくんもそれに続く。
半分を通り過ぎたあたりで立ち止まった。そしてそこに腰を下ろした。
「ここ、俺の友達の墓なんだ」
カイくんは喋らなかった。
まるで昨日の俺のようだと思った。
「一晩考えたんだけどね。俺、どうすればいいかわかんなくて。だからここに来れば、なんか言いたいことが見つかるかなーって思ったんだけど……、やっぱわかんないな。難しいな、こういうの!」
アハハ、と苦笑いして頭をかく。カイくんは全然笑ってくれなくて、空気がちょっと微妙な感じになった。俺が黙れば、代わりに風が鳴いて、木々がその身を震わせた。
「……こいつね、なんか、生き返ったっぽいんだよね」
「――――」
カイくんは何も言わない。
「戦争中に、俺の目の前で撃たれてさ……。助けようとしたんだけど、頭ぶち抜かれてて、そんで……流石に死んだと思ったから、こいつをせめて後方に戻して、そのまま戦ってた。その後何日かしたら、こいつ、ひょっこり戻ってきやがった。――頭を機械にして」
石碑の文字を指でなぞる。ドッグタグと同じような感触が皮膚に伝わる。
血と硝煙のにおいを思い出した。
「俺はその時――ああ、良かった、って思ったよ」
いいや、それだけじゃない。あの時の感情は、今この世にある言葉じゃ表現しきれない。この世の感情を全部一緒くたにして混ぜ合わせて、スプーンで何回か掬って心の中に移せば、たぶん似たような感情になる。
だけどたった一言だけ、一番強い思いだけで表せば、『良かった』だけだった。本当に、ただの、安堵だけだった。
「また喋れる、また一緒にいられる、って……。俺はその時には両足コレになってたから、別に特別なことじゃないだろとも思ってたし。だけど、こいつは、ずっと悩んでた」
頭が機械だから、痛覚をオフにすることもできた。彼はいつも先陣を斬るようになった。慎重で、怯えやすい性格だったのが、傍から見ても変わっていた。それでも、俺は彼と一緒にいた。
だってそんなんどうでも良かったから。俺にはそんなこと、ちょっとだって関係なかったから。戻ってきてくれただけで、それだけでよかったから。
「……たった一回だけ、『オレ、まだおまえの友達かな』って訊かれたことがあったんだ」
その時俺は、彼がどういう意味でその言葉を言ったのか全く理解してなかった。もちろんだろ、友達だよ、って在り来たりな言葉しか吐けなかった。彼が言っていたのは、カイくんのような、自分が本当に自分であるかの確認だったのに。彼が下手くそに笑ったのを、俺は見ていたのに。なのに、何も言わなかった。
戦争が終わる前日、彼は死んだ。
――だから、今言うよ。おまえに言えなかったことを、おまえと同じように悩んでるこの子に、俺が頑張って考えたことを言うよ。
アタマ悪いから、そんなに難しいこと、考えらんなかったけど。こんなん使い古された言葉かもしんないけど。
「頭が機械になっても、俺の記憶の中と性格が変わっちまっても――こいつはずっと友達だったよ」
そして、ずっと人間らしかったよ。寒けりゃ肌を寄せ合ったし、怖けりゃ足を竦ませたし、楽しけりゃ涙が出るまで笑いあった。一緒に眠って、一緒に戦って、今日も生きててよかったなって。
それが人間じゃなくてなんというのだろう?
俺の言葉に、カイくんはぐっと喉に力を込めた。俺はそれ以上何も言わなかった。
彼がゆっくりと口を開く。
「僕、ともだち、いたんです。ガキの頃……施設に売られる前。近所の子と、よく遊んでました」
「うん」
「あいつら、今でも僕のこと、友達って呼んでくれますかね。忘れられてますかね。僕だって、もう名前も覚えてないのに、」
「呼んでくれるよ。忘れられてても、もっかい友達になろうよ。ねえ、世の中はずっとシンプルなんだよ。名前とかそんな小さなこと、カンケーないんだよ」
「頭以外、全部機械なのに。自分でも自分のことわかんないのに……」
「カイくんは立派な人間だと、俺は思うよ」
きみが自分を信じられないぶんを、俺が信じるよ。
カイくんは顔をぐしゃぐしゃにして、何度も嗚咽を零した。時折変なふうに息を吸い込んで咳き込むから、同じように座らせて背中を撫でる。わかるよ。泣くのって慣れてないと大変だよな。でも、音を出さないように泣くやり方を学んだ自分に気付いた時、すごく虚しくなるから。きみはそれでいいよ。きみはずっと、きみのことを信じてあげればいいんだよ。
なあ、丁寧に歩いてゆこう、カイくん。
きみの涙を大切にしよう。
泣けなかった俺とこいつより、その一滴はずっと価値のあるものだから。
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