ダンテを読んで

増田朋美

ダンテを読んで

その日も暑い日であった。こんな時に外で作業していれば、誰でも日に焼けて黒くなるものだろう。それでは美人と言われている人が、とんでもないシミだらけになるという可能性もなくはない。

その日は、こんな日であるのに、何故かピアノのコンクールが行われていた。暑い中なので、あまり拝聴したがる客もいなかったが、杉ちゃんと女地さんは、利用者の一人が出演したため応援に来たのであった。

まあ、ピアノのコンクールと言っても、さほどレベルの高いものではなくて、みんなベートーベンのソナタとか、ショパンのバラードとか、そういう荒々しくて激しい曲を見せびらかすように演奏するだけであった。特に音楽的に優れているとか、個性的な演奏をする人はだれもいなかった。しかし、終盤になって、

「エントリーナンバー9番、丸野タケオさん、曲はショパン作曲、幻想曲ヘ短調です。」

というアナウンスが聞こえて、周りの拍手が少し大きくなった。一人の男性がピアノの前にたった。多分このコンクールに出演した中では、最年少の年齢だと思われる。その顔は随分色白で、とても美しいというより、可愛らしい感じであった。確かにまとまりのある上手な演奏であるが、なんだか個性的というか、ディスクにある演奏をそのまま丸写ししているような、それだけの演奏であった。多分、偉い先生についているのかと思われていて、杉ちゃんたちの周りについていた聴衆は、サクラでもあるかのように彼に大拍手を送った。

「へえ、つまらないねえ。ただ猿真似をしているだけじゃないかよ。全然たいしたことないよな。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「続きまして、エントリーナンバー10番、藤本光男さん、曲は、リスト作曲、ダンテを読んで。」

アナウンスが流れて、製鉄所の利用者である藤本光男くんがステージにたった。多分彼のほうが、丸野くんより演奏技術はあるのではないかと思われたが、容姿が優れているわけではないのと、大変暗く重い作品であったので、あまり大拍手にはならなかった。

その後、6人の出場者が演奏してコンクールはお開きになった。その後で結果発表が行われたが、丸野さんが、予想通り一位にランクインして、藤本光男くんは最下位であった。

「まあ仕方ない。ああいう、変なやつが出たんじゃ勝負しにくい。でも、お前さんのダンテを読んでは上手だったぞ。きっと、もうちょっと顔が良ければ、ランキングに入れたかもしれない。」

杉ちゃんは、藤本光男くんに言った。

「でも丸野という方にあわせてあるようなコンクールでしたね。ショパンの曲より、リストのほうがより難しいんですけどね。」

ジョチさんは不思議な顔をしていった。

「まあ比べっこしても仕方ない。とにかく、気にするな。お前さんはよくやった。」

杉ちゃんとジョチさんは、落ち込んでいる藤本光男くんを、慰めながら、コンサートホールをあとにした。」

それから、数日経って、何気なく製鉄所に届いた富士市のローカル新聞を開いたジョチさんは、そのトップ記事に、先日コンクールに出演していた、丸野タケオくんが、一人の中年女性と一緒に、新聞に映って居るのを見てしまった。それによると、富士市に大天才が現れたという見出しになっており、一緒に映っているのは、丸野くんのお母さんで、コンクールで一位を取るために、二人で二人三脚で頑張ってきたとか、そんなことが書かれていた。

「へえ、あの少年は、結構な有名人だったんだね。こうして新聞に載ると言うことは。」

いつの間にか、うなぎパイを食べながらやってきた杉ちゃんが、そういったのであった。

「そんな言い方をしてはいけませんよ。でも丸野タケオさんと言う方は、もしかしたら、かなりの大物だったかもしれませんね。ほら、ここにかいてありますよ。日吉暢子先生に師事しているって。」

「そうか。そうかいてあるんか。僕、読めないもんでさ。でも、日吉先生と言えば、かなりの偏屈なことで有名な女性でもあるな。そいつに彼がついていけるかね。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「はい。そうですね。日吉暢子さんと言えば、生徒をゴミのように捨ててしまうことで有名です。こちらの製鉄所にも、彼女に捨てられて、やけになった人が、何人か来訪しています。」

「そんな血も涙もない女に、どうしてみんなついていきたがるんだろうね。」

ジョチさんがそう言うと、杉ちゃんは素朴な疑問として投げかけた。

「まあ、ここがそれだけ田舎ってことじゃないですかね。都会であれば、もう少し偉い先生がたくさんいますし、ある程度選択肢があるのではないかと思いますが、田舎では一人か二人しかいませんから。どうしても、その先生に群がるように師事したくなるわけですよ。そしてそういう先生は、生徒が沢山来ることを、自分が偉いと考えてしまうんですよね。これだから困るんですよ。田舎ってのは。」

「本当だね。」

杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。

「そしてこれからはショパンばかりではなくリストやバラキレフといった難曲にもトライしてみたいです。ってかいてありますね。つまりこの方、ショパンばかりを弾いてきたということでしょうかね。まあ確かに日本ではショパンは圧倒的に人気ですが、でもそれだけで音楽家として通用するもんじゃありませんよね。」

ジョチさんがそういうと、

「大したことはできないのに、報道したりされたりしちまうほうが、おかしいんだと思うよ。」

と杉ちゃんも言った。

「それでけ、日の当たるところへ出たい人間が多いってことじゃないかな。本当の成功というより、ちょっとできるということで報道されちまって、それで大成功しているように見えるけど、本当はそうじゃないんだよね。」

「そうなんですよね。僕が思うに成功したというのは、そのことをやり続ける事ができて、それで自分の衣食住を自力で立てて行けることではないかと思うんです。周りの人に支えられて、今の自分があるという発言をする人は大勢いますが、それでは誰かに依存した上での成功であり、本当に成功したとは言えません。それよりも別の意味では立派に成功していて、もうこれ以上のことを求めなくてもいいにも関わらず、おかしなところに身を打ち込みすぎて、破滅してしまう人が多すぎます。それでは行けないんですけど。」

ジョチさんと杉ちゃんがそんな話をしていると、製鉄所の玄関の引き戸がガラガラっと開く音がした。

「あれ、今日は面接はなかったはずですけど。」

ジョチさんはおかしな顔をして、玄関先へいってみた所、先程の新聞の写真に載っていた女性と、一人のまだあどけなさも残っている少年が経っているのを見て、更にびっくりする。

「あの、どなたですか?こちらには、なんの用があるのでしょう?」

ジョチさんがそう言うと、

「私、丸野と申します。失礼ですが、こちらに右城水穂先生はご在宅でしょうか?」

と女性が言った。

「はい、右城ではなくて、現姓は磯野水穂ですが、彼になにか御用がお有りでしょうか?」

ジョチさんはやっと冷静になってそう言うと、

「はい。ぜひ右城先生にレッスンして頂きたいです。」

と女はいった。

「新聞では日吉暢子先生に習っていらっしゃると言っていましたよね。それなのになぜ、水穂さんのところへ来られたのでしょうか?」

ジョチさんは急いでそう言うと、

「ええ、事情がありまして、日吉先生とはお別れしました。だから次の先生を探しているのですが、ここに右城先生がいらしてくれていると聞きましたので、こうして直に参りました。」

と女性はそういった。

「はあ、日吉先生とお別れしたんだったら、それならもうピアノを諦めてなにか他の事を始めたらどうだ?」

いきなり杉ちゃんがやってきて言った。

「そういうわけには行きません。これからもピアノを続けていかないと。この子はこれからも、ピアノをやっていくんですし。」

「いや、それは嘘だろう。それより、本当の気持ちでは、報道関係の方に笑われてしまうからということではないの?」

杉ちゃんは、そういった。

「ちゃんと本当の事言いな。ここに来たのは、報道関係の人にレッスンを何も受けていない何もしていない人間であると知られたくないから。違うか?多分、日吉先生には何らかのトラブルがあって、捨てられてしまった。ああ、いいんだよ。だってあの先生に捨てられて情緒不安定になった奴らが、たくさんここに来てるもんね。それも可哀想だと言えないわけでも無いけどさ、それよりもこれを期に新しいことを始めてもいいと思うけど、それは、だめなんだね。一度泥沼にハマっちまうと。」

女性の話に杉ちゃんは大きなため息を付いた。

「それでおしまいじゃなくて、それ以外のものを、余計に拒否してしまう人間になるのはなぜなんだろうね。」

「とにかく教えてやってください。この子にもう一度ピアノを弾かせてあげたいんです。」

「はあ、そういうのは良くないな。そういうことは、親の思いをただ子供にぶつけて居るだけだぜ。それは、逆に返って、悪影響になっちまうよ。それはやめたほうがいいよ。」

杉ちゃんに言われて、お母さんと思われる女性は、一瞬黙ったのであるが、

「でも私は、やらせてあげたいんです。」

とはっきりと言った。

「でもそれは、親の思いを勝手に押し付けて、返って彼に取って、すごい負担になるかもしれないよ。もしかしたら、精神疾患とか、そういうものの原因になっちまうかもしれない。だから、それはやめたほうがいいと思うなあ。」

杉ちゃんがそう言うが、

「とりあえず、暑いので中へお入りください。」

ジョチさんが杉ちゃんたちに中へ入るように言った。二人は、緊張した顔つきで製鉄所の中へ入った。

「おい、水穂さん。なんでも日吉暢子先生に捨てられて、お前さんに見てもらいたいっていう男が来てるぜ。ちょっと弾いてやってくれ。」

四畳半に入った杉ちゃんは、布団に寝ていた水穂さんを揺すって起こした。そして、

「こいつの名はえーと。」

「丸野タケオです。」

と、言いかけると、すぐにタケオくんから返事が来た。

「じゃあ丸野タケオくんにピアノを教えてやってくれ。曲は、何をすればいいの?」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。リストのダンテを読んでを教えてほしいです。」

と、タケオくんは言った。

「はあ、リストね。じゃあちょっと弾いてみてくれ。」

杉ちゃんがそう言うと、タケオくんは水穂さんのピアノの前に座ってダンテを読んでを弾き始めた。確かにショパンのときは、上手にできていると思われたかもしれないが、この技巧的な難曲を強弱をつけて弾くのはちょっとむずかしいと思われた。

「そうですね。確かに音は取れていますが、大変な難曲なのですべてがフォルテで演奏されています。そうではなくて、もう少しピアノで弾くことを心がけましょう。そのためにはそうですね、リストではなくて、他の作曲家の作品を弾いて、より力を抜く演奏を身につけるべきでは無いでしょうか。例えば、シューベルトのソナタの様な簡単な曲で、強弱の落差を学ぶのです。」

水穂さんがそう言うと、

「シューベルトのソナタですって!リストではだめなんですか?」

と、タケオくんのお母さんが言った。

「はい。古典はのソナタは、強弱をつけるのにとても良い教材だと思います。」

水穂さんはそういった。

「でも、この子は、日吉先生からリストを弾かなければいけないと言われました。そんな、シューベルトとか、そういう作曲家の作品はやっても意味がないというか、学ぶところが無いそうです。」

「ええー?何馬鹿なこといってんの?大曲でなくても、勉強できる曲は、いっぱいあるよ?それをバカにする先生では、何にも学ぶことはできないぞ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「確かにリストの曲は本当に技巧的ですから、それができたらすごいことになるんでしょうけど、でも逆に、それは、全部大きな音で弾かなかければならないことになり、ただのうるさい音楽になってしまいます。そうではなくて、アップダウンのある、美しい音楽を作るには、古典的なソナタをたくさん勉強して頂いて、そこから、始めることが大事だと思います。」

水穂さんがそう言うと、

「どうしましょう。この子がシューベルトのソナタをやっているって知られたら。」

お母さんは困った顔をしている。

「どうもしないよ。それよりただのうるさい音楽でダンテを読んでを弾くよりも、ちゃんと強弱をつけて、きれいな音楽を演奏できる音楽家になったほうがよほどいいだろ。そういうことを学べるところへ来たんだから、お前さんは日吉先生に捨てられてよかったじゃないか。ピンチはチャンスとは名言だな。」

杉ちゃんに言われて、タケオくんはとてもうれしそうな顔をした。

「ありがとうございます。ではシューベルトの何番を弾いたらいいのか、先生指示を出してくれませんか?」

「はい。じゃあ一番簡単な一番をやってみましょう。」

水穂さんはそう言って布団から立ち上がり、本箱から楽譜を出してタケオくんに見せた。

「ちょっとまってください!こんな簡単な曲をうちのタケオが弾いたということになれば、わたしたちの評判はどうなります?もし、報道関係者が、こんなつまらない曲をやってると報道したら私達はどうなります?」

お母さんは本当に困っている。タケオくん以上に困っているのだった。

「だからあ、大丈夫だよ。そんなもん何も変わらんよ。ただ平凡な生活をそのまま送るだけだよ。」

「あのすみません。右城先生。あなたはタケオのことをバカにしていますね!」

お母さんはいきなりそういったのであった。

「いえ、バカにはしていません。本当に必要だと思ったので、そう言っただけです。」

水穂さんは、すぐに言ったのであるが、

「でも、タケオにレッスンしようとしてくださるなら、簡単な曲を与えてはいこれをやってで済ませようとはしませんよね!」

お母さんはすぐにそう言い返している。

「だって、これ以上難曲をやり続けても、タケオくんには、曲を演奏することは難しいと思います。だからリストではなくてまず、簡素な曲で、強弱の変化をつけることを身に着けさせることが必要なのです。ただ、演奏家の皮を被って、技巧的さを見せびらかすだけが演奏家というわけではありません。ピアニストは、サーカスでは無いんですから。ピアニストは、音楽を聞かせる職業であって、見せるためのものではありませによ。」

水穂さんは、そう静かに言った。

「まあ、そういうことだったらなあ。もう一回、こいつの演奏を聞いてみるといいよ。こいつは、牛よりのろいペースで頑張ってきたやつだけど、少なくとも、カッコつけたり、変にうるさい演奏家でも無いからね。」

杉ちゃんがいきなりそういうことを言った。そして、

「来い!」

と言い、庭そうじをしていた、藤本光男くんに言った。藤本光男くんは、なんですかと言いながら、四畳半にやってきた。

「こいつの顔はコンクールで見たことあるな?こいつは、自分のペースでずっと水穂さんと一緒にやってきたやつだ。こいつはお前さんのせいで最下位だったけど、でも一生懸命練習して、ダンテを読んでを弾いたやつだ。ちょっとな、こいつの演奏を聞いてみろ。」

「杉ちゃん、そんな事言わないでください。僕は丸野さんの演奏に比べたら比べ物にならないほど下手であることは、コンクールの結果で明らかじゃないですか。それなのに下手な演奏を、彼に聞かせろと言うんですか?」

藤本光男くんは、驚きを隠せない顔でいった。

「でも、それでも演奏にアップダウンもあるし、音楽を自分でつくろうという気持ちはあるよな。技術的に下手でもいいんだ。ちょっとそこでやってみろ。」

杉ちゃんに言われて、藤本光男くんは困った顔をしたが、水穂さんが、

「大丈夫です。間違えても止まってもいいですから、ダンテを読んでを弾いてみてください。」

と、言ったので、仕方なくピアノに座り、ダンテを読んでを弾き始めた。

確かに、丸野タケオくんに比べると、演奏技術的にはうまくないと思う。けれど、一音に心がこもっていて、ただ、ディスクの演奏をそのまま模倣しているだけのような丸野タケオくんの演奏とは違っていた。それができると言うことは、ある意味演奏に個性があるということなのである。

「なんですか。こんな平凡な演奏を聞かせても、どうにもなりませんわ。」

とお母さんはそう言っているが、

「いえ、技術的にうまいことだけが、ピアニストではありません。」

水穂さんに言われて、思わず水穂さんの本箱を見て、

「何を言っているんですか。先生は嘘をつかれましたね。先生は先程、技術的にうまいだけが全てでは無いとおっしゃいましたが先生が持っている楽譜の殆どは、世界一難しいと言われる作曲家の作品ばかりじゃありませんか!」

と言ってしまった。

「いいえ。ゴドフスキーは見世物ではございません。」

と水穂さんが言うと、

「いいえ、そんなことありません。先生は、きちんと音楽的に演奏をすることを指導してくださいました。だから僕がダンテを読んでを弾けるようになったんではありませんか。こんな平凡な男に、そもそもリストが弾けるわけがありません。それには、誰かの指導が必要です。だけど、先生は、本当に手取り足取り、何でも教えてくれました。だから僕は、コンクールに出場することだってできたんです。」

と、ダンテを読んでを弾き終わった、藤本光男くんが言った。

「だから、それを彼にも分けて上げたいと思う気持ちは、行けないのですか?」

「大人の負けだわ。」

お母さんは、光男くんと、タケオくんの顔を見てそういったのであった。

「子供は純粋だというけれど、時々それに大人が負けてしまうこともあるんですね。」

「負けたっていうか、大人の世界がはびこっている中で、時々子供の純粋さが、きらびやかに現れることもある、それだけなんだよな。ははは。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

丸野タケオくんと藤本光男くんが友達になったのは、そういうわけがあったからである。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ダンテを読んで 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る