第5話 ヤンキーといじめられっ子 1


 喧嘩っ早いやつだと昔からよく言われた。周囲の大人は腫れ物に触るように彼に接し、二言目には「喧嘩は良くない」とお決まりのように付け加える。みんな心配しているような面をしながら心の中では「危ないヤツだ」と嘲り笑う。


 大宮辰也たつやはいじめっ子ではなかったけれど、いじめられっ子の気持ちはよく分かっていた。確かに彼は暴力を振るう。しかしそれは相手が振るう暴力から身を守るための暴力だった。顔が怖いから。睨まれた気がしたから。そんな理由で殴られたし蹴られたし、痛いから反撃したら、悪者にされた。


 気づけば大宮に喧嘩を売る人間がいなくなっていた。


 彼は恐れられた。


 恐れられて、孤独だった。


 春野菊花きくかと出会ったのは、彼がヤンキーとしてのレッテルを受け入れ始めた頃だったろうか。


 彼女もいじめられっ子だった。背は低く、いつも暗い顔つきで俯いている。眼鏡を決して外そうとはせず、取り上げれば赤ん坊のように泣きだすのである。


 彼女は極度の近眼であった。生まれつきのものらしく治療はできない。眼鏡を外した彼女の目つきは鋭く、狼のようだ。それで、いじめられた。


「………見ないでよ」


「……………」


「見ないでったら。あたし、怖いでしょ。怖いならどっか行って」


 菊花は雨の降りしきる路地裏で身を縮ませて顔を隠した。小さな太ももがあらわになるのも構わずに膝を立てて、緑色の下着が見えても構わないように腕で抱えた。その中に顔を隠すのである。


 大宮がヤンキーだという噂は彼女も知っていた。こんな顔を見られたらまたいじめられる。睨まれたと思われたら殴られる。コンプレックスに恐怖した彼女は、ヤマアラシのように自分を守ろうとした。


 大宮は、昔の自分を見ているように感じた。


「それじゃあ見えないだろ。見せろ」


「え―――」


「見せろっつってんの」


 グイ、と耳元に手を添えて顔をあげさせる。よくよく見ればお人形のような可愛らしい顔立ちであった。目つきだけが鋭い。本当に狼のようだ。可愛い顔を台無しにしている力のこもった目。それがギャップとなって大宮はむしろ気に入った。


 顔つきで喧嘩を売られる事の多い大宮だからこそ気に入ったのかもしれない。


「可愛いじゃん、お前」


「可愛くないし……」


 菊花は顔を背けた。しかし、大宮の手がそれを阻止する。


「可愛いよ。でも、笑ったらもっと可愛いんだろ?」


「なんなのこいつ……あたしは可愛くない。可愛いわけがない。こんな目つき。自分の顔が嫌いなんだよ。助けてくれたことは感謝してる。対価が欲しいなら何でもするから、もう放っておいて!」


「なんでもするなら、俺に守らせろよ」


「は、はぁ!? 意味が分かんないから!」


 菊花は衝動的に大宮を突き飛ばすと「二度とあたしに近寄るな!」と叫びながら逃げ出してしまった。


 大宮はその背中を見送りながら、彼女を守ろうと心に決めた。


 かつての自分への罪滅ぼしの意味もあっただろう。彼女を守る事が使命のように感じられた。


 2人が中学生の頃の事であった。


     ☆☆☆


 高校は県外に行くと決めていた。地元に残るつもりは毛頭なかった。大人も子供もお姉さんも、みなが大宮を煙たがるのだから居心地が悪いし、なにより、


「たっくんと二人暮らしだー!」


 菊花がそれを望んだからだ。


「明るいなぁ、菊花は」


「誰かさんのおかげでねっ。ねえ、ベッドが二つあるのはなんで? シングルベッドなんて一個でいいのに……」


「誰が添い寝なんてするか。もし俺が間違いを犯したらどうするつもりだ? お前は性善説を信じすぎなんだよ」


「結婚したら間違いじゃなくなるよ。それに、たっくんならいつでもいいよ?」


「この小娘……」


 2人は親元を離れて暮らす事になった。菊花はいまでこそ明るいけれど、家ではずっと引きこもっていたと聞くし、学校では本と友達だった。大宮は親にさえ怖がられていたのだから、高校進学を機に追い出されるのは仕方のない事だと思う。


 汚い物は一つ所に纏めてしまおうという両家の思惑が、二人暮らしという形で実現したのだ。しかし、大宮も菊花もそれを悲しい事だとは思わなかった。


 むしろ、人生の新たな門出と捉えていた。


 菊花の小さな体には重すぎるほどの悲惨な出来事であるはずなのに、彼女は健気に笑っている。純粋に喜んでいるらしいのが浮かれた様子から伝わってくる。


「たっくん、たっくん。ソファはどこに置こっか。やっぱりテレビが見えるとこ?」


 荷解きを進める菊花を見て、大宮は、この子を守らねばならないと決意を新たにした。


 それは、所帯を持つ男の決意に似ていた。


     ☆☆☆


 大宮から大宮くんに変わり、大宮くんから辰也に変わり、辰也からたっくんへと変わっていったのだった。


 菊花が大宮を呼ぶときの移り変わりが二人の仲の進展を表している。


 他人行儀な中にトゲを含んだ呼び捨てから苗字くん付けに変わるときに警戒心がほどけ、名前を呼び捨てにし始めた頃には菊花の方から寄ってきた。あだ名で呼び始めたのは二人暮らしが始まって誰かにはばかる事も無くなってからだ。


 大宮は「俺が守る」といった言葉の通り、いつも菊花のそばにいた。その努力が実を結んだという事だろう。


 しかし、菊花は逃げる事が多かった。


「あんた」や「お前」が大宮へと変わるまでがもっとも大変で、2人の関係が追うと追われるから守ると守られるに変わるとき、そこに大きな事件があった。


 大きな川の橋の上で菊花が女子グループに絡まれていた。


 数人で取り囲み、欄干に背中を押しつけて怯える菊花をからかって遊んでいる。


「あんたさぁ、最近大宮と仲いいじゃん?」


「眼鏡かけて黙ってりゃかわいいもんねー」


「大宮に目を付けられてまじかわいそー。あんたもヤンキーの仲間入り?」


 その橋は高い所にあり川との距離は20メートルはくだらないだろうと思われる。川の流れは速く水深は4メートルもあるだろうか。昨日の雨で水嵩があがった川は茶色に汚れ、ごうごうとうねる水の音を聞きながら菊花は震えていた。


 その女子グループは常習的に菊花をいじめている奴らだった。


「ああ、でも、あんたにはお似合いかもね。だって顔怖いし」


「あはは、言えてるー。目つきで人を殺せそうだもんね」


「こうやったら、ほら、こわ~い顔の出来上がり~」


 リーダーの腰巾着らしい女子がおもむろに手を伸ばす。髪を引っ張られるか、それとも「調子に乗るな」と頬をはたかれるかと反射的にそむけた顔から、眼鏡が奪い取られる。


「うっわ~こわ~。こんなブスを好きになるヤツいる~?」


「いないいない。きっと大宮に体使わせてんでしょ? じゃなきゃ誰も好きになんないって」


「やめて、返して!」


「ああ? うるさいなぁ。黙ってなよブス」


 ああ、まただ。またいじめられる。顔をあげたら怖い怖いと罵られて、顔を隠したら見せろ見せろと嘲られる。もう嫌だ。なんでこんな目に遭わないといけないんだ。


「大宮ってあんたの目つきかわいいって言ってるんだっけ? じゃあ、眼鏡なんていらないよね」


 リーダー格がそう言って眼鏡を受け取る。


 視界がぼんやりとしてよく見えないけど、欄干に近づいているような気配を感じた。


「え……なにを、するつもり?」


「捨ててやるんだよ。だって眼鏡が無くても好いてくれる人がいるんだもんね」


 菊花にも良く見えるように大きく振りかぶって、長い髪を振り乱しながら思いっきり投擲とうてきした。


「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇ!」




 まるでレースのカーテンを勢いよく引き裂いたような悲鳴が大宮の耳をつんざいた。


 学校からの帰路だった。


 菊花を探してうろうろしていたけれど見つけられず、今日もダメだったかと諦めて帰っていた時だった。


「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇ!」という菊花の悲鳴が大宮の耳を裂いて、見れば、髪の長い女子が何かを放り投げているところだった。


 それは何か小さい物で、橋から離れた所にぽちゃんと落ちる。


 菊花が顔を覆ってうずくまっているのを見て、眼鏡を捨てられたのだと大宮は思い至った。


「菊花! 大丈夫か!」


 大宮が駆け寄ると、その場にいた全員がビックリしたように顔を向けた。


 間に合わなかったと思うと同時に、どうして彼女ばかり標的にするんだという怒りがこみあげてくる。


 いじめている女子グループの誰もがバツの悪そうな顔で目をそらすのを見ると手が出そうになる。


 しかし、ここで手をあげてしまうと菊花にも被害が及ぶかもしれない。それを思うと大宮にはどうすることもできなかった。


「な、なによあんた。急にでばってきて彼氏面のつもり? 私たちは仲良く遊んでるだけなんだからほっといてよね」


「そうだよ。大宮くんには関係ないよ」


 リーダーらしい女子が口火を切ると、他数人もハッとしたように口を開く。


 いじめる奴というのは決まって「自分は正しい」ことを主張するものだと大宮は思っていた。「仲良しだ」と主張する人間に出会ったのは初めてだ。正しさを訴えるよりも馬鹿げて子供っぽいように見える。


 これに付き合っていたらキリがないとそうそうに悟った大宮は彼女らを無視して菊花に声をかけた。


「菊花、泣くな」


「………………」


「俺がとってくるから、もう泣くな」


「とってくるって……何をするつもり?」


 菊花は信じられないというような表情をした。ごうごうと荒れ狂う深い川。視界がぼやけていても濁流の凄まじさは耳で感じられる。


 まさか川に飛び込むつもりではあるまい。菊花はそれを確認するつもりで「何をするつもり」と訊ねたのだが、大宮はそれには答えず、ただ、


「そこで待ってろ」と、菊花の肩を叩いて、欄干を蹴った。




「おい、なにやってんだよアイツ。あたしら、そこまでするつもりじゃ……」


「あいつが勝手に飛び込んだんだろ!? あたしらは知らない、何も関係が無いからな!」


 菊花をいじめていた女子たちは口々にそう言って、大宮の行動に驚いていたが、


「そうだよ……あいつが勝手にやったんだ。あたしらは関係ないからな!」


 という言葉を免罪符のように吐き捨てて、足早に去って行った。


 大宮が川に飛び込んでからしばらく経つが、上がってくるような気配はない。


 雨で流れが速くなった川。川底の土が舞い上がって視界も悪いだろう。


 菊花はとんでもない事になったと思ったが、ジッとしていることはできなかった。


 手探りで欄干を伝って橋を渡り切ると、地面に手をついてスカートを汚しながらも川べりへと近づいて「おい! どこにいる! 返事しろーーー! 大宮ーーー!」と、声を張り上げた。


 どこまで流されたんだろう。意識はあるんだろうか。


 川が近づくにつれて音が大きくなっていく。怖い。でも、大宮が死んじゃうほうがもっと怖い。


「こっちだよーーーーー! おおみやーーーーー!」


 必死に叫んでいると、近くからざばざばと何かが這いあがってくる音がして菊花に応えた。


「おおみや!」


 菊花はパッと駆け出して、ぼんやりとした人影目がけて飛びついた。


「げほっ、げほっ。……悪い、眼鏡、見つからなかった」


「当たり前だよバカ! もうとっくに下流の方だよ、割れて使えなくなってるよ! そんなことも分かんないの!?」


「だよなぁ……」


 大宮は残念そうに肩を落とした。しかし、菊花にはそれだけで良かった。


 大宮が死んだら自分のせいだ。その思いが強く責め立てて、平常心でいられなかった。


「あんたの命の方がずっと大事だよ! こんな川に飛び込んで、ずぶぬれになって……そんなことされても嬉しくないよ、眼鏡なんていつでも買えるけど、大宮は一人しかいないよ、あんたの代わりなんてどこにもいないよ!」


「ごめんな。俺が守るって言ったのに、こんな事になって」


「だったらもっと自分を大事にしろ! 守るって言うならもうこんな事をするな! 大宮が死んじゃったかと思った。しんじゃったかとおもったよぉ…………」


「菊花……」


 大宮の胸にギュッと抱き着いてわんわん泣いた。恥ずかしいくらい泣いた。


 もともと悪い目つきがさらに悪くなって、しわくちゃになった眉間に涙が溜まる。こんな顔を見せるわけにはいかない。恥ずかしすぎる。


 それなのに大宮は軽い息を吐いて「やっぱり可愛いよ、お前は」と頭を撫でるではないか。


「可愛くないし……」


「お前が何と言おうと、誰が何と言おうと、菊花は可愛いよ」


 安心が裏返ってムッとした菊花は「これでも可愛いかよ」と言って大宮を見上げる。大宮が事も無げに「可愛いよ」と返すので、なおさらムッとした。


 泣きはらして、眼鏡をかけていない事も忘れて、菊花は大宮を睨みつけて思いのたけをぶつけてやった。


「だったら」


「ん?」


「だったらもうあたしから離れるな! 二度と……二度とこんな事するなよ!」


 こういうことがあって、菊花はようやく「大宮」と呼ぶようになったのだ。

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