第76話


 結菜はもう何を言ってもダメなのだと悟った。

 あらかじめこうなることも予想できていたから、覚悟もできていた。だから、結菜は自分の持つボストンバッグを撫でて彼に微笑みかける。歪な微笑みが、今の結菜には精一杯の見栄っ張りだった。


「じゃあ、最後に………。一緒に逃げてください。そうですねぇ。空気が綺麗な田舎なんてどうでしょう?インターネットもまともに通っていなくて、店も少ない田舎の村。そこに移って2人で穏やかに過ごすんです」

「当てはあるのか?」

「わたし専用の別荘があります。昔、ばあやと一緒にやっていた株の運用で購入しました。そこには双葉の娘としてではなく、わたし個人の財産もあります。一生遊んで暮らせるぐらいの稼ぎは残ってるはずです」


 父にも母にも告げていない、結菜だけの場所は昔結菜のお世話をしてくれていた今は亡き家政婦さんが、結菜のために保証人になって購入してくれたもの。


「あと、月に1回はわたしが直々に行ってお掃除しているから綺麗ですよ」

「じゃあ、そこに行こうか」

「はい」


 結菜に押し切られた彼は、ベッドからゆっくりと起き上がって近くにあった制服を身につける。結菜がいるのにも関わらず躊躇いなく服を脱いだ彼に、結菜はとても驚いた。急いで後ろを向いて、彼が着替え終えるのを待つ。


「1度家に帰ってもいいか?」

「もともとそのつもりで来ましたが………、」

「じゃあ遠慮なく」


 着替え終わったらしい彼が結菜の頭にぽんと手を置いたのを感じ取り、結菜は顔を熱くする。


「じゃあ、早速動きましょう。あまり遅くなると電車が止まってしまいますし………、」

「だな」


 彼を連れて看護師さんの巡回経路を掻い潜った結菜は、彼の家へと直行する。マンションに向かう途中、彼は何度も体調を悪くして青白い顔になっていた。その度に結菜は彼の背中を摩り、座れる場所を探した。

 やっとのことでたどり着いた彼の自宅である立派なマンションは、今日も堂々として佇まいだった。 


「お前、いつもはどうやって別荘まで行ってたんだ?」

「タクシーです」

「あぁ………、タクシー………………」

「ですが、今回は節約したいのと電車に乗ってみたいというわたしの希望もあり、電車で行きます」


 結菜が堂々と胸を張った瞬間、ぽーんという間抜けな音が鳴ってエレベーターが彼の住む階に到着した。

 人生2度目の彼氏のお家は、なんだか寂しい匂いがした。

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