第77話
彼に連れられてお部屋に入ると、彼は結菜と同じようにボストンバッグに荷物を詰め始めた。と言っても、彼も結菜同様それほど必要とするものがなかったために荷物はガラガラだった。
「あの、………はるくんがずっと大事につけていたピアスって………、」
荷造りをしている彼の背中に『わたしが昔くまさんのぬいぐるみと交換であなたにあげたものですか?』と続けかけて、結菜はやめた。もし違った時が申し訳なさすぎる。
「そう。お前が俺にくれたやつ」
「じゃあ、このお揃いのピアスは2つ目なのですね」
「あぁ。しかも今回はお揃い」
機嫌良さそうに笑う彼に、結菜も穏やかに微笑む。人生でこんなに穏やかな気持ちになれた瞬間が他にあっただろうかと思いながら、結菜はこの幸せを噛み締めた。常に付き纏っていた双葉の娘という重責も、1番でなくてはいけないという当たり前も、何もかもを脱ぎ捨てたただの“双葉結菜”で荒れる瞬間がこんなにも幸せなものであるとは思ってもみなかった。
「じゃあ、そろそろ行くぞ」
「はい」
結菜同様にボストンバッグを肩にかけた彼と共に、マンションを出発した結菜は歩みを進める。
何もかもを投げ捨てた結菜たちが向かう先に待ち受けているものはまだ分からない。
けれど、結菜にはこれからの人生が、今までの人生よりもずっとずっと輝くものになることだけは、ちゃんと分かっていた。地上にある星の輝きを背に、結菜たちは空に星がある場所へと向かう。
そこではお手伝いさんも、お店も、地位も、名声もない。
だから、ただの“月城陽翔”と“双葉結菜”になった2人には何もできることなんてない。
今までの何十倍も苦労して、痛い思いをすることは理解している。
でも、結菜たちは自由が欲しかった。
羽ばたける翼が欲しかった。
「ゆな」
「なあに?」
電車を乗り継いで、歩いて歩いて、やっと辿り着いた別荘前の浜辺で、ボストンバッグを砂浜に置いた結菜は朝日が登る海をバックに無邪気に笑う。
「俺のお嫁さんになって」
跪いた彼の手にあるのは、ピアスとそろいの柄の指輪。いつ買ったかなんて分からないけれど、多分ピアスを取りに行った際に忘れ物と言ったのがこれだったんだろうなとどこか遠くのことのように思いながら、結菜は涙に潤む瞳で微笑む。
「ふふっ、事実婚ですね」
「あぁ。ダメか?」
「いいえ。幸せです」
たとえ今この瞬間、5日前に戻ることができるのだとしても、結菜はもう1度彼にこう言うだろう。
『ーーー1週間だけ、わたしの彼氏になっていただけませんか?』
と。
その選択が不幸を呼ぶことになったとしても、結菜は束の間の幸せのために全てを捨てるだろう。
「ねぇ、嵌めて?」
「喜んで」
登りくる朝日に見守れながら、結菜と陽翔は永遠の愛を誓い合った。
▫︎◇▫︎
数年後、ある海の別荘にはある幸せな家族が住んでたらしい。
奇跡の人と言われる父と見るからに良家の娘である母に愛されるくしゃくしゃの赤ちゃんは、将来、不治の病と言われた病気を絶対に治る病に変える画期的な医者になるそうだが、それはまだまだずっとずぅーっと先のお話である。
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