第71話
ぎゅっとカルテを抱きしめた結菜は、頭によぎった恐ろしい想像に今唯斗がいるであろう方向に厳しい視線を向けた。
(兄さんはバカなんかじゃない。バカなふりをしていたんです。………わたしを、守るために………………)
兄唯斗は結菜の出自が明らかになるまでは、結菜のことをこれでもかというほどに溺愛していた。そして、天才秀才揃いの医学部卒業生が集うこの家で自他共に認める神童であった。勉強、運動はもちろんのこと、人に寄り添える優しさと人の機微を素早く読み取る敏感さを持っていた。
(………あの頃は兄さんがわたしを庇うたびに、わたしの心象が悪くなっていました。兄さんを誑かした、顔も知らぬ母の愛人そっくりな娘だと揶揄われ、嫌悪されました。そういえばあの頃からです。兄さんがわたしと一緒に過ごさなくなり、………兄さんがお家に寄り付かなくなったのは………………)
今までの勘違いに、兄唯斗を軽蔑し続けていた自分の行動の取り返しのつかなさに、結菜は血の気を引かせる。
遠くなる2つの足音に結菜は足を向けかけ、同時に首を大きく振って立ち止まった。
(いけません、結菜。兄さんがくださった機会を無駄にしては………)
ぐっとくちびるを噛み締めた結菜は、またカルテを1冊1冊丁寧に出して読んで横に積むという作業を再開する。途方もない作業であるはずなのに、苦しい作業であるはずなのに、罪悪感で押しつぶされそうだったはずなのに、不思議と苦しさを感じなくなっていた。それどころか、どこか晴々としている気がする。
(そっか………。わたし、苦しかったんですね。兄さんに無視されて、疎遠になられてしまったことが)
新たなカルテに目を通しながら、結菜は自分の情けなさに苦笑する。
(ありがとうございます、兄さん)
この感謝が兄唯斗に届くことは決してないだろう。けれど、どうしても伝えたいと、顔を見たいと思ってしまった。
また新たなカルテを手に取った結菜は、その表紙を見た瞬間に目を見開いた。これだけ膨大な量のカルテの中で本当にカルテが見つかるとは思っていなかった。だからこそ、結菜の驚きはあまりの勢いに自分の横に積んでいたカルテのタワーをぶち倒してしまうほどだった。
『月城 陽翔』
結菜の握るカルテの表紙には、大きな文字でそう記されていた。
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