第58話



 彼に連れられて学校を出ると、彼は迷いのない仕草で歩き始める。

 その堂々とした佇まいが、雰囲気が、精神力が、結菜には心底羨ましい。結菜にはない才能が、大胆さが、彼を彼たらしめているのはわかっている。結菜にそれが身についたとして、その身についた人間が結菜であり続けているなんて確証はないし、性格がかわってしまったあとの個人をその人と言い続けることにはどこか無理がある。


(………わたしは、あなたがどこまでも羨ましい)


 人間がないものねだりな欲深い人物であることはよく知っている。それなのに、止めることができない。よく深くあることを、ないものをねだることを。


「このバスに乗るが………、切符の買い方は分かるか?」

「馬鹿にしないでくださいと言いたいところですが、もちろん知りません。そういう時は執事に車を出してもらっていましたので」

「だよな。じゃあ、初めてのバスだな」

「はい」


 くちびるが綻ぶのを感じながら、結菜はバス停なるところのベンチに腰掛る。青いプラスチック製のチープなベンチは座った瞬間にぎいっというちょっと嫌な音を立てたが、その後はとてもいい子だった。そこが抜けることも、プラスチックがボロボロ剥げることもない。地味に屋根によって遮られた日光を隙間からぽかぽかと浴びながら、結菜は汗ばむ額に手を伸ばす。


(もうすぐ夏、ですか………)


 結菜は夏が嫌いだ。

 蒸し蒸しするし、汗で服がびちゃんこになるし、運動会や文化祭など集団で行動しなければならない面倒くさい行事も詰め込まれている。水着を着た時の周囲の視線もしんどいし、正直に言って苦痛な季節だ。夏休みにはボッチを思い知らされる。


「おい、バス来たぞ」

「あ。………はい」


 ふわっと微笑んだ結菜は、陽翔に手を引かれるままに立ち上がり、お菓子の箱みたいなバスのステップに足をかける。彼に案内されるままにバスの奥に入って座席に座ると、ふわっとしたクッションが結菜の身体を支えてくれた。あまりにもいきなりにもこもこした感触に触れたために、結菜はちょっとだけびっくりして目を見開いてきゅっと背筋を伸ばした。


「ははっ、そんなに緊張しなくても………、」

「………す、すぐに慣れますので………、」


 ぽんぽんと頭を撫でられながらバツが悪そうに目を伏せた結菜は、声をひっそりと抑えておしゃべりする彼に合わせて静かに声を返す。なんだかそれが秘密のおしゃべりみたいでとってもわくわくした。


 初めてのバスは終始緊張してしまったけれど、バスの中でずっと彼と手を繋いでいられた結菜はとても幸せな時間を過ごせたのだった。

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