第56話

「じゃあ、昼からはもっと思い切ってサボるか?」

「そうですねぇ。それも楽しそうです」


 やっぱり屋上で遊ぶのはやめたと言わんばかりの雰囲気で結菜と陽翔の鞄を持ち上げた彼に、結菜は穏やかに微笑んだ。泣いたおかげか、異常なまでに心が軽くて、自分自身が自由になった気がする。


 変な気分だ。


 どんなに昔を振り返ったとしても、結菜にはここまで自由だった時間はなかったはずだ。

 人生で最初で最後になるであろう自由は、自由すぎて困ってしまうし、今後の不自由を思えばするべきではないのだろう。でも、分かっていても、抗えないくらいに自由というものは尊いものだった。


「明日はちゃんと授業を受けて、そして………、どうしましょうか?」

「………公園とプール、居酒屋なんかどうだ?今日はショッピングモールとファミリーレストランに行くし、あと行きたいところは公園、プール、海水浴場、祭り、居酒屋、屋台だっただろ?」

「素敵です」


 頭の中で思い浮かべるだけで、心の中がぽかぽかと暖かくなって、気分が高揚してくる。


(幸せです)


 ふわっと微笑んだ結菜は、彼と一緒に保健室を静かに旅立つ。

 先生に見つからないように気配に気をつけながら歩くというのは存外楽しくて、ハラハラドキドキする。


「ーーーそういえば、今日は双葉が体調を崩して保健室に行ったらしいぞ」

「あら、珍しいですね。双葉さんはこの学校の模範生徒。学校で体調不良を訴えるなんてこと今までにありませんでしたのに」


 靴箱が目の前に迫る曲がり角、結菜と陽翔は先生たちの話し声を耳ざとく聞きつけて立ち止まった。ひゅっと息が詰まる音と共に、足がわずかに震える。

 悪いことをしているという罪悪感と見つかったらどうしようという不安感が胸の中を支配してどくどくと心臓が早く脈打つ。


 こんなに緊張するのは人生でも初めてかもしれない。


 結菜の人生は常に緊張と恐怖が隣り合わせだった。

 1番以外を取ることを許されず、失敗も許されない。模範であり続けなければならないし、失敗しては捨てられることも重々承知していた。


 だからこそ、結菜は努力し続けた。

 模範的であろうと、優秀であろうと、1番であろうと。

 努力して努力して努力して、やっと手に入れて、けれど、結菜に誰かが笑いかけてくれることなんてなかった。


 誰もが結菜のことを憧れの眼差しで見た。

 誰もが結菜のことを“特別”であると見た。

 誰もが結菜のことを憐れんだ。

 誰もが結菜のことを蔑んだ。


 誰もが、結菜のことを同じ人間であると見てくれなかった。


 結菜は今、一生懸命に、今までの人生全てを賭けて構築してきた、作り上げてきたものを捨てようとしている。手に入れるのはとてつもない労力を必要として、身体を痛めつける必要があって、とっても苦しくて、悲しかった。

 けれど、捨て去るのはとても簡単だった。ドブにおもちゃを捨てるのと一緒で、一瞬でできて、簡単にできる。


 でも、絶対に取り戻せない。


 ドブに捨てたおもちゃを取り戻すにはドブを攫う必要が出てくる。そんなこと、お金と時間がなかったらできないし、お金と時間は優等生でないと正攻法では手に入らない。

 だからこそ、今捨ててしまえば、結菜はもう一生“模範生徒”という立場を、“優等生”という立場を取り戻せない。それどころか、明日が最終登校日になる可能性が高いのだから、今この瞬間がそう言われる最後なのかもしれない。


「ゆな?」


 不安そうに、心配そうに、彼が結菜の顔を覗き込む。


(わた、し、は………、)


 目の前がいきなり真っ暗になるような心地を覚えた。

 足元がおぼつかなくなって、どろどろの闇に飲まれて行く感覚。人生で何度も何度も経験した、抜け出せなくなる感覚。自分自身を律し、悪い方向に、踏み外した道に進ませないようにする感覚。


 精神がぼろぼろに崩壊していく。

 痛い、苦しい、寂しい、悲しい、辛い、そんな感覚が頭の中でを駆け巡る。


(たす、けて………、ーーーはる、く、ん、………、)

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