ロスト

森音藍斗

ロスト

 言葉を失ってしまう。

 そういう体質というか、性格というか、性質であることに、はじめて気がついたのは高校生のときだった。

 はじめての恋人に、別れようと言われたのは突然だった。どうすればいいかわからなくて、何を言えばいいかわからなくて、真っ白な頭でただ、そっかと答えた。思考力が回復したのは、帰宅したころだった。もっと何か言えただろうと後悔して泣いた。どうして急にとか、悪いところがあったら直すとか、私は別れたくないとか言えたら、もしかして別れずに済んだ未来もあったのかと思ったけれど、そのときは本当に何も出てこなかったのだ。物わかりがいいように見えたかもしれない。その実、ただ馬鹿なだけだったのだ。それから彼とは一度も口をきかずに、高校を卒業した。

 次にこれはまずいと思ったのは、大学入試のときだった。ありがたくも数限りある学校推薦枠で受けさせてもらった面接は、惨敗と呼べるまでの失敗を果たし、その落ちたはずの大学に、一般入試で普通に受かった。面接の練習も高校の先生に散々してもらったのに、準備してきた質問――例えば自分の名前とか、テンプレートな志望理由とか――にはそつなく答えられるのに、想定外の質問をされた途端、頓珍漢な答えを返すでもない、全く声が出なかった。私が面接官でも私を落とすと思った。

 この不条理な現象は、そのシチュエーションが重要であればあるほど出現率を増し、そして症状が酷くなるようだった。就職活動では、志望度が高い企業の面接であればあるほど私は声を失った。落ちて落ちて落ちて、いい加減うんざりしていたころ、本命と本命の間でぽっかり受けた滑り止めにあっさり内定をもらい、今はそこで働いている。今となっては上司となった当時の面接官の、すべての質問に平常心で――正直に言ってしまえば、雑に――答えたことだけ覚えている。もちろん面接がすべてではないだろうけれど、ちゃんと答えられさえすれば受かるのだと思うと悔しくもなる。面接会場を出てからなら、とめどなく言葉が溢れてくるのだ。こう答えれば好印象だった、こう切り返せば求められる人材像に適合できた、それくらいわかるのだ、落ち着いて考えられさえすれば。


「なーるほどねぇ」

 目の前でコーヒーを啜る彼――三十代男性、平凡な会社員、私の大学時代からの旧友であり、いちばんの親友――は、目を閉じて、うーんと唸った。

「それは大変だね」

 彼とは大学一年のときから、何だかんだと十年の腐れ縁が続いている。

「そうなの。困ってる」

「困るだろうさ」

「というか、もう困り終わってるのかも」

「困り終わってる?」

「だって」

 私もコーヒーを啜るけれど、これは決して彼の真似をしたのではなく、私もコーヒーをオーダーしたのだから、必然の流れだった。

「進学とか、就職とか、人生の大きな分岐点って、もうだいたい過ぎたじゃない?」

「そうか?」

 彼が同調してくれなかったことに私は驚いた。同い歳、お互いを横目に見ながら就活や仕事のステップを通過してきた者同士、同じ感覚を抱いていると思っていた。

「まだ人生いろいろ変わるだろ」

「転職するってこと?」

 考えていないわけじゃない。もともと志望度の低い企業に就職した以上、あまり仕事に対するモチベーションは高くなかった。この仕事が天職と思ってバリバリ働いている同僚にちょっと引いているし、ちょっと引け目も感じている。就職しておきながら、社会に必要な仕事だと理解していながら、のめり込めないなどと甘えたことを言っている。

 けれど、本当に興味がある企業の採用面接を受けたら、またばったばったと祈られるのだろうと思うと、まあいいかとも思ってしまう。別に生活が苦しいというわけではないし、病むほど嫌というわけでもない。

「いや、まあ、転職もだけど」

 しかし彼は、転職から話の主題を逸らした。

「結婚とか、子どもとか」

「あー、結婚」

 縁が無さすぎて思い至らなかった。

「あんた、結婚するの?」

「今のところは予定はない」

 だと思った。恋人すらいないくせに、偉そうに。

「私も予定はないね」

「そうか」

 知っているくせに、やけに神妙な顔をする。

「けど、いつかはするかもしれないだろ」

「どうだろう。可能性の話をすればそうだけど、かなり低いんじゃないかな。出逢い、ないし」

「出逢い、ないな」

「うん」

 社会人になって気づいたけれど、三年ないしは四年で人間関係が入れ替わっていた学生時代と違って、大人というのはやけに恋愛のハードルが高い。職場でトラブルはごめんだし、職場の外で人間関係を新たに構築しようとすれば、大学時代の友人如何がモノを言う。もしくは金を掛けて習い事を始めるとか。どちらにせよ、学生時代は楽だった。

 社会人になってから、一度も恋愛沙汰がなかったと言えば嘘になる。しかし大抵は体目当ての下衆な男で、それ以外はすべて私の一方的な片想いだった。本当に好きになった人の前では私は何も言えなかったから、片想いは、残念ながら片想い以上の何かになることはなかった。

「結婚とかはどうでもいいのよ」

 私はテーブルに肘をついた。目を伏せていた彼は、ふ、と顔を上げた。

「私は、私がだいじなときに限って何も言えなくなるのを何とかしたいという話をしている」

 若いころはアガリ症で許されていた、時と場合によってはチャームポイントとして扱ってさえもらえたこの悪癖も、アラサーとなってはもはやただの気持ち悪い挙動不審である。

「そうだったね」

 彼がまた視線をコーヒーに戻した。

「君にはじめて声を掛けたときのこと、思い出したよ」

「……恥ずかしいから思い出さなくていい」

 言われて私も思い出した。大学に入って一か月ほどが過ぎたころ、クラス単位で受ける必須単位の授業でグループ課題が提示されて、当時の私には一緒に課題をやってくれる友達なんていなくて、途方に暮れていた。誰かに声を掛けるハードルを考えたら、今期の単位を一旦落とすことすら選択肢に上がった。授業の終わった教室から、一人、二人とクラスメイトが去っていく中、声を掛けてくれたのが彼だった。

 彼のことは、一方的に認識していた。よく発言や質問をしていて、いつも人に囲まれていて、キラキラした大学生、私とは世界が違う、こういう人は「好きな人とグループを作ってください」に困ったことなんてないんだろうなと思っていた。

 一緒に課題やる? と声を掛けてきた彼に、何が起こったかわからなくて、何も言わずに教室を飛び出したのを覚えている。その後、わざわざ学食で私を見つけた彼が、もう一度声を掛けてくれたのを覚えている。

「あのときの君は可愛かったなあ」

「……可愛いもんですか」

 可愛いなんてのは、稀に見る人格者の感想でしかない。普通そんな反応をされたら気分を害するし、普通、社会的に、あのときの私の態度はかなり失礼だ。

「ただの社会不適合者だよ」

「この子、僕のこと好きなんじゃないかと思った」

 心臓が止まったかと思った。

 緊張しすぎると声が出ない私だけれど、びっくりしすぎてもやっぱり声が出なかった。

 コーヒーを何の気なしに眺めていた彼が、何も言わない私を窺うようにゆっくり顔を上げるまで、私は何も言えなかった。

 いや、何も言わないのはまずい、まるで肯定しているみたいだと、私は懸命に声を振り絞る。

「ば……っかじゃないの」

 入れ違うように私は顔を伏せて、回らない頭で、出ない声を、必死に振り絞る。

「別にあんたが……とかじゃなくて……誰にだってそうなんだって、話を、今、」

 顔が熱くなる感覚、逃げたあの日もそうだった。

「そうだね」

 彼は思いのほかあっさり引き下がった。私は彼を見た。彼の微笑は変わらないようで、少し悲しそうにも見えた。

「誰にだってそうだし、僕に関しては、もはや違う――いや、違う以下、かな」

「……以下?」

「だって、君が僕と話せているということは、言葉を失っていないということは、つまり君は僕のことをそれほど重要視していない、どうでもいいということだろう?」

「何、それ」

 彼の声は、まるで頭上を上滑りしていくように、私の思考力を削いでいった。

「出逢ったときからここまで僕を知ってきて、緊張するまでもない人物だと、評価している」

「……違う、それは違う、」

「何が違う? どう違う? エビデンスは?」

「私は、あんたをだいじな親友だと思ってる、」

「と、思い込んでいる。けれど深層心理では違う、と」

「そんな……」

 別にだいじな人と話せないというわけではない。恋人とだって、普通の会話はできていた。言葉が出なかったのは、不意打ちに振られたときだけだ。

 後から考えれば私はそんなふうに落ち着いて説明ができるのに、そのときの私は頭が真っ白で、何をどうしても思考が滑って、意味のある言葉を発せそうになかった。

 あ、私、今、駄目だ。駄目なやつだ、これ――

「――悪い、意地悪言った」

 ああ、そうか、そんなふうに論破しようとしなくたって、意地悪だね、でよかったんだ。

「べ、つに、」

 私はそう答えた。別にって何だ。別にいいって? いいわけあるもんか。大切な親友に、そんな悪意を向けられて。ちゃんと怒れていたら、その後の会話はどちらに向かっていただろう。今となってはわからない。その未来は知り得ない。だってもう、逃してしまったから。

 そう、例えば――

 酷いよそんな意地悪を言って。

 私のことだいじにしてくれないのはあんたのほうでしょ。

 私がそう詰れば、優しいあんたはきっとこう言う。

 悪かったって言ってるじゃんか。僕は君のことだいじに思ってるし、君が僕のことだいじに思ってくれてるのもわかってるよ。

 それに私はこう返す。

 ほんとかなあ。だいじに思ってる、と思ってる、けど深層心理では違う、と――

「僕は待てるよ」

 私の思考を遮ったのは、彼の声だった。

 霧がかかった景色に差し込む一筋の陽の光のように、静かに降ってきた。

「だから、怒っていいよ」

 彷徨ってぼやけていた焦点が、ようやく彼を捉え直した。彼は気まずそうに顔を背けて、音を立ててコーヒーを啜った。それからずっと何も言わず、不貞腐れたように頬杖をついていた。

 私はやっぱり言葉が出てこなかった。

 怒ってないよとか、気にしてないとか、言うことなんてないとか、咄嗟に浮かぶ誤魔化しの言葉をすべて喉の奥に押し込んで余りある時が流れて、五臓六腑が締め上げられるような、四肢の先が冷たくなるような緊張を私がようやく宥めるまで、時計の短針が動いたのがわかるぐらいの時間が過ぎ、彼はその間ずっと黙って待っていた。

 私は大きく息を吸って、失った言葉を探し当てようと試みる。

「悲しい」

 久々に私たちの間を埋めた音に、彼が視線を動かした。

「意地悪言われて悲しいよ」

 ああ――言えた。

「ごめん」

「ううん、いいの」

「よくないんだろ」

 そうだ。――よくないから、言ったのだ。そうだった。

「うん、よくない」

「うん」

 相槌、のみ。

 そして彼は再び黙る。無言が空間を支配する。わがままな私に呆れただろうか。物わかりの悪い私に愛想尽きたのだろうか――

「……何か言ってよ……」

「え? あ、」

 彼が驚いたような顔をした。

「ごめん、まだ続きあるかと思って」

 あ、なんだ。

 待ってくれてたのか。

「僕もう喋っていいやつ?」

「……どうぞ」

 喋るの許可制なのか、変なの、と一瞬思ったけれど、許可制にしないと喋ることすらできない私に合わせてもらった結果がこれなのだった。

「じゃあ、言うけど」

 彼が急に居住まいを正して、私は身構える。

反撃が来るか。

「ゆっくり待ってる間に、僕もいろいろ考えた」

 私はどきどきしながら彼の言葉を待つ。脳みそフル回転。彼の言葉に、私はちゃんと対応できるだろうか。言葉に言葉で返せるだろうか。

「君は咄嗟に言葉を返すのが苦手ってことだけどさ、それってすごく誠実だなって思った。だって、僕も咄嗟に何て返したらいいか混乱することなんていくらでもあって、そういうとき、適当に思い浮かんだこと言って濁しちゃうから」

 それはそうだろう。そういうものだろう。基本的に社会人というのはそれができるもので、そうやって社会は回っている。それを私はできないのが、嫌だという話をしているのに。

「そうやってその場凌ぎのために……だいじな人を傷つけちゃってさ。駄目だなって思ったよ」

 彼が目を伏せる。その頬が、心なしか赤いように見えた。

「僕が咄嗟に言った言葉がよくなかったことも、どうしてそんなこと言っちゃったのかも、本当はどうしたかったのかも、ゆっくり考える時間をくれたから、自分と向き合えた」

「そんなつもりじゃなかったけど、」

「わかってるよ、それでも」

 ……そう。

「だから、君は自分がいい性格してるって自信持っていいと思うし、ありがとう。それだけ」

 ……それだけ?

 それだけ?

 もっと続きがあるのかと――

「今はそれだけにしとくけどさ、」

 続きを期待していた自分に気づく。

 どうしてそんなこと言っちゃったのか、本当はどうしたかったのか。その答えについて、自分に都合のいい期待をしていた自分に、私は気づく。

「近々、だいじな話をするよ」

 彼の声は微かに震えていた。

「そのとき、僕は君がフリーズしてもちゃんと待てるって、覚えておいてほしいかな」

 私は何も言えずに俯いた。

 彼が見せた真剣な眼差しに、ただ、言葉を奪われて。

 逃げるように顔を伏せた私を彼がどう捉えたかは知らないけれど、彼はずっと黙っていた。私がようやく顔を上げて彼の様子を窺うと、ばっちり目が合ってしまって、今度は私が逃げる前に、彼が照れたように目を逸らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ロスト 森音藍斗 @shiori2B

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る