第13話:やっと分かった

あらすじ:そなたは祥太にすすめられるまま、失恋の苦しみを込めたオン・マイ・オウンを歌いきる。ようやくそなたは母親が言った言葉を理解するのだった。


◆◆◆◆



 俺はもう一度名前を呼ぶ。そなたは黙った。


「お前なら、子役のお前なら分かるだろ? お前と冬木翠の役だよ。レ・ミゼラブルのエポニーヌの歌。あれを俺は今、ここで聞きたいんだ」

「私と翠さんの、歌――」


 俺はうながすようにうなずく。


「今のお前の気持ちで、歌ってほしい」

「……チケットも買わないで、子役の演技を見ようなんて生意気」


 そなたはため息をついた。目を伏せて、地面の石をけ飛ばす。でも顔を上げた時、そなたは子役の顔で笑っていた。


「いいわ。特別に今回だけリクエストに応えてあげる。感謝しなさいよ」

「ありがとう」


 一歩そなたは下がった。周りを見る。今だけはここがそなたの舞台だ。俺とそなただけのステージだ。


「少し黙って。集中するから」


 そなたは軽くほほを叩いて気合いを入れる。二、三歩歩いて遠くを見た。ものすごい勢いで、自分の役に入っていくのが見ていて分かる。ちょっと怖いくらいの集中力だ。すっ、とそなたが息を吸い込むのを感じた。役に入っていくそなたに、俺自身が引き込まれていく。その歌の題名は「オン・マイ・オウン」。


 ――そなたは歌い始めた。


 レ・ミゼラブルのエポニーヌの歌。運命を嘆くように、夢破れたように。水中でおぼれるような苦しみに満ちた歌。そなたが子役で演じ、そなたがあこがれる冬木翠が演じるエポニーヌの最大の見せ場の歌「オン・マイ・オウン」。そなたはここが自分の舞台であるかのように、スポットライトが当たっているかのように歌う。


 エポニーヌが心から愛した人、マリウス。しかしエポニーヌの愛は彼には届かない。マリウスはコゼットを愛していたのだ。それを知って、愛する人の幸せを願って身を引くエポニーヌ。失恋の悲しみと辛さが込められたエポニーヌの歌う「オン・マイ・オウン」。俺は一言も発せずにそれに聴き入った。ただひたすらに、その歌詞と感情にひたった。


 そなたは舞台の時と同じように、心を込めて歌った。演じるエポニーヌとして、そして、自分もまた失恋した一人の少女として――。やがて歌が終わる。そなたは立派に最後まで歌い終えた。俺は座ったまま静かに拍手した。それしか、それ以外考えられなかった。そなたは一人の子役として、笑みを浮かべてカーテンコールの時のように一礼した。


「すごくよかった」

「ご清聴ありがとうございました」


 よそ行きの言葉だったけれども、それが弱さを押し隠したプライドだと分かった。


「やっと分かった」


 そなたがつぶやいた。


「ママが言っていた『私が本心から演じてない』って言葉。レ・ミゼラブルのエポニーヌは、今の私なら、あの役を今までの私みたいに演じることは無理よ」

「そなた――」


 俺は何かを言おうとして、結局言葉が見つからなかった。そんな俺を見て、そなたは笑った。それは子供らしい笑顔だったけれども、その奥に悲しみが隠れているのは明らかだった。


「なんか、すっきりしちゃった」


 そなたは両手を後ろに回して、空を見上げた。雲の切れ間から青空が見えた。その青い空をそなたは見ていた。やがてそなたは言った。


「でも、本気だったんだよ、佐藤が好きだって心は」

「ああ、そうだろうな」

「子役だからいっぱい演技するし、いっぱい本心とは違うことを言ってきた。でも――あの好きな気持ちは、本気だった」

「そうだよな」

「本当の本当の、私の本気の本気の言葉。――でも、でも、通じなかった」

「そうだったな」

「――こんなくやしくて悲しくて、どうしようもない気持ちって、本当にあるんだね。今初めて――知ったよ」


 そなたは涙声だった。そのほほに、涙が伝っていた。俺はただそなたを見ていた。


「レ・ミゼラブルのエポニーヌも、こんな気持ちだったのかな?」

「きっとそうだ」


 俺は簡単な相づちしか打てない。でもそれでいいはずだった。


 演劇を知らず、そなたのことも「公園で会う子役の女の子」としてしか知らない俺は、これが踏み込める十分なラインだったはずだ。でも、俺もまたそなたのように、やるせない気持ちを抱えていた。この子の恋が実らなかった痛みと苦しみを、共感していた。だって、俺だって似たような痛みと苦しみを味わったからだ。


「そなた。おいで」

「うん」


 そなたは俺の隣まで歩いてきて、ベンチに座った。俺は何も言わず、そなたを抱きしめた。そうすることしかできなかった。でもきっとそれは間違っていなかったと思う。


「祥太……私、くやしいよ」

「ああ、俺もだ」


 俺がそう言うと、そなたは声を上げて泣いた。泣きながら何度も「くやしい、くやしい」と繰り返した。俺もそうだった。


 舞台の人物に夢中になって涙を流すように、俺もまたそなたの涙によって涙を流していた。思えば、泣いたのはあの時、そなたに「いくじなし」と言われた時以来だ。あのくやしさは、今のそなたの味わった気持ちなんだ。


(……俺だって、少しはこいつの気持ちが分かるじゃないか)


 俺はそなたの小さな肩を抱きながら、かすかに安心していた。



◆◆◆◆



 存分に泣いた後、そなたは俺の肩を押した。俺は手を離すと、そなたの小さな体が離れる。


「もう離れてよ。誰かに見られたら困るから」

「警察呼ばれるかもな、俺が」

「そうしたらちゃんと説明してあげるから安心して」


 軽く鼻をすすってから、そなたは顔を上げた。


「ハンカチいるか? お前が一度貸してくれから、今度は俺が貸してやるぞ」

「大丈夫、自分の持ってるから」


 そなたはあの時俺に渡したのと同じ、チェックのハンカチをポケットから取り出して、涙をぬぐった。


「うん。これで本当におしまい。もう失恋したことは引きずらない」


 自分にそう言い聞かせるそなたの姿は、さっきまでの悲しみに押しつぶされそうな姿ではなかった。俺はその言葉を聞いて、ほっと息をついた。


「ありがとう、祥太」


 そしてそなたは公園にある時計を見る。


「私そろそろ帰らないと」

「そうか。俺も帰るよ」


 俺たちはベンチから立ち上がる。俺が先に歩き出して、後ろからそなたがついて来る。公園を出て、交差点へ。歩道を歩いている時、自転車が俺たちを追い抜いていった。何一つ変化のないごく普通の日常。それがまた続こうとしていた。


「じゃあね。今日はありがとう」


 そなたが信号で立ち止まり、手を振る。


「ああ、またな」


 俺は歩きながら手を振り返す。世の中は何も変わらないのに、俺たちは何かが変わろうとしていた。俺はまた、頭の中で想像していた。そなたが男の子に告白して、ふられた場面だ。けれどもやはり、その場面は舞台の上のワンシーンのままだった。



◆◆◆◆



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