第19話 幕引き


 雨が隆々とした音を鳴らす。

 屋根に垂れ、雫をおとす風雨の音に、しだいに清浄な響きを感じていた。


 憑き物がおちた、とでもいうのだろうか。無味乾燥だった空気すら、どことなく爽やかな味わいさえおぼえる。感覚に鮮やかさがもどる。


 しかしながら、眼前にはいまだ濡れ鼠の怪異は存在し、不気味なほど静謐をたもっている。取調室にすえられた容疑者のように、緘黙し、それでいて隙をみせないように目がしきりにギョロつく。


 思考しているのだろう。――企みが、すべて破綻してしまい、いま自分が取り得る手段を逡巡している。


 或いはまた、そのような冷静沈着な思索など、この怪物には有り様筈もなく、ただ自分を苛む不快な状況下を、どう切り抜けるか、しかもそれは、どのように事態を決着させるかよりは、どういう風にすれば、感情的に満足するか、その一念に執着しているようだった。


 まさに獣というべきそれは、しだいに弱まっていく夜雨に従って、みにまとっていた不可思議のベールを剥ぎ取られ、容赦ない静寂によって、その浅ましい人格を精査されるにつれて、その人物本来の生々しく、度し難い感情に彩られた本性が、剣呑な両眼にぎらぎらと宿っていく。



「天罰を」


 それはいう。これまで明け透けに真相を突きつけられても尚、むかしとった薄汚い杵柄を誇るように、神の代弁者として降るまい始めた。


「天罰を」


 しかし、やはり壊れたのだ。自らのオカルトを弁護する三百代言のかわりに、つぎはぎだらけの虚栄心と自尊心とを、いまだパッチワークのように、その襤褸となった神の衣にはりつけて、いまだ神聖ありと言わんばかりに、言葉を弄せず、一声を尽くして、すべてが万事解決すると思っている。


「天罰を!」


 あるいは悲鳴なのかもしれない。もはや万事休した彼女は、天にむかって采を投げるかのように叫ぶ。だが起死回生の一手に賭事を選んでいる時点で、すでに勝敗は喫している。――彼女はもう、零落しきった落魄の神だ。



「もしも」


 糺川がいう。彼女は教義の滅茶苦茶な野良巫女を見下す、神の一柱のように、胡座をかいた脚に肘をおき、頬杖をつきながら見下ろしていた。


「それが合図なら、残念だけれど無意味だよ」


 そういって彼女はオレたちの後ろを指をさした。

 するとそれが合図だったように、ぱっと燃えるような光が背後から放たれ、ふりかえれば、眩いばかりの光の中に、制服を着た警官達が、拝殿に敬礼するかのように屹立していた。


「あ」


 と、オレが洩らした声は、神の尖兵かのように光をあびて佇む彼等の神々しさに、たまぎるような衝撃をうけたために発せられたものだったが、その声に、どこか淋しさがにじんでいたのは、警官達の前に、罪人のようにすえられた五人の男女だった。


 小説家の綿辺わたべ和之かずゆき

 NPO法人から出向している教育委員会主任朝霧もとなが水樹みずき

 担当医の精神科医麹町こうじまち久光ひさみつ


 そして叔父の土井どい善継よしつぐのとなりに、這這の体のように身体をおりまげて、うなだれながら、動揺した目を、狂ったようにあちこちに走らせる母の橘千代美――。


 彼等はお白洲に引き出された罪人のように立ち、自分たちの首領たる八幡平が、おなじ煉獄に落とされる様を、じっと眺めていた。ただ唯一、錯乱を来していた母だけが、眼窩のなかでピンボールのように跳ねていた眼球で、こちらを見たとおもいしなに、時をつげる鶏のように叫んだ。


「――Alpha様!! 逃げてえ!」


 その声は、あまりにも必死で、祈るような声で――。


 オレの中にあった、かたちの歪な、それでも太く、強靱だと思っていた朱い糸を、ぷつりと断ち切った。たちまち、いままで張り詰めたものが千切れたように、立ち眩みめいたものをおぼえた。――そしてそれを、八幡平という獣は見逃さなかった。


 さっと駆け出して、オレに取り憑いた。


 周囲は騒然となり、警官達が色めき立つ。さしもの糺川碧も、ある種、想定できる展開だったために、じぶんの手落ちを悔やむように、「はなせ!」と吼える。


「お前達は間違えを犯した。故に、この男に天罰を与える」


 彼女は錯乱したように叫び、オレを警官たちの楯にして、じりじりと境内に出られる柵の扉まで後退る。


 その場にいる誰もが、額に雫がうかんだ。雨のせいではない。おそろしい予感のせいだ。――八幡平はもはや狂乱をきたしているとはいえ、自分の置かれている状況がかぎりなく悪く、打開策がないことぐらい、分かっている。そんな自暴自棄めいた彼女が、このような高台の神社で人質を縦に後退るとして、おそらく唯一のこった方法は、見せしめとして、人質といっしょに飛び降りることぐらいだろう。


 警察官の怒号があふれる。

 探偵も叫び、オレの耳後ろで、犯人もヒステリックにわめく。


 もはや万事休す。そう思いながら、八幡平が柵の扉に手を掛け、拝殿と境内の、いっそう暗い隅に立った瞬間、本殿にたち、警察の投射された光に照らされた糺川の顔が、さらなる驚きによって見開かれたのを、オレは茫然とした瞳でとらえた。


 その刹那、ふっと風邪がよぎったとおもうと、オレを掴んでいた八幡平の腕がずるりとおちた。腕だけではない、そのまま彼女は人事不省におちいったように、そのばに頽れた。


 振り返れば、そこにはもうひとり、長身の女性が、影法師のように立っており、伸ばした右手の手刀をポケットにおさめているのがみえた。顔はみえない。しかし、どこか微笑んだのがわかった。


「今見たのは秘密だぞ、少年。警官はひとを殴っちゃいけないからね」


 影法師の彼女は、糺川探偵に似た、銀鈴を振るような声で囁くと、いままでの健闘をたたえるように、もう一度、微笑んでみせた気がした。

 

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