第16話 糺川探偵の降霊 3/3
ことばというものを、勘違いしていた時期がある。
ことばは、他人とのコミュニケーション手段として、ひとが幾万年の歳月をかけて磨き込んできた傑作だ。見聞きしたものを、見聞きしていない人へ伝達するというのは、それだけで他の生物を超越し、有利に働く手段だった。
本、映画、漫画、SNS――。そこには多くのことばが溢れかえって、ひとびとを繋ぐけれど、しかしながら、よく失念されているのは、そのことば自体の効力よりも、だれが発言したことばであるか、という部分が価値の大半を占めることだ。
もっと極論めいたことを述べるなら、ことばの内容に、大した意味はない。あるのはだれが、だれにむけて語ったか。卑賤な聖人の金言より、金満家の綺麗事のほうが、ひとは好むように、ことばより、その発言者に価値が依存するようだ。
それを逆説的に考えてみる。オレは遭って一日と経っていない糺川碧の胡乱な物言いに、風雨のように晒されている。逃げ惑うように軒下に入り、ふと門前の灯りを見上げてみれば、そこにかかげられた扁額に『糺川』と刻まれていることに気づかされたように、おどろくほど彼女の言動に振り回されている。
つまり、彼女のことばに右往左往しているオレは、彼女に一定の価値を――それが悩乱するような動顚の連続だったとしても―― 一種の敬服をもって、認めているということになる。
(まさか――)
失笑がこぼれる。
むろん、自分にである。
オレは雨あられとばかりに、自称探偵から、丹念なまでの仄めかしを降らされて尚、彼女の意図に唯々諾々と従い、現在、スーパーマーケットの青果コーナーもかくやとばかりに盛られた供物を奉じられた神社の本殿を前にして、茫然と座椅子にすわりこんでいる。
「そろそろ、嵐も来そうだし。じゃ、そういうことだから」
彼女はあっけらかんとそういって、からんころんと木沓をならしながら、左側面の柵扉から出ていった。天通眼でもあるのか。しっかりと紅色の番傘をさして、社務所にさっていく。
オレはいま、拝殿にひとり、篠突く雨音を聴きながら、ただ、じっと何かを待っている。
(なにが、そういうことだから、だ)
オレの心中は察してあまりある。憤懣やるかたないものが、ぐつぐつと肚の底からわきあがって、不平不満が噴き出しそうだが、それをぎりぎり閾値付近でとどめているのは、やはり、彼女の言行であった。
「では、降霊会を始めよう」
今思えば、あまりの肩透かしだ。こちらに緊張をしいておいて、何をするかと思えば、――実際は何もしない。
(いや、なにもしないわけじゃないか)
降霊会の開始を告げた探偵は、去る前に、ひとつ、ふたつ、雑談めいたことを投げてきた。
「因みにお客様。今回の降霊会は【吉備津の釜式降霊術】です」
「は?」
「もしくは【耳なし法一流降霊術】です」
今思えば、どちらも不吉きわまりない名称ではないか。どちらも筋は大方似通っており、最終的に怨霊にとりつかれた両者は、ひとり建物にとじこもり、たずねてくる怨霊の機知によって、最終的に悲劇的な末路を迎える怪談である。
夕方来た、山のうえの神社の拝殿が、ふたたび夜更けと共にきてみれば、供物であふれかえった祭事場に様変わりしていたのも驚いたが、そこで降霊術をやるといいだし、あまつさえ、不吉な前振りをされたあと、ひとり残されるのはたまったものじゃない。
しかも、彼女は言うに事欠いて、ひとつ、古典的な禁忌を付与してきた。
「その苦い漢方を舌に乗っけたよな苦々しい顔から察するに、君はふたつの物語の顛末を知っているらしいから、念押しすることでもないだろうけれども、もしもAlphaが来たとしても、決して振り返らないでね。まして呼びかけられても、絶対に反応しては駄目。拝殿を出るなんて何が何でも駄目だから。OK?」
彼女はそういうと、こちらの返答を聞く前に、番傘をひらいて、早々に出ていったのだ。しかも唯一の出入り口である柵扉に、外から
(――いつまで、いるんだよ)
さすがに11月の下旬であって、制服の上にトレンチコートを羽織っていても、なお凍えるほど肌寒い。拝殿とはいえ、横から後ろから、びゅうびゅうと風が吹きこんで、ときおりその隙間から、よこなぐりの雨の、その細かな飛沫が、震える身体に浴びせられるのだ。もしや、今宿や糸島で、うどんやら海鮮丼やら、エスプレッソコーヒーやらショートケーキやら、はてに又、うどんをたらふく食べさせたのは、古典怪談の定石どおり、オレを日の出まで放置する算段からだろうか?
糺川に対する疑いは尽きない。しかしながら、乗りかかった船は、すでに埠頭を発して沖に出ている。引き返すことには遅すぎて、不穏と疑念の波濤にゆさぶられながら、ひかりない夜の海に漕ぎ出してたのだ。今更、探偵の不可思議なお膳立てを破ることもなく、ただ、流されるままに、彼女の降霊術に身を任せるだけだ。
怨霊がやって来る。
雨止みを待つように。じっと跫音が近づくのを。
どれほどの時間が経っただろうか。
雨は依然として沛然としたままで、ともすれば、市一帯に大雨警報さえ鳴り出しそうな勢いだった。姪浜から百道を一望できる夜景スポットとして有名なこの社も、いまや参詣者の影など浮かぼうはずもない。
だから、屋根を削るような驟雨の中に、雨傘に雨を弾かせながら、とつ、とつと、あるくひとの気配に、さすがのオレも耳をうたがった。
近づいてくる。
背中越しに人の気配が、あつい視線が、あらい息づかいさえ、たしかにある。あるいは、まったく無関係の参拝者かもしれない。ときにはこんな雨脚のなかでも、妄執的に参拝をかかさない奇人変人もいないとも限らない――、そんな言い訳を一蹴するかのように、それは、かすかに、しかし、たしかにいう。
――おおおおおい。
たとえるなら、とおい山から反響したやまびこだ。間違いなく、ひとの喉から発せられているというのに、耳に届く前に、いびつに増幅されて、人ならざる声に化けた異音。それが、こうして、オレをよぶ。
――おおおおおおいいいい。
夜雨の中、怨霊は執念深く、こちらをおとなう。おおい、おおおい、と。振り返るように呼ばい、ときにその濡れた手で差し招くかのように。
背をむけて座っているオレと、それから声の主のあいだには、胸ほどの高さの柵と賽銭箱しかない。もしも越えようするなら、少し手間取りはしても、決して乗り越えられない障壁ではない。
けれど、それは乗り越えることはなかった。あるいは鉦を打ち振る綱の根元に張られていた御札の効験かもしれない。千眼寺流特製と触れ込みのその御札は、雨に降り込まれることを折り込み済みのように、ラミネート加工されて、金の箔押し。あまりの過剰装飾に、祓い符というより縁起物の様相をていしていたが、存外、効き目はあったのだろう。
怨霊は業を煮やしたのか、その叫びをさらに大きく、悍ましいものとしたが、それでも一向に拝殿に乗り込む様子はなく、わずかながら安堵した。
アレは古い言い伝えの吸血鬼のごとく、招かれなければ入れずの禁に縛られているように、壁を抜けたり、霧のように突如として出現したりはしない。――だから大丈夫。ここに居れば、すぐに失せる。そう思って、伏し目がちの眼差しを、神仏の加護にすがるように、本殿に戻したときだった。――ぎいいい、という音とともに、視線の左端で、とびらがあいた。
開いた扉の片方に、ぶらりと破れた紙垂と綱が垂れさがって、垂れ落ちた先端が拝殿の地面を、ざらりと
嗚呼と、うめく。
からだ全体に書き記したと思っていた経文を耳だけ失念していたように、或いは、夜明けと謀られて社から出てしまったように、結界として機能するはずだった綱は、想像だにしなかった嵐のために破け、結びが解けてしまったのだ。
ひたり、ひたり、と。
水をふくんだ汚らしいスニーカーをひきずるようにして、その女が、怨霊が、侵入してくる。雨によって、その病的にほそい矮躯にぴったりとはりついた、何色かもわからないワンピース、そのうえに羽織った薄い、安価のジャンパー。それらをみにつけて、ひたりひたりと、その怪物は、まるで自分こそが、オレの奉じるべき神であるかのように、中央にたつと、顔にはりついた長い髪を掻き分けながら、じっと、こちらを見据える。
あ、Alpha――。
この怨霊こそ、みずからを始まりだと称し、また、オレをも神だと称してやまない、不気味なオレの幻覚。末次家の惨劇は、オレのΩとしての呪力が為し得た天罰だと囁き、生まれ変われとささやく狂気。――いや、はたして、本当に幻覚なのか。やはり、この化物は厳然と存在して、だからこそ、千眼寺冬彦は殺され、やはり、オレは、この化物と――。
交わらなければならないのか?
それが教義だと、御眼畫教のやつらはいった。
見えるのなら、それと交わり、子をなせと。
母親が、叔父が、医師が――。
小説家が、公務員が――。
社会が、大人が、すべてが――。
「ああ、わかっていたさ」
オレはいう。怯え、嘔吐きながら――。
「オレが和尚を見殺しにした」
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