第9話 取調室2/3

「それで、ええっと。私どこまでご説明しましたか?」


 1ホールのレモンメレンゲパイを切り分けながら、糺川翠は尋ねた。紙皿に三人分をとりわけると、取調室といえばカツ丼という固定観念をやわらかく崩すように、粗末なプラスチックフォークで、白く焦げ目がついたメレンゲとレモンムースを断ち切る。


 博多埠頭ちかくのホテルオークラ福岡のシェフが、仕込みの途中で警察に連れ去れたのは誠に遺憾であるが、しかし推理を披露するには脳が疲労してしまうため、血糖値という冷却剤を思考回路に振りかけなければならない。ただ私にとってそれは、つめたい冷媒ではなく、粉砂糖のように甘くなければならないというだけで。


「三つの奇怪な体験についてだろう」叔父はシルクのハンカチを胸元に広げると、さも当然のように、署長の分まで自分のほうによせて、自らの高貴なる血統を示すように、丁寧なフォーク使いをふるい、三度、メレンゲのゲレンデに降り立っただけで、一皿を綺麗に消化してみせた。「失踪した三人の心中者。下半身だけの女。そして後ろ向きであるく巨漢の不審者」


「そうでしたそうでした。まるで怪奇スポットに登場すべき様々な心霊現象。ですけど、このすべてに簡単な説明がつくと思いませんか?」


「思わん」

 叔父は一蹴する。

「思うのも考えるのも、お前達の仕事だ。吾輩はお前達の思索の産物の良し悪しを断じる裁決者であるからな」


 じつに傲慢ごうまん傲岸ごうがん。それでていて豪快磊落ごうかいらいらくたる人物であろうか。彼のような人間は、謙遜してもし尽くせない、米つきバッタが蔓延る日本社会において、あるまじき外来種であるくせに、不思議と県警内の悪評は少ない。高慢ちきでじつに扱いにくい人であるが、これでいて部下から突き上げを喰らわず、また上司から肘鉄を食らわずに済んでいるのは、彼の巨大財閥の御曹司としてのヒエラルキー以上に、彼が自分の能力について、一切見切りをつけているところにある。


 考えるのも、動くのも、すべては部下と、そして上司の仕事であると思っている――否、そうであると断じているし、事実そうである。


 彼はただ王座について、その裁決をし、被害が蒙るようなら全てを彼の財産で清算する。矢面に立たないかわりに、責任をその巨躯が受けつける。高貴なる義務――ノブレス・オブリージュ。それゆえに、今回の姪の無鉄砲な願いにも即応したのだ。


「それで、その説明とやらを聴かせてくれるのだろう」


「勿論ですわ、叔父様」


 まるでバラの庭園を見下ろしながら高貴なティータイムを愉しむ叔父と姪のような口ぶりだが、語る箇所も、また語る内容も、それに似つかわしい物々しいものである。


「まずはX――旧Twitterに投稿された心霊体験についてです。しめじまん@mouth_bridgeというアカウント名の人物が、26日の午前十時頃から、新犬鳴トンネルの出口付近で起きた【下半身だけの女】について投稿しています。しめじまん――おそらく男性であろうその人の投稿から、彼がその怪異と衝突したのは、25日の午後十時あら十一時頃であると予想されます。場所は直方方面出口。彼は心霊スポットと名高い峠のトンネルを出て、ふと気をぬいたとき、そこで行き逢った」


「てけてけ、という都市伝説を耳にしたことがあるが」叔父はいう。「あれは上半身の怪異だったか。しかし改めて考えてみると、あまり聴かないな」


「一応、上半身のてけてけと対応して、下半身だけのことこというのが居るそうですが、あまり聴くことはないですね。おどろおどろしさを特徴付ける表情、声、あるいは危害を加える手というものがないから、あまり恐ろしさを感じない、興味がない、という側面もありそうですが、私はここにもうひとつ、【】というのを付け加えたい」


「逮捕?」


「ええ。【下半身だけの女】、あるいはそれに準ずる下半身だけの怪異――【とことこさん】に出逢うシチュエーションというのが、きわめて限られた瞬間であり、かなり危険な一瞬ですから」


「ええい、そういう迂遠な口ぶりは、匳家邸で嫌と言うほど聴いたわ!」叔父は憤激して机を叩いた。「モノはハッキリといえ。つまりどういうことだ」


「それを見た人物はということです」


「ああ!」もはや影さえ失せそうなほど存在感のなかった署長が声をあげた。「蒸発現象か!」


「御名答です、署長さん。つまり、しめじまん@mouth_bridge――まあ、十中八九、この男性の苗字は橋口マウス・ブリッジでしょうが、この彼が【とことこさん】と出逢った時、対向車が来ていた。そして夜間、前照灯同士が交差する箇所を通行人が横断しようものなら、上半身は暗闇にきえ、わずかに光のあいだから下半身がみえるだけになる。そして、それが急に訪れた場合――」


「轢いてしまうのか」


 叔父は光によって掻き消された死体を見下ろしたように、沈痛な声でうなる。


「仮称橋口氏は女性を轢いた。けれど、死体はルーフをのりあげたか、あるいは車体が乗り上げたか、どちらにしろ、彼が停まったとき、うしろにあった。女性はその拍子に手を裂いて、出血したのでしょう。助けを求めるように車のうしろに手をついたその手形が赤く残った」


 苦しみながら手を伸ばす女性の呻きが、取調室に耳鳴りのように木霊した。


「もし橋口氏がうしろを確認すれば、負傷した彼女に気づけたでしょうが、かれは山のほうで、背の高い、奇怪な影をみて怯えてしまい、彼女を見逃して、そのまま去ってしまった」


「いや、だがそれは可怪しいですよ」

 と、嘴をはさんだのは署長である。

「その橋口なら知っています。たしか人を轢いたかも知れないといって、うちの署員が確かめに行きました。たしかにフロントに凹みがあり、車のリヤバンパーに血液らしきものが付着していましたが、彼がいうトンネル出口付近には死体はおろか、血痕すらなかったのです」


「それは簡単なことです。署長さん」安心させるように微笑みをうかべていう。「回収されたんです。とある殺人鬼に」


「殺人鬼!?」


「ええ、その殺人鬼はとある目的のため、巧妙な殺人計画を立てていた。だが、計画というのは水物だ。狂いというのが絶対に出てくる。そしてその狂いというのが、この事故――横山あおいの衝突事故だった」


「横山あおいだと!」叔父は吼えるようにいう。「そいつは車中心中で失踪した三人の内のひとりじゃないか」


「そうです叔父様。彼女が目覚めたことが、犯人の復讐計画の狂いであり、事故で傷を負ってしまったことが、計画破綻の決定打となった」


 取調室に、姪の悪辣な哄笑がうかぶ。


「すべてはそこ。自殺したはずの横山あおいという女性が、とある密室から、脱出してしまったことから始まるのですよ、叔父様」

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