第8話 取調室1/3

「雫石巴は保護した」


 開口一番、警部はどこか投げやりの態で、そう言った。ヒトガタの風船にこれでもかと空気を詰め込んだような巨漢が、どかりとパイプ椅子に腰を下ろすと、細い脚部から悲鳴めいた音がなる。


 うしろに控えていた初老の刑事が椅子を取り替えようかと申し出たが、警部はまるで平社員をあしらう社長然とした風情で、それを断った。


 はたして誰が、幇間のように甲斐甲斐しく気働きしている刑事が、この警察署の署長だと思うだろうか。警察組織という厳然なる縦社会で、この冗談めいた和製ハンプティダンプティのような警部だけは、階級というのもをその巨尻の敷物にしていいかのような横柄ぶりである。


 振る舞いも異様なら服装もどこかズレている。警察官というのに、彼はノリの利いたダブルスーツをきて、ポケットからシルクのハンカチが首を垂れている。脚を組もうとして、太股の贅肉によって拒まれた足先には常に磨き上げられた革靴がひかり、手首には金のカフスボタンが光る。


 まるで社交場かと思わずには居られない服装だが、ここはそんなロマンチックな場所ではない。無機質なコンクリートが四方を囲む、警察署の取調室である。そこに胡麻塩頭の警察署長と、貴族然としたふとっちょと、そして、もうひとり、ツーピースのスーツ姿の糺川女史がいる。


 彼女はまるで自分が取調室の主人のように長い脚を組かえて、柔和に微笑んだ。


「有り難う御座います、叔父様」


 叔父とよばれた警部――糺川警部は「ハッ」と怒鳴るように言う。


「吾輩を顎で使えるのはお前ぐらいだぞ、翠」


「糺川製薬の御曹司である叔父さまを顎で使うなど、そのようなご冗談を」ホホホとわざとらしく笑う。「私はただ一市民として通報しただけです」


「吾輩の携帯にな」憤然と頬肉をふるわせる。「久しい姪っ子からの連絡をとった、あのときの吾輩の気持ち、お前にはわかるまい」


「心華やぐようでしたか?」


 すると叔父は両腕を天にかかげ、天井に咆吼した。


「戦慄だ! ショパンのエチュードも、お前がささやけば、黙示録の喇叭に早変わりだろう。お気に入りのナイトキャップも自ら滑り落ちるような驚きだ! そもそも連絡先など教えていなかったはずなのに」


「ええ。まさか叔父様が携帯なんて俗物を携帯しているとは思えませんでした」


「支給品だ。県警からのな」叔父は久しぶりに邂逅した姪を胡乱な目でみながめる。「それをなんでお前が知っているかは、いまさら尋ねる気もおきないが、それよりも吾輩が聴きたいのは、お前の通報自体だ」


「まあ、なにやら粗相を?」


「粗相? 幼子のお前がママゴトのお箸のかわりに、吾輩の愛用の蒔絵扇子を叩き割ったころから粗相から、いちいち書面にしたら、うずたかく聳え立つバベルの塔も凌ぐだろう。だがそんなことはどうでもいい。吾輩は寛大であるから、姪の前科のひとつやふたつ、公然ともみ消してやれる」


 これには隣にいた警察署長は電撃を喰らったように跳び上がる。現在の取調は不正な自白をふせぐため、往々にして録音が義務づけられている。今回の取調が正式なものではないとはいえ、警察署で口にして良い放言ではなかった。


 そんな規範などお構いなしな叔父も、今回の通報ばかりは聞き流せなかったらしい。


「だがな『』と言われたのなら、さすがの吾輩も声を逸するというものだ」


 そう。今回、こうして福岡県警に趣味で所属している叔父と非公式に再開する場所として、彼自身が指定してきたのは、山の上ホテルでも西鉄グランドホテルでも、まして最近出来たリッツカールトンのホテルロビーでもなく、直方署の取調室であった。


「犯人は逮捕できました?」


「一度はな」叔父は苦虫を噛み締めるように言う。「だが、迂闊にも手錠をかけて安堵した者が気を抜いてしまったために、払暁を待つ夜山に、猛犬を放ってしまったらしい」


――」糺川女史は尋ねた。やや前のめりに尋ねた姪を、叔父は悪魔憑きの朝衡を見たかのように、きびしく眉根をよせる。「やはり、河川敷近くに?」 


「いいか翠。お前が通報して、吾輩が兵隊を動かして、はらわたを掻っ捌かれる青年を保護して、野山に逃げた犯人を追っている。これを真夜中の三時間のあいだに行っているということを、叔父は愛すべき姪に、よくよく考えてもらいたいものだ」


「そうですね。その愛すべき姪を、こうして容疑者として取調室にぶちこんだ功績もあることですし」


「誤解しないで欲しいが」叔父はキザったらしくラガーパットをつけているような太い肩をすくめてみせた。「お前は重要参考人だ。いまは、な。だが身内に甘いと自負している吾輩も、被害者と、加害者と、そして殺害現場――これは未遂でおわったが――それらをすかさず言い当てることができたお前を、のうのうと市井にのさばらせておくほどの慈悲は持ち合わせていない。わかるな?」


「ええ」女史はうなずく。「つまり叔父様はこう言いたいのでしょう? 『どうして犯人と殺害現場が推察できたのか、その推理の轍を教えろ』と」


「それと少しばかりの好奇心」叔父はにたりと笑う。取調室の端で壁の花となるだけだった警察署長は、そのわらい顔に、ふたりの血縁をみるようだった。「吾輩が信心深いのはお前も知っての通りだが、最近、少々、また別の心霊――否、あれは心霊というより怪異と論ずるべき奇体な【髪の毛】に関する連続殺人事件に行き逢ってから、吾輩もすこしばかりお前の仕事に興味が湧いてきたのだ。お前のことだから、これもまた、心霊や怪奇、怪談の怪しげな狼煙をたどって見つけた火元だろう。ましてや事件の発生地はかの福岡の一大心霊スポット犬鳴峠。夜明けをまつ庚申講こうしんこうを気取り、ここはひとつ、可愛い姪の夜語りを聴いてやろうというのだ」


「それはそれは」


 女史は妖しく唇をなめる。コロシアムを見下ろす皇帝のようにふんぞり返る叔父にむけて、なかば怪談師として一席語るような心持ちになっていく。こちらとしても、いつものように聞き手にまわってくれる巴くんが居ないことに、すこしばかりの淋しさを覚えていたきらいがあった。あのコロコロと顔色をかえてくれる青年ほどはいくまいが、それでもこの巨体を舌下で太鼓のように響かせるのも一興だろうと思い直し、彼女は居住まいをただした。


「それでは語って聞かせましょう。すべての怪異が、どのように一人の殺意を仄めかしたかを」

 

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