第7話 糺川女史の推察 2/2
「ところで巴くん」
女史は改めてそそがせたアイスコーヒーに舌鼓をうちながら尋ねた。
「なおみって名前、どう書くとおもう」
「なおみ、ですか」
僕は冷蔵庫にポットを入れながら、ひとりごちた。朝方に並々と用意したコーヒーのポットが半分もないほど、女史に飲まれていることに小さな達成感を覚えつつ、彼女のデスクにあるメモ帳を一枚拝借すると、そこに思う限りの漢字をかいた。
『直美 尚美 直実 奈緒実 奈緒美 菜央美』
「ああ、そのぐらいでいいよ。これをみて、君はどうおもう」
「そうですね。右にいくほど、今っぽいですねえ」
「ほかには?」
「うーん。存外、男女兼用の名前っぽいですね。直実とかは男性でも使えそうです」
「だが、今回のなおみ、は女性だよ」
「ふーん。そうだな。女性でなおみだったら、やはり語尾に『美』の字が・・・・・・・」
僕ははっとなって、今回の登場人物の名前を思い出した。
被害者の水鏡美優、なおみの母親の美春、そしてなおみも『美』がつくとしたら。
僕はすぐにとあるレポートを引き寄せると、とある文言をさがして、一行一行、指でなぞっていく。
「あった」
――――通りかかった彼女の家のお店の二階の窓で――――
R小学校のおまじないのレポートには、失踪した少女の家は二階建ての商家といっている。そして彼女の名前は――――T美。
「失踪したT美は、伯母の名前?」
「わたしはその可能性が極めて高いと思っている。時系列的にも辻褄が合うからね。そして彼女は『天竺鏡』をつくろうとして、怪我をしている」
「まさか、彼女の怪我は・・・・・・」
「母親、つまり美優によるものだとしたら、どうだろう」
「で、でもなんで」
「それは分からないよ。これも推論だが、おそらく彼女だけは、父親が違ったんじゃないかな。なおみが仏間で伯母の顔をみたとき、母親とはまったく似ていないながらも、祖母とは鼻筋が似通っていたといっている」
「美優は再婚して、前の夫の子どもが疎ましく思った?」
「さあ、ここは想像を逞しくするしかないね。ただ、あの怪我が美優によるものだとすれば、その切っ掛けになったものは自ずと見えてくる」
「それは?」
「『天竺鏡』だよ。おまじないのレポートにも書かれていたが、ほかの子どもは母親の鏡を借用して、おまじないをしていたと言っていたじゃないか。いまの子どもなら小学五年生でも手鏡ぐらいもっているかもしれないが、平成初期、あるいは昭和後期のこどもは、それほど自分用の鏡を所持していなかったんじゃないかな」
「だからT美は母親の鏡をつかった?」
「一日中、水桶につっこんで隠すのがおまじないだろう。もしも母子の仲が険悪のときに、そのような行為をみつけたら、母親は子どもによる悪戯、あるいは嫌がらせととっても無理はない。そして母親は折檻してしまう。あるいはそれこそ――」
僕の脳裡に、泣き叫ぶ女児と、烈火のごとく激怒する母親の姿が想起された。彼女等は二階の廊下でもみあいになり、そして不意に階段のほうへ・・・・・・。
「T美は大怪我を負った。それこそ顔を包帯でグルグル巻きにするほどに」
女史は飲んでいたグラスをおくと、じっと僕をみつめた。
「ところで母親は子どもを病院につれていくとおもうか?」
「そりゃあ、大怪我ですからね」
「でも、どうする? 子どもは自分のことを嫌って、鏡をかくして、水につけるという奇妙なことをしている。――いや、あるいはわざと錆びつかせるために水につけたと思い込んでいる。そのような嫌がらせをする子どもが、母親に怪我をさせられて病院に治療にいき、原因を聞かれたら・・・・・・・」
「まさか」
「あの当時でも児童虐待は罪だよ」
「ですが何れバレる」
「そうだね。いつか告発されるという危惧がつきまとう。まして再婚した夫に見捨てられる恐れもある。だから彼女は『天竺鏡』を使ったんじゃないかな?」
「ど、どういうことですか。『天竺鏡』をつかったところで、あれはただの警告のための怪談で・・・・・・」
瞬間、木槌で頭を殴られたような衝撃がはしった。
「まさか『警告』のほうを使ったんですか!?」
女史は満足そうに頷いた。
「鏡をつかった奇妙なことをしているのは確かだった。それはひとつに異様な行為だ。身内に証言者をたてて、T美を精神疾患者だと偽った。おそらく当時はまだ『警告としての怪談』を覚えている人が居たのかもしれない。あるいは『怪談』の部分がひとりあるきしたように、『警告』の部分もひとりあるきして、『鏡』と『精神疾患』が異様に結びついていたのかもしれない。――当時は、いまほど子どもの証言が重要視されず、大人の、とくに母親の証言が珍重された。そして彼女は、おそらくいつわりの病状をかかれ、なかば監禁されるようにして、精神疾患者用の病院に『留置』された」
僕はとあるアメリカの実験を思い出した。ひとりの健常な精神をもつと診断された男が、わざと精神疾患者を装って、精神科の診断をうけ、見事に精神疾患者の御墨付きをえたという。それから病棟にいれられ、自分は健常だと訴えても、まったく見向きもされなかった。
いわば精神疾患は、それが本当であるか、それとも偽りであるか、その診断をするのが極めて難しく、この件が告発された病院関係者側は、診断をうけるという行為には当事者の真摯たる苦悩があることを前提におこなっている、となんとも玉虫色の返答で逃れていた。
が、もしも大人によって、無理矢理つれこまれてしまえば、はたして今の医療でも誤認が生まれる怖れは十分にあるのではないだろうか。
女史はコーヒーをちびちびりと飲んだ後、傍証を提示した。
「この憶測を裏付けるのは、なおみと叔母の関係だよ。もしも伯母がただ遠方にいるだけなら、その存在をまったく口にされていないのは不自然だ。もちろん、子どもが自分の親族すべてを知っているとはかぎらない。だが、葬式の席で親戚一同があつまりながら、まったく会話の遡上にあげられていないところを鑑みるに、T美の扱いというのは、水鏡家では禁忌とされていた節がある」
「では、T美はあの日ようやく」
「かもしれないね。人によっては45年も入院していたという男性もいる。まして彼女の場合、まったくもって正常だった。そして彼女の中で、怒りは募りに募った」
「そして帰ってきた・・・・・・」
彼女には母親を殺すこともできただろう。だが、なによりまず、自分の罪を思いおこさせる必要があった。だから彼女の寝床に置いたのだ。
『天竺鏡』を。
自分がなすりつけられた罪のかたちを。
「被害者がなぜ、桶から鏡を取り出したのかは分からない。ともすれば、それを見た途端、T美が帰ってきたことを悟って、仕返しをおそれて、とっさに手に取った武器が鏡だったかもしれない。――そして恐怖と震えで、階段をおり、途中、踊り場から覗いた顔に驚き、足をすべらせた」
はたして彼女はそのとき何を見ただろうか。
T美の怒りに狂った顔だろうか。あるいは冷たい目か。
もしくは鏡に映った、自分の顔だろうか。
子どもを手に掛けたときにみせていた、あのときの悍ましい貌――。
女史は二杯目のアイスコーヒーを飲みきった。ストローを摘まみ上げ、ゴミ箱に投げ捨てる。おかわりはもう必要ないらしい。
「洗濯機のとなりに鏡が落ちていたのは、T美がそれを洗って、指紋や血液を隠滅しようとしたからでしょう。だが、その最中、訪れた民生委員の多々良のチャイムにおどろき、鏡をおとしてしまった。あかりをつけてしまえば、自分の居場所をバラすことになる。だから、彼女は葬式の日にあらためて、探そうとした。だが、そこには自分とおなじく『天竺鏡』をつくって、洗面台の引き戸に隠しているのをみつけた」
おそらく彼女は留守番していた腹違いの弟に聴いただろう。なぜこんなことをしているのか、と。
多分、かれはぴんとくる。姪っ子のなおみが『天竺鏡』をつくろうとしていたことを。それにおそらく彼女が洗面器で洗っている姿は、案外、大人達に目撃され、共有されていたのかもしれない。
「だから、ありがとう、ですか」
事務所のソファーにもたれかかって、僕は溜息をついた。
怪談を紐解けば、いつだって待ち受けているのは陰惨な過去だ。
それでもこうして彼女の手伝いをしているのは、あるいは、この中にひとつ、厳然とした幽霊の証拠がないか、念じながら精査しているためなのだ。
それは僕だけではなく、糺川女史も。
「残念でしたね、本物じゃなくて」
「・・・・・・どうでしょうね」
女史は革張りの黒い椅子にもたれながら、呟くようにいう。
「投稿者のなおみさん――御手洗直美さんに会ってきたんだけどね」
「へ?」
僕は訝しげに女史をみた。
「彼女、あの火葬の日の夜、交通事故にあって、右脚に開放骨折の大怪我をしたらしいのよ。ほかにも打撲や骨折もあって、大変だったらしいわ」
「・・・・・・なにが言いたいんですか」
女史はぐいっと身体をテーブルによせて、怪しげに目蓋をほそめる。
「面白いと思わない? 『天竺鏡』をつくった幼いT美は顔に傷をおって、精神病棟に軟禁され、『天竺鏡』によって告発された美優は転落事故で死亡。そして同じく『天竺鏡』をつくった直美さんもすぐに酷い交通事故に遭ってる」
「『天竺鏡』にかかわった人間が、みんな不幸になってると?」
「さあどうでしょうね」
彼女は気のない返事をしながらも、らんらんと光る黒い瞳は、調査員である僕を捕らえて逃がさない。
「いろいろと辻褄が合わないこともあるけど、それを調べるのも面白いと思わない?」
僕は天を仰いだ。
無茶なことをいう上司にではない。
こんな胡乱げなことに、ちょっとだけワクワクしている自分に、だ。
「じゃ、よろしく」
「いいですけど。今度こそ交通費、出して下さいよね」
僕はソファーから立ち上がり、事務所を出て行った。
僕らはこうして、あらたなる怪異の蒐集へと乗り出したのであった。
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