第2話 天竺鏡について 2/2《管理票2104:H81000XX-EX》
悪いことは、不意にやってくる。そう思っていました。
ですが、実際はそうではありません。往々にしてそれは跫音をひびかせるのです。
最初は、耳をすませてようやく聞こえる虫のすだきのようですが、次第に大きくなって、目前で足踏みするようになると、ようやく人は危うさを覚えるものです。
わたしの場合もそうでした。
古鏡をざぶりと浅い木桶にくぐらした途端、じわっと赤い色が溶け出しました。水性の塗料が瞬く間に広がるように、桶の水は真っ赤になりました。それは古い銅からこぼれおちた赤錆なのでしょう。知識としては分かっていたのですが、じぃじぃと古いフィラメントを熱する豆電球の下、水にひろがる赤いにごりは、どうしても血を連想させました。
なんども桶の水を取り替えて、浴槽洗剤もいれて泡立てました。そしてようやく透明な水面をとおして、鏡面が私を映すようになったあと、ほかの親族が見つけないように、洗面台の下にある戸棚から洗剤や粉重曹など引っ張り出してスペースをつくり、そこに鏡を浸した桶を隠しました。
そのあと、わたしは両親と祖母の家で夜を明かし、翌朝の九時頃、霊柩車は祖母をのせて、南区の桧原にある市の葬祭場に向かいました。親族達はふたたび現地であつまり、火葬が行われるまで二階の個室で待つのですが、そこでにわかに親族が色めき立つことが起きたのです。
それは母にかかってきた一本の電話から始まりました。
祖母の家には留守番として30あまりの伯父がひとり居たのですが、どうやら彼からかかってきたらしく、その内容があまりにも衝撃的だったのは、傍から見ていたわたしたちでも分かりました。
「姉さんが来てるって」
母は携帯を片手に親族にそう伝えると、まわりの親族はまるで祖母が火葬場から歩いてやってきたかのような驚きようでした。
「姉さん? 私に伯母さんがいるの?」
母方の親族は、母が長女として、下に叔父と叔母がひとりづついる三人姉弟と、ついその時まで思っていました。ですが、どうやら母の上にもうひとり姉がいるらしいのです。
そのあと祖母の遺骨を拾うのもそぞろな様子で、菩提寺に遺骨を納めにいくときも、みんな何だか落ち着かない様子でした。
「伯母さんってどんなひと?」
わたしは菩提寺から祖母の家に帰る途中、助手席に座っている母に尋ねました。母は何か言おうとして、それを止めるという牛の反芻のような行為を繰り返し、ようやっと出てきたのは「やさしいひと」という、まるで正体のないものでした。
怖々と蝋燭の火を吹き消すような物言いに、わたしはとても恐ろしく、総髪の狂気じみた女が出てくるのだろうかと思いましたが、会ってみれば、まったく真逆の女性でした。彼女は二階の仏間に坐して、お鈴を鳴らしていました。
「おかえりなさい、美春」
ふりかえった伯母の第一印象は、肌が異様に白いことを除けば、いたって平凡なおばさんでした。きちっと黒いワンピースをきて、隣には黒いポーチ。顔は姉妹であまり似てはいませんが、祖母の真っ直ぐとおった鼻筋は姉妹共通でした。
「・・・・・・おかえりなさい」
母の声はおっかなびっくりしているようでした。あとで叔父さんがぽつりと洩らした言葉がすごく印象に残っています。「まるで若い頃の母さんをみるようだった」。たぶんそれは母も同じ印象だったのでしょう。
ですが、さっき言った通り、伯母は祖母と似ているところといったら、鼻筋ぐらいのもので、顔つきは傍から見ても似たところはなく、面影を感じるような顔つきでもありません。ですから、もっと言葉を正すなら、「まるで母親が乗り移ったような」あるいは「まるで母親が憑依したような」というべきなのでしょう。
母達は氷像のように凍りついて、仏壇の前に座っている伯母を見ていました。ですがわたしはまったく別のことに気を取られていたのです。
伯母の脇においているショルダーバックから、見覚えのある古い柄が見えたのです。わたしはもしやと思って、その場から去ると、階段をおりて手洗い場に駆けつけました。
「あ!」
と、声をあげたのも無理ありません。そこには空っぽになった桶があるだけで、水はおろか鏡もなくなっていたのです。
「なおみちゃん」
ふりかえると、真後ろに伯母が立っていました。
まるでその長い髪を庇にするようにして、その陰のなかで、伯母は、にたぁと笑いました。
「ありがとうねえ」
わたしは背筋が戦慄くのを感じました。
その声は、その抑揚は、まさしく祖母そのものだったのです。
伯母はいまでも祖母の家に棲んでいます。
住み慣れた我が家のように、ずうっと・・・・・・。
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以下、プリントアウトされた史料に貼り付けられた付箋内容
糺川女史曰わく、似た怪談を読んだ覚えあり。
同地区管理票なし。未登録。
少女漫画雑誌の投稿コーナー 10~15年前?
また国会図書館かよ ┐(´д`)┌ヤレヤレ
求:交通費 ← 却下です(ハートマーク)
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