第223話 甘い生活、の終わり

「おれも、なめられたもんだなぁ」

 男は右手をポケットから出し、両こぶしを握りしめた。そして、フン、と強く気合いを入れるように息を吐いた。立ち上がろうとしたアネットの体がびくりと震え、動かなくなる。ぼくも、なんだか少し、体が重くなったような感じがした。こいつ、何かのスキルを発動したな。鑑定が使えないから正確にはわからないけど、「威圧」あたりだろうか。ぼくには状態異常の耐性があるからそれほど効いてはいないけど、アネットにはきついかもしれない。

「好きな男ができました、だからギルドをやめたいと思います、だと? なめてんのか? おまえが所属しているのは国から目をつけられている闇のギルドで、おまえがしてきた仕事は、一つでも見つけられればただでは済まない、闇の仕事なんだよ。そう簡単に抜けられるとでも思ってたのか?

 おまえはもう少し、頭がいい女だと思ってたんだがなぁ」

 男は無造作にアネットに近寄り、動けない彼女に再びキックを浴びせる。アネットは声を上げることもできずに、ごろごろと地面に転がった。

「だいだいだな。おまえ、これまでに何人、殺してきたと思ってるんだ。今さら普通の暮らしに戻れるわけがないだろ? それに比べれば、冒険者を一人殺すくらい、たいしたことじゃないはずだ。わかったら、仕事を早く終わらせてこい。

 おまえはどう思っているか知らないがな。おれはこんなところで、くすぶっているような人間じゃないんだ。早く成果を上げて王都に戻り、おれをこんな田舎に飛ばしたヨアキムのやつに、一泡吹かせてやらねえと!」

 男はいきなり大声で叫んだ。ぼくはすでに、彼の背後に回っていた。いざとなったらすぐ投擲ができるよう、バッグの中からクナイも取り出してある。ただ、今すぐに攻撃するのは、少しためらわれた。話の内容からすると、彼はアネットの知り合いで、おそらくは暗殺者ギルドの人間らしい。ユージを殺してこいとも言っていたから、直接の上司みたいな関係だったんだろう。まあ、ぼくを殺すという依頼の件は、このさいどうでもいい。


 こんなところに出てくるってことは、当然、この男も死者なんだろうから。


 アネットも、それはわかっているはずだ。なのに彼を攻撃しようとしなかったのは、話の中に出てきた、彼女が昔、世話になっていたという関係性があるからかもしれない。だとしたら、もう少し様子を見た方がいい、と思ったんだ。

 もちろん、アネットに危険が及ぶようなら、すぐにでも彼の命を取るつもりだけど。

「それにしても、一緒にいたい男、か」

 男は急に、つぶやくような声になった。

「そいつが仕事の邪魔になっているというのなら、おれが片付けてやってもいいぞ。そうすりゃ、おまえも正気に戻るだろ」

「……嫌。それだけは……」

 アネットは振り絞るような声で、やっとこれだけを答えた。

「そういえば、おまえを女にしてやったのも、こんな真っ暗な晩だったなぁ。星一つない空の下で、スラムのぼろ屋におまえを連れ込んで……。

 なんだ、もう忘れたのか? つれねえ女だなぁ。なんならここで、あの時のことを、もう一度思い出させてやっても──」


 突然、男の言葉が途切れた。


 それと同時に、ぼくが感じていた体の重さがなくなった。威圧スキルが解除されたようだ。一瞬の後、地面に這いつくばっていたアネットが飛び上がるような勢いで男に迫り、その横を駆け抜けた。彼女の手には、小剣が握られている。男はゆっくりと体を半回転させて、ぼくの方を向いた。彼の腹は真っ黒に裂け、そして彼の胸には、アネットが威圧をはねのけて投げたらしい短刀が、深く突き刺さっていた。

「……お、おれは、ヨアキムの野郎に……」

 男はそれだけ言うと地面に倒れた。しばらくは痙攣しながらも形を保っていたけれど、やがて彼の体は、煙となって消えた。


「ユージ、いるんでしょう?」


 アネットが、ぼくの方を振り向いて言った。隠密はかけたままだったんだけど、彼女にはバレていたらしい。ぼくはスキルを解除して、彼女に近づいた。

「だいじょうぶ? ひどく、蹴られていたみたいだけど」

「たいしたことないよ。それよりごめんね。起こしちゃったみたいで」

「そんなこと、それこそたいしたことないよ」

 ぼくがアネットを抱きしめると、アネットは顔をぼくの胸に埋めて、ぼくに体を任せた。

「アネット。これからは、変なやつが近づいてきたら、ぼくにも言ってよ。ぼくも一緒に戦うから」

「いいの。これは、ボクがすべきことだから」

 ぼくに抱かれたまま、アネットは首を振った。

 考えてみれば、アネットはこれまで、暗殺者の仕事をしていたんだ。かつての暗殺のターゲットや、任務の最中に命を落としたギルドの人間など、たくさんの関係者がこの異界にいるんだろう。そんなやつらがアネットに気づけば、彼女に近づいてきてもおかしくはない。だから彼女は、それらしい気配に気づくと、一人だけで対処に行ったんだ。できればぼくには、自分の暗殺者としての過去に、触れて欲しくなかったから。

「わかった。けど、強そうな相手だったら、ぼくも一緒に行くからね。一番嫌なのは、アネットがいなくなることなんだから」

「うん。ありがとう」

 アネットは素直にうなずいてくれた。ぼくはハグをほどき、彼女と連れだって、テントに戻ろうと歩き出した。


 その時、探知のスキルが、ぼくの頭の中で警報を鳴らした。


 大きな反応が、こちらに向かって近づいてくる。その数は四つ、やはりぼくたちが歩いてきた方向から、歩くくらいのスピードで。レングナー騎士団長ほどではないけど、非常に強い反応だ。やがて、暗視スキルを持つぼくの目には、そいつらの姿形がわかった。その顔を見て、ぼくはちょっとショックを受けていた。

 あ、そうか。死者たちは、アネットに気がつくと彼女に向かっていった。けど昼間の間、ぼくらはかなりのスピードで移動していたから、追いつくことができなかった。そのため、彼らがぼくらに出会うのはぼくたちが進むのをやめた時間、つまり夜の間になっていたんだ。だから、きまってぼくが寝ている間に、ぼくたちが歩いてきた方向から現れたんだろう……。

 そんな考えが、半ば現実逃避的に、ぼくの頭の中に流れた。そうするうちにも、四人はどんどん、ぼくたちに近づいてきていた。


 彼らがぼくたちのすぐ近くまで来ると、アネットが隠れるようにぼくの後ろに回った。その様子を見て、先頭の若い男は、少し首をひねった。けどすぐに、さわやかな笑みを口に浮かべて、こんなことを言った。


「じゃあケンジ、ではなくて、今はユージと呼ぶんだったね。これから、よろしく頼むよ」


 現れたのは、勇者・一ノ宮優希、重騎士・上条武明、聖女・白河美月、七属性魔導師・柏木郁香。かつての「勇者パーティー」の四人だった。

 だけど、ぼくをもっと驚かせたのは、アネットの言葉だった。彼女はぼくの耳元に口を寄せ、ほとんど聞き取れないほどの声でこう言った。


「ユージ、気をつけて。この前、四人の冒険者を殺したのは、こいつらだから」



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 次回更新は、8月5日を予定しています。5日間隔だと8月4日になるんですが、5・10日のほうが覚えやすいので。


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