第186話 脂たっぷりボアの肉

 階段を降りた先には、また別のドアがあった。メイベルが先に立ち、特になんの問題もなく開錠する。両開きのドアを開くと、その先にあったのは、細長い部屋だった。

 殺風景な、まるで廊下のような部屋がが30メートルほど続いていて、その先にもう一つのドアがある。中には何も置かれておらず、一見すると、ただの空き部屋のように見えた。だけど、これはぼくにも、何かあるのがわかった。メイベルの許可を得て、ライトの魔法を少し強めにすると、その光を微かに反射して、いくつもの線が宙に浮かんで見えた。

 ごく細い、糸のようなものが、部屋中に張られているんだ。壁から向かいの壁、天井から床に向かって、数え切れないほどの糸が。

「メイベルさん、これは?」

「警備用の仕掛けの一つでしょう。あの糸が切られたり、糸にある程度以上の力がかかったりしたら、警報が発せられる仕組みですね。糸はアラネアの糸をつかっているようです」

 メイベルは答えた。なんだか、これに似たやつを映画で見たことがあるな。そうか。赤外線とかの見えない光線がそこら中の壁から発せられていて、誰かが通って光がさえぎられると、侵入者が検知されてしまう、あの仕掛けだ。あ、赤外線じゃなくて、レーザー光線だったかな?

 映画だと、スパイはその光線が見えるようになるメガネをかけ、光と光の間に、人一人なら通り抜けられるような隙間を見つける。あるいは、鏡を組み合わせた道具を取り出して、光の進路をコの字型に曲げ、無理やりスペースを作る、なんて作品もあったような気がする。そしてその隙間を通して、向かいの壁との間にロープを張り、そのロープを伝って、罠を突破していくんだよね。でも、今回はどうするのかな。


 メイベルはと見ると、ドアから一歩だけ中に入った。その位置には、糸はまだ張られていないようだ。そしてその場所で、静かに目をつぶった。何かのスキルを発動しているらしい。邪魔しないよう黙ってみていると、たっぷり数分もその姿勢を続けて、ようやくメイベルは目を開けた。そして、懐から道具を取り出した。糸車だ。アサシンだったアネットも、似たようなものをもっていたっけ。するとその糸車から、一本の黒い糸がひとりでに、するすると空中に上がっていった。これもアネットが使ってたのと同じ、操糸術だ。

「向こうが糸なら、こちらも糸を使いましょう。糸と糸の間に、間隔があいているところがありますので、そこにこの糸を通します。その糸を伝っていけば、検知されずに向こうのドアまでたどり着けるでしょう」

「え、通れるような隙間があります?」

「罠探知のスキルで糸の配置を読み取りましたから。今から、糸を伸ばします」

 メイベルは再び、目を閉じた。


 彼女の前に浮いていた糸は、するすると前に伸びていった。そしていきなり、右の壁に向けて大きく曲がって、さらに床近くにまで沈み込んだ。そのまま、1メートルくらい前へ進む。すると今度は少し左に折れ、腰くらいの高さに浮かび上がって、数十センチ前へ。今度はまた右に曲がって……と、複雑な動きを繰り返しながら、糸は進んでいった。

 時にはジグザグに短いカーブを繰り返し、時には斜め後ろへバックしたりしながら、全体としては前へと進んでいく。そしてとうとう、向こう側に見えるドアまでたどり着いた。最後は、そのドアノブにぐるぐると巻き付いて、糸の奇妙な旅は終わった。

 メイベルは手元の糸の端も、こちら側のドアノブに巻き付けた。その糸を握り、力を込めて左右に揺さぶったけど、まったく動かない。たぶん、念入りに魔力を込めてあるんだろう。彼女はもう一度、糸の張りを確かめてから、

「まずは私が行きます」

と言って、糸をまたいだ。

 うつ伏せに寝そべるような格好で、糸の上に体を乗せる。両足でバランスを取りながら、右手で糸をつかんでぐいと引っ張ると、彼女の体が前に移動した。続いて、左手。両方の手で糸をたぐるようにして、メイベルは空中を歩み出した。細ーい糸の上だから、かなり不安定な体勢のはずなんだけど、体がぶれるようなこともなく、見事なまでに安定した動きだった。

 暗い部屋の空間の中を、メイベルの体は泳ぐように進んでいった。時に床まで沈み、時に天井まで浮き上がる。ぼくは、前の世界の水族館で見た、潜水士とイルカのショーを思い出した。ただし、あの時とは違って、彼女は次第に奥の方へと進み、その姿はだんだんと小さくなっていった。

 そしてとうとう、メイベルは糸から降りて、地面に立った。ゴールである、向かい側のドアにたどり着いたらしい。ショーの潜水士なら、観客に向かって一礼するところだろう。けどメイベルはぼくの方を見て、くいくいと小さく手を動かしただけだった。「こっちに来い」の合図らしい。


 あ。見るのに夢中になってすっかり忘れてたけど、ぼくも同じことをやるのか。

 だけど困ったな。「体力」とか「スタミナ」のステータスには自信があるけど、あんなのやったことないぞ。バランス感覚も悪い方ではないと思うけど、あれはバランスだけでできるものじゃなさそうだし。

 ぼくが躊躇していると、メイベルはもう一度手を動かした。さっきより、動かす回数が多い。あれは「早く来い」、だな。

 そうは言ってもなあ。ちょっとできる気がしない。たぶんメイベルだって、何回か経験があるんじゃないかな? そうでなければ、あんなに見事に糸を渡れるとは思えない。できるようになった人は、できなかった時代のことを、忘れがちなものなんですよ。そんな指導じゃ、若手は成長しないよ?

 メイベルがまたまた、手を動かした。動かす回数がさらに増えて、その動かし方も速くなっている……。

 しかたがない。行くか。確かに、ここにこうしていたって、意味が無いもんな。一発勝負になるけど。一発勝負って、わりと弱い方だけど。現場猫どころじゃない事故発生率になりそうだけど、その時はその時だ。

 と、思い切って糸に乗ろうとしたその時──。


 あ。いいこと考えた。


 ぼくは糸をまたぐのをやめて、ドアから外に出た。メイベルがまた何か身ぶりをしているのが視野の隅っこに入ったけど、それは気にしない。そしてさっきまでいた廊下に戻ると、マジックバッグを探って、中からゴールドボアの死体を取り出した。アネットと一緒に迷宮に閉じ込められていた時、彼女が倒した魔物だ。その直後、アネットが倒れてしまったので、バッグにしまったままになっていたんだよな。あの時は大変だったけど、過ぎてしまえば、あの大変さもちょっと懐かしい……。

 彼女のことを思い出しながら、ぼくはボアの体に刀を入れた。もちろん、ここで本格的に解体しようというのではない。ぼくが欲しかったのはボアの毛皮と、それにべったりくっついている厚い脂肪だった。細長い形で、ある程度の大きさに切り取ったところで、ボアと毛皮をバッグにしまう。そして再びドアを開けて、改めて糸だらけの部屋に入った。


 ぼくはもう一度、マジックバッグに手を入れた。今度取り出したのは、さっきメイベルが使っていたのとよく似た糸車だ。これも、アネットから借りたままになっていたもの。操糸術を発動して糸を宙に浮かせ、メイベルの張った糸の後をなぞるように伸ばしていく。これ、けっこう難しいな。途中までの形を保ったまま、さらに先に糸を出していくのは……。まあ、そのうちにコツがわかって、ほぼ無意識に伸ばせるようにはなったけどね。その甲斐あって、糸は無事、メイベルの待つドアまで到着した。

 その糸をドアノブに絡ませた後、続いてバッグから取り出したのは、さっきのゴールドボアの毛皮だ。それを、メイベルの糸の上に乗せる。そしてその毛皮の上にぼくが腹ばいになった。こうして準備が終わったところで、再び操糸術を発動。今度は糸を伸ばすのではなく、縮めていく。その糸に引っ張られる形で、ぼくと、ぼくを乗せた毛皮は動き出した。

 さっきボアを解体したのはこのためだった。なにしろゴールドボアは肉としては高級品で、皮下脂肪もたっぷり。それを糸とぼくの間にはさめば、脂が潤滑剤になって、スムーズに動くだろうと思ったんだ。

 いざ、暗い部屋の中へ進んでみると、ちょっとした角度の上りも、上がっていくのはけっこうきつかった。メイベルはよく、自力でこんなところを登っていったな。これは初心者には無理ですよ。そこへいくとぼくのほうは、低年齢向けの、ゆっくりとしたジェットコースターみたいな感じで、安心安全な道行きだ。これで障害物の糸がはっきり見えていたら、スリルも満点だったかもしれない。


 それにしても、ぼくが見た映画でもそうだったけど、どうしてこういう、人が通れるような隙間を空けておくのかね。もしかしたら、人が歩くとか床に腹ばいになるとか、そういう動作しか予想していないからなのかな。その背後には、予算的なものもあるのかもしれない。検知装置を一つ増やせば、それだけ建設コストと維持費がかかるだろうから。

 まあそのおかげで、ぼくたちはここを通ることができそうなんだけど。


 なんてことを考えているうちに、のんびりしたコースターのコースは終了した。ぼくは糸を回収すると、メイベルの横に立って、「お待たせしました」と報告した。ちょっとだけ、どや顔だったかもしれない。メイベルは黙って自分の糸を回収していたけど、どういうわけか、少し渋い顔をしていた。糸車に糸が巻き終わると、彼女はその糸を指で触り、その指を鼻に近づけて、こんなことを言った。

「この糸は、もうダメですね」

「あ、ごめんなさい」


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