第161話 正しかった直感
上条には、何かが起きる予感はあった。
昨日、今日と極端に体調が悪く、もう限界だ、これ以上は悪くなりようがない、と思えるほどになっていたからだ。だが彼は、まさかこんなことが起きてしまうとは、予想もしていなかった。
その「何か」は、人の形をしており、冒険者がよく装備する革鎧を身につけていた。ただし、それは上半身の一部だけだった。下半身には、ぼろきれのような布が、かろうじてまとわりついているだけで、上半身も両腕の肘から先は、鎧が失われている。そして鎧のない部分は、全体の肉が焼け焦げて、その下にある骨がのぞいていた。特に、首から上の頭部は、かろうじてわずかな肉が張り付いているものの、ほとんどドクロそのものだった。もちろん、生きている人間の姿ではない。
それでも、ただのアンデッドであれば、いかに体調が悪いとはいえ、上条の敵ではなかっただろう。しかし、そうではないことが、上条にはわかってしまった。彼の視線は、ただ一点に注がれていた。その先にあるのは、怪物の着る革鎧の右肩だった。
開きっぱなしの眼が刺されるように痛んでも、上条はまばたきをすることができなかった。喉もカラカラに乾いて、焼けつくようだ。口を二、三度ぱくぱくさせ、ようやくのことで、上条はあえぐような声を漏らした。
「お、おまえ、まさか……」
その呼びかけに、怪物が答えることはなかった。両手を前に出した格好で、ただ黙ったまま、一歩、上条のほうへ近づいていった。ほおから垂れ下がった肉片がぶらん、と揺れて、ぺちゃん、と液体のようなものがはじける音を立てる。肉の焦げる臭気が、一気に強まったような気がした。上条はひぃと悲鳴をあげ、しりもちをついた。
その無様な格好のまま、懸命に手と足を動かして、後ずさる。怪物との距離が少し離れると、上条はなんとか立ち上がって、さっき来た廊下を後戻りした。しかし、あまりに衝撃が大きかったためか、体にまったく力が入らない。ふらふらと覚束ない足取りで、何度も廊下の壁にぶつかりながら、ようやく寝室のドアまでたどり着いた。そしてドアノブをつかもうとして、汗で濡れた手が滑り、大きな音を立てて、前のめりに倒れてしまった。
後ろを振り返ると、怪物の腕から先が、廊下の角から現れるところだった。上条は上半身だけを起こしてドアノブを回し、部屋の中へ転がり込んで、急いでドアを閉めた。
「あいつ、まさか……ユージなのか?」
彼の脳裏に、先ほどの怪物の姿が蘇った。記憶の中の映像で大写しになっていたのは、怪物が身につけていた革鎧の、右の肩当ての部分だった。
何らかの原因で損傷したのか、しっかりと固定がされておらず、怪物が動くたびに、ぶらぶらと揺れ動く。その肩当てと鎧の本体とを止める紐のうちの一つが、革紐ではなく、黒く細い糸になっていたのだ。迷宮の中で、ユージが操糸術とかいう術で修繕していた鎧の肩当て。あの時の修繕の位置が、怪物が身につけていたものとまったく同じだった。
加えて、腹部にあった剣で貫かれたような穴、そして何より、怪物の全身に広がっていた火傷の跡……これだけの偶然が重なるとは、とても思えない。
あれは間違いなく、ユージだ。
かつては友人だった者の醜悪な姿を思い出して、上条の体が大きく震えた。
ユージがなぜアンデッドになり、どうやって迷宮を抜け出したのか、上条にはわからなかった。だが、どうしてここに来たのかだけは、十分すぎるほどにわかっていた。
復讐だ。
ユージを直接、溶岩の中に突き落としたのは、一ノ宮だ。だが上条も、彼の行動を正しいと認めていた。魔族を打ち破るためには、やむを得ない犠牲だ、と。ユージが自分のことを仇と見なすのも、不思議ではない。上条はそう考えた。
迷宮を脱出して以来、上条はずっと悪夢に悩まされて続けていた。その夢に登場するのは決まって、溶岩に落とされたユージの、焼けただれた姿だった。自分が立っていた位置からすると、ユージが落ちた後の姿が見えたはずがない。上条はそう、自分に言い聞かせた。だがそれでも、幻のユージの姿が夢に出てくることは、止まらなかった。そしてさきほどのアンデッドは、夢の中のユージの姿に、驚くほどに似ているような気がした。
コツン、とドアを叩く音がした。その小さな音に、上条の体がびくん、と跳ね上がった。
今はそんなことを考えている場合じゃない。上条は頭を振った。そしてそのとたん、大きな後悔に襲われた。ああ、どうして俺は、この部屋に戻ってしまったんだろう。あの入り口から、離れの外に逃げ出せば良かったのに。そして、誰か応援を呼んでくることができれば! だが、仮に逃げたとしても、最後には同じ結果になるだろう、とも思われた。なぜならあの怪物は、上条の命がある限り、どこまでも彼を追ってくるだろうから。
少しの間が空いて、今度はどん、と大きな音がドアを揺らした。
ドアに向かって、思い切り体当たりでもしているかのような音だった。おそらくは、実際にそうしているのだろう。また少し間を置いて、同じ音が響いた。そして、三度、四度。その音はどんどん強くなり、まるで地震のようにドアと壁を揺らした。とうとう、蝶番を留めるネジが外れる音が響いた。
全身が総毛立ち、上条の喉が、ヒューという音を発する。次の衝撃とともに、部屋のドアと、その向こうにいた焼けただれた怪物が、部屋の中へ倒れ込んできた。
床を転がるようにして、上条はドアのそばから離れた。上体を起こした瞬間、怪物と目があった。その両眼は、虚ろな眼窩をさらしていた。上条は息を呑み、凍り付いたように動けなくなった。そんな彼にすがりつこうとするように、怪物が手を伸ばしてきた。上条は悲鳴を上げ、何度も繰り返し足で蹴って、その手を払った。
腰が抜けたようになってしまい、起き上がることもできず、上条は這いつくばったまま、逃げまわった。ようやくのことで、ベッドの脇に置いてあった大剣までたどり着き、それを杖代わりにして立ち上がった。
上条は、大剣を手に取った。気がつくと、彼が感じている脱力感と吐き気は、この数日の苦しみなど序奏に過ぎないと思えるほどに、激しいものになっていた。それでも剣を手にすることで、上条はいくらか落ち着きを取り戻した。彼は大剣を鞘から抜き、上段の構えを取った。
かつてはあんなに軽々と振り回していた愛用の剣が、ずっしりと重く感じられる。上条は思った。なぜ、さっきまでの疲労感を「限界」だなどと考えていたんだろう。これよりひどくならないなんて、どうして言えるんだ? その答は、上条には直感的に、察しがついていた。これよりも症状が重くなるとしたら──それはもはや、「疲労」などではないからだ。
それはおそらく、「死」そのものなんだろう。
怪物が立ち上がり、再び上条に近づいてきた。それとともに、上条の疲れは、その限界をさらに打ち破ろうとしていた。焦点が定まらなくなってきた目をかっと見開き、最後の力を振り絞って、上条は剣を振り下ろした。
だが。
上条の直感は、正しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます