第116話 ボコボコと泡のように

 ぼくたちの目の前にあったのは、広大な空間だった。


 高さや、前方の壁までの幅は、三十メートル以上はあるだろうか。左右には壁がないところからすると、どうやらここは部屋ではなく、通路らしい。そんな巨大な通路が、見渡す限りまっすぐに続いていた。

 右を見るとかなりの急傾斜で下に降りていて、その先は次第に暗くなり、見通すことができなっていた。左側も、同じく急勾配で上に昇っており、そのはるか先には、小さな光の点が見えた。

 発光石のオレンジ色とは違う、白い光の点だ。おそらくあれが、地上の光なんだろう。フロルの言っていた、「まっすぐ。ただまっすぐに行けばいいの」とは、この大通路のことだったんだ。


 そしてここに、ぼくが抱いていた疑問への、もうひとつの答があった。それは、この上なくシンプルな解答だった。強いアラネアは、狭い通路を通れない。なのに、そこにいるアラネアが強かったのだとしたら、そこには大きな通路がなければならないんだ。

 おそらくこれも、マザーアラネアのしわざなんだろう。具体的に、どうやって土を掘ったのかはわからないけど(ブレスのようなもので破砕したのか、それとも土を操作するスキルや魔法でも持っているのか)、そいつは自分が通れる大きな通路を作って、一直線に迷宮の最深部までたどり着いた。そして、そこにいた迷宮の主を倒して、新しい主になった。その後で数多くの卵を産み、自分の子供たちで、この迷宮を埋め尽くしたんだろう……。


 そんな大通路には、あちこちに直径五メートルほどの穴が開いているのが見えた。迷宮にもともとあった通路との、合流地点だ。今、ぼくたちが立っている場所も、そんな穴の一つになっているんだろう。

 ぼくたちは周囲の状況を把握すると、すぐに大通路へと下りていった。ゆっくりしている時間はない。背後からは、少しだけ引き離していたアラネアの大群が、近づいてくる音が聞こえてくる。

 息つく間もなく、ぼくとアネットは、大通路の底を走りだした。もちろん、左側に続いている、急勾配の上り坂を。この道が地上へ通じることを示す、白い光に向かって。


 だけどそれは、少し遅かったようだ。


 突然、はるか遠くにある白い光の点が、わずかに歪んだ。と、大通路のあちこちに散らばっている穴という穴から、ボコボコと黒っぽい、泡のようなものが湧き出てきた。いや、それは泡などではなかった。ビッグアラネア、スモールアラネア、グレーターアラネア。クモの魔物の大群が、大通路へ通じる道を通って、ぼくたちの前に集まってきたんだった。

 次から次へと、魔物が別の魔物に押し出されるようにして出てきため、まるで泡のような盛り上がりになって見えていた。もしかしたら、この迷宮にいるすべての魔物が、ここに群がっているんじゃないか……そう思えるほどの、アラネアの大群だった。

 あっという間に、広大な通路は大小様々なアラネアによって埋め尽くされた。床も天井も壁も、立錐の余地もないほどに。そしてそれは、申し合わせたかのように一斉に、ぼくたちの方へと向かってきた。


 ぼくとアネットは言葉を交わすこともなく、即座に回れ右をして、今までとは逆の方向、迷路の奥の方へ逃げだした。こっちに行っても、地上からは遠ざかる一方だ。そんなこと、言われなくてもわかっている。だけど、これ以外に選択肢がなかった。さすがに、あの数の魔物の群れに飛び込むのは、自殺行為だ。

 不思議なことに、迷宮の奥側にある穴にもアラネアの姿は見えているのに、そいつらはそこから出てくることはなく、ただ穴の中で、ぼくたちに頭を向けているだけだった。ぼくとアネットは、魔物に立ち塞がれることなく、まるで誘導されているかのように、大通路を下へ下へと駆け下りていった。


 急に、前を行くアネットが転倒した。ほとんど凸凹のない平らな地面で、足を取られるようなものなんてなかったのに。そして転がったまま、立ち上がろうとする動きを見せなかった。

 彼女の、今はサラシをしていない胸が、激しく上下しているのがわかる。以前、鑑定でのぞいた彼女の「体力」のステータスはかなりのものだったけど、今は病み上がりだ。そんな体で、こんなに長い時間、走り続けているんだ。すでに限界以上のものを出し尽くしてしまったんだろう。そんな姿を見て、ぼくはとっさに決断した。


「失礼」

「あっと、え?」


 アネットは、彼女にしては珍しい、とても女の子らしい声を上げた。ぼくがアネットを、胸の前に抱き上げたからだ。前の世界で言う、「お姫様だっこ」の格好で。そしてその体勢で、再び走り始めた。

 偽装スキルで隠してあるけど、ぼくの「筋力」と「体力」のステータスは、けっこう高い。アネット一人くらい、なんとかなる。そういえばちょっと前にも、彼女をおぶって走ったことがあったっけ。

 少しの間、アネットは呆然とした表情でぼくの顔を見ていたけれど、やがて両方の手をぼくの首に巻き付けて、彼女の上半身をぼくの胸に密着させた。


 そうして、どのくらい走ったんだろう。もう、時間も距離もわからなくなってきた頃、目の前の光景が再び一変した。



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