第115話 糸のようなものが

 その後も、脱出への道のりは順調に進んだ。分岐点に来たら丸石が置かれた方向に折れ、魔物と遭遇したらやや速度を落として、回避優先で進む。こうしてあっという間に、一週間前に到着した箇所までたどり着いた。


 と、その時急に、先頭のアネットが走るのをやめた。


「アネット、どうかした? ゴールドボアの肉は、迷宮を出てからにしようよ」


 冗談めかして、ぼくはそんなことを言った。ここはちょうど、あの時ゴールドボアを倒したあたりだったからだ。

 もちろん、あの時の魔物の死体など、もう残ってはいない。というか、あのゴールドボアって、マジックボックスにしまったんだっけ。小部屋にこもっている間も、ずっと放置したままだったな。今度どこかで外に出して、血抜きをしておかないと。

 ぼくはそんな呑気なことを考えていたけど、振り返ったアネットの顔は、真剣そのものだった。


「何か、切ったかもしれない」

「切った?」

「うん。目には何も見えなかったけど、ここを通った時に、足にかすかな抵抗を感じた。何か、細い糸のようなものがあって、それを切ってしまったような……」


 ぼくは思わず眉をしかめた。彼女の答の中に、あまりにも不吉な言葉が入っていたからだ。『糸』だって? 


 そのことを深く考える間もなく、探知のスキルが警報を発してきた。

 前と後に、複数の反応が現れたんだ。特に、後にいる反応は数が多い。移動速度も速く、魔物の大群がものすごい勢いでぼくたちを追いかけてきているらしかった。ぼくたちは、前へ進むことを選んだ。

 当然の判断だと思ったんだけど、結果論で言えば、ちょっと早まったのかもしれない。その後すぐ、前方から大きな反応が現れたからだ。が、後ろの魔物は、なにしろ数がすごい。やむを得ず、ぼくらは前へ向かって駆け続けた。

 やがて、通路の前方から、奇妙な音が響いてきた。カサカサと、壁をひっかくような音。そして、緩やかにカーブしている通路の壁の向こうから、巨大なクモが姿を現した。

 体長は五メートルもあるだろうか、ほとんど道をふさいでしまうほどの大きさだ。グレーターアラネア、いや、もう少し成長すればクイーンアラネアと呼ばれてもおかしくなさそうな個体だった。その巨体が、ゆっくりとした足取りで、こちらに這い寄ってきた。

 ぼくは思わず立ち止まり、後ろを振り向いたけど、そちらからも二十匹あまりのスモールアラネアが、ぼくらに迫っていた。その背後には、数え切れないほどのアラネアの姿が見える。アラネアの群れは、通路の床だけでなく、壁や天井までも埋め尽くそうとしていた。


 やられた、とぼくは思った。


 アネットが切ってしまった「糸のようなもの」は、おそらく侵入者を検知するための、信号線のようなものだったんだろう。アラネアなら感知してよけられるけど、侵入者にはわからない、そんな仕掛けだ。

 アラネアは、地球で言えばハエトリグモやアシダカグモのような移動性のクモの魔物で、巣を張って餌を待ち構えるタイプではない。そのため、糸のことは頭からすっぽり抜け落ちてしまっていた。ハエトリグモだって、糸は使うというのに。


「どうする?」


 あわただしく前後に視線を動かしながら、アネットが尋ねてきた。


「戦うのなら、後ろのスモールアラネアのほうが勝ち目があるかもしれない。数がすごいけどね。けど、迷宮の奥へと引き返しても、たぶん意味はない」

「だろうね。迷宮を出るなら、結局はこの道を通ることになりそうだし」

「じゃあ、いくよ。覚悟を決めてくれ」


 アネットがうなずいたのを見て、ぼくはグレーターアラネアに向けて走り出した。グレーターアラネアはギギイとうなり声をあげ、二本の前足を鎌のように振り上げる。接敵する直前、ぼくは魔法を唱えた。


「《ファイアーウォール》!」


 できる限りの魔力をこめた、火魔法だった。火の壁が、幅も高さも、通路いっぱいに広がる。とはいえ、この大きさの魔物に、ぼく程度のレベルの火魔法が効くとは思っていない。ぼくの狙いはそこではなかった。


「ついてきて!」


 そう叫ぶやいなや、ぼくは炎の壁に向けて突っ込んでいった。革鎧が焦げ、髪の毛が焼ける匂いがするけど、そんなことは気にしていられない。真っ赤な炎を隠れ蓑に、この大きな魔物の体をすり抜ける。それが、とっさに考えた作戦だった。

 炎を見たグレーターアラネアは、おそらく本能的に、動きを止めていたんだろう。炎を抜けると、止まったままの動かない、大きな足が見えた。その足と足の間を、壁を伝うようにして、走り抜けることができた。


「ギギギ!」


 グレーターアラネアも、すぐにそれと気がついたらしい。その巨体からは想像できないほどの素早さで、体を百八十度横回転させてえ、ぼくたちを追いかけてきた。さらにその後ろには、数え切れないほどの数のスモールアラネア、ビッグアラネアが続いている。ぼくたちはそのまま、走り続けるしかなかった。


 走りながら、ぼくは考えていた。そうか。さほど強くはない、通路を通れる程度の大きさの個体で、アラネアたちはどうやって迷宮を征服したのかが不思議だったんだけど、やっと答がわかった。強さではなく、数で圧倒したんだ。

 たぶん、数多くのアラネアが、一つの意志の元に動いたんだろう。さっき小部屋の外で待っていた、十匹のアラネアのように。そして今、ぼくたちの後ろを追いかけている大群のように。

 これだけ多くのアラネアが一つの敵に殺到すれば、難敵を破ることも可能だったに違いない。中にはグレーターアラネアなんて大物がいる群れが、一つの意志の元に動いているとすると……その指令を出しているのは「マザーアラネア」、この迷宮のぬしとなった変異種に違いない。これも、変異種ゆえの特異な能力なんだろうか。


「よけて!」


 アネットの叫ぶ声が耳に入った。その直後、ぼくのすぐ右脇を、衝撃波のようなものが通り過ぎる。それは前方にある壁に衝突して、火魔法のような爆発を起こした。壁は深くえぐられ、周囲の地面は発光石の破片で、淡いオレンジ色の光に覆われた。


「なんだよ今の。あのアラネア、魔法を使うの?」

「ブレスだよ。ヒトのように術式での制御をせず、魔力そのものを、そのまま放っているんだ」


 アネットが答えた。そう言われて、そんなものを吐く魔物もいる、という話を思いだした。中には、ある程度の術式を加えた、火や氷のブレスを放つ魔物もいるらしい。制御されていないとは言っても、破壊力は相当なものだ。もしも直撃すれば、ただではすまないだろう。


 ぼくとアネットは、迷宮の通路の中を、ただただ走り続けた。幸い、後の魔物たちとの距離は縮まることはなく、むしろ広がっていった。ぼくたちの前方にも、魔物の姿はほとんど現れない。たまに出くわしてもビッグアラネアくらいで、戦わずにすり抜けていくことができた。

 人間という動物は、短距離では遅いけど、マラソンになれば意外に速い動物だ、という話を聞いたことがある。もしかしたら、このまま逃げ切れるかも……と思い始めた頃、突然に通路が終わり、目の前の光景が変わった。



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