第96話 ライヘンの滝

 翌朝、ぼくはストレアの街を出た。


 空が明るくなるかならないかの、まだ早い時間。本当はもっと早く出たかったんだけど、夜の間は門が閉められてしまうからね。合法的に、一番早く出られる時間を選んで出発した。

 なぜストレアを出ることにしたかというと、原因はもちろん、昨日の尾行者だ。

 あれは、なんだったんだろう。少なくとも、あいつがぼくを探っていることは、間違いなさそうだった。もしかしたら、殺し屋かなにかの可能性もあるかもしれない。たとえば山賊の残党あたりが、ボスの敵討ちのために依頼した、とか。山賊を討伐したのは五ヶ月ほど前のことだから、ちょっと時間は空いているけど、その間ずっとぼくを探していた、ということもないとは言えない。

 あ、騎士団長が死んだのはぼくのせい、というガセネタを信じた人が依頼した、なんて可能性もあるのかな? いや、それはないか。そんな義憤に駆られた人がいたとしても、やるのはせいぜい、ぼくの悪口を言うくらいのものだろう。それに、ぼくの今の名前やら居場所やら、個人情報のたぐいを知らなければ、殺しの依頼なんてできないだろうし。

 あれが殺し屋だったにしろ、そうでなかったにしろ、することは同じだった。逃げてしまえばいい。戦うなんて面倒くさいし、たとえ勝ったとしても、こっちには何のメリットもないんだから。


 というわけで、ぼくは急いで街を出ることにしたのだった。

 もともと、たいした目的があって来た街ではなかったからね。迷宮に入ってみたい気持ちも少しはあったけど、クモだらけではしかたがない。また今度、事態が落ち着いた頃にでも、来ることにしよう。


 ストレアの北門を出て、東西に延びる街道を西へ歩いていく。この道は、しばらく行くと山の中に入って、ストレア迷宮の入り口すぐ近くを通過する。ストレアは迷宮の街だから、迷宮攻略に便利なように、立派な道ができているんだろう。ただ、時間が早いためか、あるいは迷宮の異常事態のためか、ぼく以外に道を行く人の姿はなかった。

 やがて迷宮入り口についたけれど、今は挑戦するつもりはないので、そのまま通り過ぎる。さらに進むと、本格的な峠道に入って、道の傾斜がきつくなってきた。

 この先には、ストレアのもうひとつの名物がある。「ライヘンの滝」という大きな滝が、街道のすぐ近くにあるんだ。この世界、観光業というものはあまり発達していない。経済的にそんなに豊かにはなっていないので、遊びの旅に出られるような人の数が、少ないからだろう。そんな世界でもそれなりに名が知られているくらい、有名な滝なんだそうだ。

 けど、今日のところは、ここも寄っていくつもりはないけどね。急いで街を離れた方がよさそうだから。


<ねえねえ、ユージ>


 この時、フロルの声が頭に響いた。今の彼女は実体化していないから、声といっても念話の声だ。ちなみに、少女の姿をやめて小さな光の形になっている時は、ぼくの頭に乗っているか、胸の中に入っていることが多い。今の念話は、ぼくの胸の中から届いたもので、慣れるまでは、ちょっと変な感じだったっけ。


<なんだい、フロル? もしかして、滝を見たかった?>


 滝というとマイナスイオンのイメージがあって、自然に近い精霊なんかは、好きそうな場所に思える。なんとなくの、イメージだけど。

 ぼくは昔、どうして水が落ちるくらいでマイナスイオンができるんだよ! と思っていたけど、水が粉砕されてごく小さな水滴になる時に、その水滴がマイナスに帯電することがあるんだそうです。ちょっと意外。ただし、電荷量はめちゃくちゃ低いから、あったとしてもそれが健康に良いとかいうレベルの話ではないんだそうだ。イオンは本当だけど、健康の効果が云々、はガセみたい。

 ところが、フロルが返した答は、滝とは関係の無いものだった。


<たぶん昨日のヒトだと思うんだけど、また来てる。ユージの後ろに、ついてきているのよ>


 げ、やっぱりか。ぼくは少しうんざりしながら、聞き返した。


<どのくらい後ろ?>

<昨日より遠く。だいたい、百メタくらいかな>


 ぼくは急いで、かけっぱなしの探知スキルの反応を再確認した。が、やっぱり何も引っかかってはいない。そこで昨日と同じように、探知の網を狭めて、フロルが教えてくれた場所の周りだけを探ってみた。

 この方法、「精密モード」と呼ぶことにするけれど、こうすることでようやく、それらしい手応えを得ることができた。おそらく、相手が隠密スキルを使っているから、このモードでないと気づけないんだろう。まず間違いなく、昨日と同じやつだな。

 どうやら、簡単に逃がしてはくれないようだ。そりゃそうか。少し早めに出発したくらいで、見逃してはくれないよなあ。相手もたぶん、プロなんだから。こうなったら、しかたがない。

 こっちも予定を変更して、プランB、で行きますか。


<ねえフロル。そいつをもうしばらく、見張っていてくれる? 五十メタくらいになったら教えて。その間に……>

<その間に?>

<ぼくはちょっと、滝の見物をすることにしよう>


 次の分かれ道で、ぼくはここまで歩いてきた街道から、外れる道を選んだ。道の脇に建てられている古い看板には、「ライヘンの滝」と書かれている。この道を下っていくと、滝を見物できる場所に出るんだ。さっきよりも細くなった道を歩いていると、フロルの念話が入った。


<あ。あいつも、この道に入ってきたの>

<了解。ちょっと急ごうかな>


 木の生えていない、かなりの急勾配な岩肌の斜面を、道は突っ切っていく。そこを急ぎ足で進んでいくと、遠くから水の音が聞こえてきた。やがて道が大きく右にカーブし、そこを曲がりきった先の正面に、ライヘンの滝が姿を見せた。


「うーん。やっぱり、いいところだよね」


 後に変なやつがいることも一瞬だけ忘れて、ぼくは思わず独りごちた。

 滝は、横幅はそれほど広くはない。それでも、華厳の滝の倍くらいはあるだろうけど、ナイアガラほどの大きさではなかった。それよりも印象的なのは、その高さだ。

 落ちてくる水の元をたどろうとすると、ほとんど上を見上げるような格好になる。それくらいの高さから、水が落ちてきていた。まるで天上から降り注いでいるような、長く美しい銀色の糸。その一つ一つが、生きているかのように曲がりくねり、躍動して、光り輝きながら滝壺へ落ちていた。



<ユージ。あいつが、近くまで来たよ>


 フロルからの念話が、頭に響いてきた。


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