第8話 哀惜(三)

 母親が救急搬送されてから二週間後に、紹介された足立区の介護療養型病院に転入院した。


 病院に着いて病棟のなかに入った時、私はその病院が普通の病院とはあきらかに雰囲気が違うことに気がついた。病棟の階ごとにかぎがかけられていて、なかに入る時は、インターホンで職員を呼んで鍵を開けてもらわなければならない。病棟の廊下には、折り紙で作った飾り物があちらこちらに飾られている。まるで保育園の廊下のようだ。


 その病院は、精神科専門の病院だった。介護療養型病院は副業として運営しているらしく、私はこの病院に母親を預けることに少し不安を抱きはじめていた。そして、その不安は実に現実味を帯びていたのであった。


 私が病院に対して特に気を配ってもらいたいことは、定期的に吸引することであった。しかし、面会に行くごとに感じたことは、吸引を疎かにしているように思えたのである。


 常駐する担当医も少し普通ではなかった。その病院では、三ヶ月に一度カンファレンスが行われ、家族と病院関係者が話し合うことになっている。そのカンファレンスで担当医が、母親が危篤きとく状態になっても救急搬送しないと言いだしたのだ。理由を聞くと、救急搬送中に死亡する可能性が高いし、受け入れてくれる病院もないと言っている。


 私は、それがひとの生命を救う医師の言うことかと怒りを覚え、思わず声高に問いただした。


「この前胃瘻のカルテールを交換した病院は、受け入れてくれないのか?」

「あの病院はうちの提携先の病院ですが……」


 担当医は、面倒くさそうなていで答えていた。明らかに提携先の病院を紹介したくないことが読み取れる。


「母親が危篤状態になった場合は、すぐに提携先の病院に救急搬送するように」


 と私はやや強い口調で担当医に伝えた。


 たとえ医師といえども、家族の同意なしに生命を脅かす行為は出来ない。担当医はあらかじめ、私の同意を求めることによって、救急搬送を避けようとしていたのだ。


 出端ではなをくじかれた担当医は、返す言葉もなく茫然ぼうぜんとしていた。私は、担当医の発言による腹正しさから無言で部屋を出て行った。


 母親が救急搬送されたのは、カンファレンスの日から一ヶ月後のことであった。


 朝、担当医から私の携帯に直接連絡があった。


「お母さまが吐血とけつしたので、提携先の病院に救急搬送しました」

「病院の最寄り駅はどこですか?」

西新井にしあらい駅です」

「有難うございます。すぐに病院に向かいます」


 救急搬送してくれたという安堵あんどと、母親の容態の懸念から、私の心のなかは蝋燭ろうそくの炎のように揺れ動いていた。


 外は土砂降りの雨だった。西新井駅に着いた私は、タクシーを拾って病院に向かった。


 病院に着くと、ナースステーションのすぐ隣の病室に通された。母親が憔悴しょうすいした猫のようにベッドの上で眠っている。母親の胸部から色違いのコードが数本伸びていて、そのコードはベッドの隣に設置してある機械に繋がっていた。機械からは絶えずピッ、ピッ、ピッという音が鳴り響いている。機械のモニターには、光の線が流れるように波うっている。看護師が私に何か説明していたが、ほとんど耳に入らず私はただ相槌あいづちを打つだけだった。


 しばらくすると、別の看護師から診察室に行くように促された。


 担当の医師は、妥協を知らない鉄のような女性の医師であった。


「ご存じだと思いますが、吐血してここに運びこまれました。今のところ胃自体には異常はありませんが、もう胃瘻での栄養摂取はむりですね」

「……」


 私は、固唾かたずを飲んで医師の言うことを聞いていた。


「今後のことですが、水分を点滴して見守るか、栄養を点滴して延命措置をとるかどうしますか?」


 医師は、私に命の選択を求めていた。


 あまりにも唐突な質問に私は少し戸惑っていた。しかし、


「栄養を点滴してください」


 と正直な気持ちを医師に伝えた。母親に、生きていてほしかったのである。


 母親はもう、何も言葉を発しなくなっていた。目が明いているだけで植物人間と同じような状態になってしまい、きっとこの病院で亡くなるのだろうと、私は覚悟を決めていた。

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