第5話 帰郷(三)

 最終日、午前中は新湊の市内を散策して午後東京に帰る手はずになっていた。私の当初の計画では、母親の生家があった付近や、母親が子供の頃に遊んでいたと思われる神社を訪れる予定であったが、仁美伯母が同行するのでその計画は諦めなければならなかった。


 仁美伯母は伯母なりに気を使っていたようで、堤防の内側の通りを放生津八幡宮まで一緒に歩いた。伯母は、新しい堤防の内側の通りを歩くようにと腹立たしく言っていたが、私はそれだけは譲れなかった。何を言われようが、母親が子供の頃に歩いていた古い堤防の内側の通りを、母親を連れて歩きたかったのである。


 放生津八幡宮に着くと、仁美伯母と母親は拝殿の階段に座り込んで何か話しはじめた。何の話をしているのだろうか。「子供の頃、ここによく来たものだね」などと話しているのかもしれない。私は、出来るだけ二人だけにしておこうと思い、神社の境内をうろうろとひとりで歩きまわった。姉妹が二人そろって話をすることが出来るのも、今日で最後なのである。


 境内の海側には、古い堤防にあがる壊れかけた石段がまだ残っていた。さらさらしたやわらかい砂にまみれたその石段は、かつてこの場所が砂浜であったことを物語っている。


 放生津八幡宮からは、放生津内川に沿って茂義の家の方角に向かって歩いて行った。


 川の所どころ、四、五人が乗船するような小さな漁船がロープにつながれて浮かんでいる。真夏の陽光を受けたきらめく川面かわもは、まわりの景色を鮮やかに映しながら穏やかに波うっていた。


 私達は、途中でKカフェに入って休憩をとった。一階が特産品売り場、二階がカフェになっている。その建物のなかには、新湊曳山祭しんみなとひきやままつりにだされる曳山が二基展示されている。仁美伯母は、私と母にその曳山を見せたかったのであった。それにもかかわらず母親は、一階の特産品売り場でスクリーンに映し出されている曳山祭りの映像を、懐かしむようにひとりでじっと見入っていた。まるで、遠い記憶のなかにある幼い頃に見た曳山祭りを、懐かしんでいるかのように。


 川沿いを歩いているうちに雨がしとしとと降ってきた。すぐ近くに病院があったので、私達はその病院のなかに入って雨宿りをすることにした。仁美伯母が「これも何かの縁なのかねえ」と突然言いだした。完次伯父が、胃がんをわずらってこの病院で亡くなっていたのである。


 完次伯父はよく病院を抜けだして、病院の出入口から出てすぐかどのタバコ屋でハイライトを購入すると、そのまま寝間着姿で堤防まで行って、タバコを吸いながら海を眺めていたそうだ。その頃はすでに手遅れの状態で、本人もそのことを知っていたらしかった。


 雨は一時的な驟雨しゅううで、雲の隙間からは日が射しはじめ、しだいに群青ぐんじょうの空へと広がっていった。私達はまた放生津内川に沿って歩きはじめた。茂義の家の付近に着いた時はちょうど正午頃になっていた。私と母親はホテルにもどるために循環バスに乗ったのだが、仁美伯母も一緒にバスに乗り込んできた。高岡駅まで見送りに行きたいと言うのである。


 ホテルに着いてチェックアウトした私は、土産を買っていないことに気がついた。土産店に行く時間がないので諦めようと思っていたが、ちょうどホテルのロビーで土産用の白エビ煎餅せんべいが販売されていたので、それを土産に買ってからタクシーを拾って高岡駅へ向かった。


 高岡駅に着いた私と母は、特急「はくたか」に乗り込んで指定座席に着いた。仁美伯母は、涙ぐみながら出発するまで駅のホームから母親のことを見つめていた。これが最後の対面であるにもかかわらず、母親はうつむいたまま前の座席の下のあたりを見ている。その時私ははじめて気がついた。仁美伯母が実姉であるということを、認識出来ていなかったのである。若い頃に姉弟五人で上京して以来、三十年間一緒に東京で過ごしていたので、仁美伯母だけは認識出来ていたと思っていた。電車が動きはじめた。私は母親に仁美伯母へ手を振るように促すと、母親はゆっくりと仁美伯母の方を向いて手を振りだした。

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