第4話 帰郷(二)
翌日は、茂義の家で
母親は、茂義の顔を見ると「あんた私の兄によく似ているよ」と、おかしそうに笑いながら何度も言っていた。茂義は
その頃、ちょうど民主党が台頭した頃で、茂義と仁美伯母は日米関係について語りはじめた。私は、政治には関心がなかったので「ちょっとそこら辺を散歩してきます」と茂義にことわってひとり外に出て行った。実を言うと、私はこの機会をずっと
茂義の家を出た私はすぐに堤防に向かった。堤防にあがった時、私はしばらく体を硬直させながら周りの景色を眺めていた。そこで見た光景は、三十年前とは見ちがえるほど異なるものだったのである。
私が今いる放生津町と隣の港町の間を流れる川には、
堤防へ向かった目的はもうひとつあった。三十年前、堤防の誰も踏み入れることがない場所に、自分の年齢である十二の数字を釘で刻んでいたのである。その刻んだしるしを確認しに行ったのだった。かなり深く刻んでおいたので、残っていることを期待していたのだが、十二の数字は跡形もなく消えていた。
私が茂義の家にもどると、仁美伯母が
市内の循環バスで海王丸パークに向かったのだが、私の印象は、
夕食を、仁美伯母が海鮮料理をご馳走するというので、K
食事中の話題は、もっぱら母親の認知症の話であった。独り身で高齢の仁美伯母にとって、認知症という病気が気になるようだ。
「最初は、どんなだったんだ?」
仁美伯母が不安げに聞いてきた。
「何かを懸命に探していたんだ。ネックレスや腕時計や鈴のついた鍵など」
「それから?」
「それから、何度も同じことを聞いてきたり、話したことをすぐに忘れてしまったりした。認知症がひどくならないように散歩に連れて行ったり、ひとりで買い物に行かせたりしたけれど良くならなかった。行き慣れない所にひとりで出かけると、帰って来れなくなることもあるんだ」
「……」
叔母は、私が話していることを唖然とした様子で聞いていた。
母親の認知症の症状は突然訪れた。「何かを懸命に探す」それが認知症の初期症状だった。
母親は、自宅で習字教室を開いていて、教室を閉めた後も暇さえあれば創作活動をしていたので、認知症になることはないと私は思っていた。しかし、
食事を終えて料亭を出ると、町中はすっかり暗くなっていた。万葉線の駅の明かりだけが
仁美伯母とはK割烹で別れ、私と母は伯母に教わった道順をたどってホテルへ向かった。万葉線の踏切を渡ってしばらく歩いているうちに、私達は田畑に囲まれていた。たまに通りかかる車のヘッドライトの明かりだけをたよりに、道路を確認するように歩いていると小雨が降ってきた。
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