第4話 帰郷(二)

 翌日は、茂義の家で鱒寿司ますずしをご馳走になった。茂義の家は、三十年前、中学一年生の時に宿泊した家そのままの状態だった。茂義は私の顔を見るなり「よう来た、よう来た」と言って笑顔で私を迎い入れた。ひとりで部屋の掃除をしていて元気そうだった。しかし、茂義の体は癌に侵されていたのである。食卓には鱒寿司、焼いた鱈、ノンアルコールビールが並べられていた。酒飲みだった茂義は、一年前に胃癌の手術をしていたためアルコールは飲めないらしかった。


 母親は、茂義の顔を見ると「あんた私の兄によく似ているよ」と、おかしそうに笑いながら何度も言っていた。茂義は呆気あっけにとられ「俺のこともわからないのか」と仁美伯母に話しかけていた。茂義としては、二十年ぶりに再会した末の妹と積もる話をしたいと思っていたのだろう。しかし、食事中に母親が「あっ、洗濯ものを入れなくっちゃ」と突然立ち上がろうとしたのである。私は、即座に母親が立ち上がるのを制したのだが、その様子を見ていた茂義は、母親の認知症の症状がかなり進行していることに改めて気づいたようであった。


 その頃、ちょうど民主党が台頭した頃で、茂義と仁美伯母は日米関係について語りはじめた。私は、政治には関心がなかったので「ちょっとそこら辺を散歩してきます」と茂義にことわってひとり外に出て行った。実を言うと、私はこの機会をずっとうかがっていたのである。


 茂義の家を出た私はすぐに堤防に向かった。堤防にあがった時、私はしばらく体を硬直させながら周りの景色を眺めていた。そこで見た光景は、三十年前とは見ちがえるほど異なるものだったのである。


 私が今いる放生津町と隣の港町の間を流れる川には、奈呉なご浦大橋うらおおはしがかけられている。かつて消波ブロックがあった付近は、埋め立てられて湾岸道路が敷設ふせつされている。湾岸道路の海側に新しい堤防が作られている。新しい堤防と湾岸道路、古い堤防が並行して延びているのであった。堤防の内側に面している荒涼こうりょうとした家々には、人が住んでいる気配はなかった。その家々の屋根には、壊れかけた屋根瓦やねがわらが散乱している。茂義が言うことには、この付近一帯は再開発する予定であるらしい。三十年前、放生津八幡宮まで伯父や伯母と一緒に歩いた時の面影はまったくなかった。それでも私は、古い堤防の内側の通りを追懐ついかいしながら歩いた。


 堤防へ向かった目的はもうひとつあった。三十年前、堤防の誰も踏み入れることがない場所に、自分の年齢である十二の数字を釘で刻んでいたのである。その刻んだしるしを確認しに行ったのだった。かなり深く刻んでおいたので、残っていることを期待していたのだが、十二の数字は跡形もなく消えていた。


 私が茂義の家にもどると、仁美伯母が海王丸かいおうまるパークに行くと言い出した。海王丸パークは、平成四年に完成して新湊の代表的な観光スポットになっていた。商船学校の練習船であった帆船はんせん海王丸が、一般公開されているのである。白鷺しらさぎのように純白で海の貴婦人と呼ばれている海王丸を、ぜひ見せたいと伯母が言うのであった。


 市内の循環バスで海王丸パークに向かったのだが、私の印象は、閑散かんさんとした広大な敷地に海王丸が、一隻だけ堤伯している会場という印象でしかなかった。私は、船にさして興味はなかったのである。海王丸のなかを見学出来るというので、仁美伯母にすすめられて母親と一緒に船内を見学した。


 夕食を、仁美伯母が海鮮料理をご馳走するというので、K割烹かっぽうで食事を共にした。料亭のなかに入ると、店内はテーブル席とカウンター席が並んでいる。客がいないにもかかわらず私達は、奥の広い座敷に通された。その料亭は、ズワイガニ料理で有名らしいのだが、ズワイガニの解禁が九月からなので、私の好物であるズワイガニ料理を食べることは出来なかった。それでも、白エビ、蛍イカ、バイガイ、ゲンゲなど、産地ならではの豪勢な料理に舌づつみを打った。


 食事中の話題は、もっぱら母親の認知症の話であった。独り身で高齢の仁美伯母にとって、認知症という病気が気になるようだ。


「最初は、どんなだったんだ?」


 仁美伯母が不安げに聞いてきた。


「何かを懸命に探していたんだ。ネックレスや腕時計や鈴のついた鍵など」

「それから?」

「それから、何度も同じことを聞いてきたり、話したことをすぐに忘れてしまったりした。認知症がひどくならないように散歩に連れて行ったり、ひとりで買い物に行かせたりしたけれど良くならなかった。行き慣れない所にひとりで出かけると、帰って来れなくなることもあるんだ」

「……」


 叔母は、私が話していることを唖然とした様子で聞いていた。


 母親の認知症の症状は突然訪れた。「何かを懸命に探す」それが認知症の初期症状だった。


 母親は、自宅で習字教室を開いていて、教室を閉めた後も暇さえあれば創作活動をしていたので、認知症になることはないと私は思っていた。しかし、呆気あっけないものだった。病院に通いはじめ、認知症を抑制する薬を服用していたが、母親の認知症は少しずつ確実に進行していったのである。


 食事を終えて料亭を出ると、町中はすっかり暗くなっていた。万葉線の駅の明かりだけが煌々こうこうと光をはなっている。市内の循環バスはもう運行していないので、母親の歩きに合わせると、ホテルまで三十分ほど歩いて行かなければならなかった。


 仁美伯母とはK割烹で別れ、私と母は伯母に教わった道順をたどってホテルへ向かった。万葉線の踏切を渡ってしばらく歩いているうちに、私達は田畑に囲まれていた。たまに通りかかる車のヘッドライトの明かりだけをたよりに、道路を確認するように歩いていると小雨が降ってきた。田圃たんぼに潜んでいた雨蛙あまがえるが、一斉に鳴きはじめた。私はバックのなかから折りたたみ傘を二本取りだすと、一本を母親に渡した。母親は、傘をさしながら私のすぐ後ろを無言のままただひたすらに歩いていた。まるで、幼い子供が親の後を追うかのように。しばらく歩いていると、私はホテルの明かりを確認することが出来た。

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