テルの物語 -7

 誰も特に何も言われなかった。ただいつの間にか当番から順一は外れていた。そんなことに気も回らなかった。ぼんやりと外を眺めている。薄暗くなっていく空の色が消えてただ闇の色になるのを見つめていた。振り返ると布団が敷いてある。時間を忘れている時にはそのそばにお盆が置かれ、握り飯や弁当箱に詰められたおかずやらが置かれていた。ちょっとずんぐりした水筒のようなものに汁物が入って。

「いただきます」

 それが言えるようになるまではただ食べてそのまま寝ていた。朝には片付いている。

「風呂、湧いてるぞー」

 下から声がかかりその気になれば風呂に行く。本当に何も考えず考えられずぼーっとした日々を何日か過ごした。


「ご馳走さまでした」

 台所で洗い物をしている当番のところに弁当箱を持って行くようになった。


 自分で器を洗うようになった。


 風呂と言われればすぐ入りに行くようになった。


 暗いうちに起きて当番より先に掃除を始めるようになった。


 風呂を最後に入るようにして、そのまま湯を抜いて風呂掃除をした。


 朝飯を作るようになった。

 だが飯は自分の分だけ持って自分の部屋で食べた。


 誰もそれに何も言わなかった。当番の者はいつも通り起きて、順一がやれない時はすぐに後を引き受けるつもりで見守った。来る日も来る日もそれが続く。

 掃除と食事作り。それが今の順一を支えた。思い出も悔恨も希望も助けてはくれない。自分の『出来ること』。それが支えだった。誰もそれを取り上げずに好きにさせてくれた。

 しばらくの間、それで何も考えずに済んだ。


 考えない時間を充分に過ごして、順一は考え始めた。母のことも、伯父や祖父母たちのこともしょうがなかったんだと泣かずに思えるようになっていた。

 父の死を受け入れること、認めることはまだ出来なかった。寂しい。そして切ない。今後悔するのは、もっと一緒の時間を過ごしておけばよかったと言うこと。どうしてそばにいられないと思ったのだろう。どうして顔向け出来ないと思ったのだろう。心配していただろうに。

 それが悔いだった。それが胸の内から消えないからさらに掃除と食事作りに没頭した。

 没頭するのは逃げようとしているからだ、と気づいたのは夜中、星を見ていた時だった。自分は逃げられない、現実から。無駄だ、追い詰めているのは自分だ。逃れられらない、自分の目から。不意に絶望に包まれた。玄関を出る。広い庭の中をさ迷った。もう寒い時期だった。長袖のTシャツ一枚にジーンズ。ずっと同じところをぐるぐると歩き回って通用門に手をかけた。

「行くならこれを着なよ」

 声に振り向く。ジャンバーを差し出されそのまま受け取った。

「僕も行くよ、夜の散歩。もし行く気が無くなったら僕につき合ってくれる?」

「幸司さん……」

「行こ」

 通用門を幸司が先に出た。後をついて出た。門を閉める。


 境界線の外だ。親父っさんが最初に話してくれた『境界線』という言葉が頭に浮かんだ。外には出ても自分は境界線の内側に戻っていない。戻ることに、父たちのいた世界、『普通の人間がいる世界』に戻ろうとすることに、意味を考えると空しい気持ちになる。そこで待つ者はもういない。


 幸司はただ歩いていた。ゆっくりした動き。自分の少し前を歩く姿が夜の中に溶けていくような気がした。思わずその腕を掴んだ。

「なに?」

 振り向いた顔には何も無くて、あまりにも透明過ぎてどの世界にもいないような、どこかに行ってしまったような顔に見えた。

「どこにいる?」

「どこ?」

「ここに…… いないような気がする」

 微笑みが浮かぶ。

「ここにはいたくない。そう思ってる」

「家出したいとか?」

「そういうんじゃない。そうじゃないよ」

 手を放すとまた歩き出し、神社に入って行った。初めて来た。境界線のさらに違う場所に入ったような気がした。

「ここ、好きなんだ。ここならいてもいいような気がして。ここに住めたらいいんだけどな」

「どうして?」

 順一は幸司がなにを言いたいのかよく分からなかった。中に入る階段に並んで座る。

「何も考えずにいられるから。ここなら僕を受け入れてくれるし、呼吸が出来る」

「現実が怖い?」

 幸司の顔が歪む。

「分かんない。……そうなのかな。そうかもしれない」

 ぽつり、ぽつりと幸司が話し始める。

「家族は好きだ。でも三途川一家の父さんと母さんは好きじゃない。違う人たちだ、父さんと母さんじゃない」

 細い密やかな声。とても脆い声。

「暴力とか無いと人は生きていけないのかな。戦わなくたっていいのに。どうしてそんなこと考えられるんだろう…… ただ生きてるんじゃダメなのかな」

「それって…… ただ生きてるって、生きてないのと同じだって思う」

「そしたら生も死もあるがままに受け入れられるだろう?」

 その言葉が刺さる。父の死を受け入れられないのはなぜだろう。

「死ぬのは当たり前のことなんだ。いつかそうなる。だからそうなって行けばいい」

「死ぬために…… 生きてるわけじゃないよ。そこは目的地じゃないと思う」

「でも目的とは違っても辿り着くところだよ。終着点だ。誰もそれから逃れられない。なんで逆らうのかな。なんで戦うのかな。受け入れればいいだけなのに」

「それは…… それは違うと思う。俺は…… 流されて生きるのはいやだ。そうだ、それじゃ父さんの思いを抱えて行けない」

「抱える? 感じなくていい重荷をどうして背負うの? 僕にはそういうのはよく分からないよ。君は今全部を失ったんだろう? それって全部を手に入れたんだよ。今、君は自由だ。僕もそうなりたい。早く自由になりたい」


 違うと思った。今確かに自由だ。縛るものも無い。何かをする義務も無い。食べることにも住むことにも何も困っていない。けれど、それと自由とは別のものだ。

「自由って…… 俺は戦い取るものだと思う」

「君も戦いたいの? 僕と同じかと思ってた」

 幸司の顔を正面から見る。

「違うよ。俺と君とは全然違う、同じじゃない。同じになりたくない」

 幸司の顔がまた歪んだ。

「ずっと考えないできた。考えずに済んだ。でももう考えなくちゃ。たくさん後悔や根拠のない怒りが生まれ始めてるような気がする。絶望っていうのを初めて味わってるんだと思う。うん。絶望してる、俺の中に俺を見張るヤツがいる。そいつは手加減してくれないんだ。目が覚めたらそいつが俺を見てるんだ。何をしててもしてなくても。全部を見てる。……ただ見てる。責めてもこない、でも…… 冷たい目だ」


 幸司はじっと聞いていた。こんなに話したいと思ったのは久しぶりだ。言葉が止まらない。


「そいつから逃げたいって思った。嫌だ、見透かされるのは。嫌だ、その目に捕まるのは。でも逃げても…… 逃げられない」

 自分の中にいるそれは、『恐怖』なのかもしれない。恐怖の塊。自分に突きつけられている『恐怖』。『もうお前には何も無いぞ』と言われているような。

「俺が…… 何をしたいのか分かったような気がする。幸司さんと話してて分かって来た。俺は戦いたい。その力をつけたい。待ってるのはいやだ、『もう何も無い』っていう気持ちから助け出してもらうのを待ってるのは。自分で戦ってちゃんとした自由を勝ち取りたい。幸司さん」

 目を合わせる。

「戦うことに意味はあるって思う。人との戦いじゃなくて。戦う気持ちって持つべきだと思う。そしたら朝が来るのが怖くなくなると思うんだ、夜が来るのも。俺に必要なのはそういう気持ちなんだって、今はっきり分かったよ」


 幸司は立ち上がった。悲しそうな目になる。


「君は…… 僕の望む場所にいると思ったんだ。それを得たんだって。なのに戦うの? とてもいい場所にいられるのに」

「それは俺のいたい場所じゃない! 何も得てなんかいないよ! 君の望む場所はきみのものだよ、一緒にしないでくれ! 俺は今の俺のいるところから出たい! だから戦う、自分と」

「戦う相手が自分なら…… 君はずっと戦うことになるよ」

「そうだね…… でもいい。それでいいよ。そしたら俺は『八木順一』に戻れる。きっとそうなんだ」

「僕と話さなきゃ良かった? そしたら幸せなままでいられた?」

「君と話して良かった。俺はこれから幸せになるんだ」

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