テルの物語 -6

「そろそろ出ようか」

 もう8時をちょっと過ぎている。面会は9時からだが、10分前くらいには待合室に座って病室に入れるのを二人で待つ。

 順一が荷物を持って、母がバッグを取った。電話が鳴り、母が出た。

「はい、八木です」

 その後、無言が続く。母の手が震え始め蒼褪めていく。受話器を落とした。

「母さん? 母さんっ!」

 倒れかける母の体を支える。受話器を掴んだ。

「もしもしっ!」

『八木さんの息子さんですね。平野総合病院、脳外科の高梨と申します。実は…… 容体が急変しまして。先ほどお父さんが亡くなられました』


 違う。昨日も笑って話をした。だから違う。父さんのことじゃない。病院なのに連絡相手を間違ったんだ。父さんは大丈夫。父さんなんだから。これは間違い電話だ……


 なのに涙が流れていた。母と抱き合って泣いていた。違うのに。間違いなのに。父さんのことじゃないのに。

 けれど涙が止まらない。でも声が出ない。ただ縋りつく母を抱いていた。


 父方の祖父と母方の祖父母、父の弟夫婦、母の兄夫婦が来て全てをやってくれた。母が倒れ、住んでいるのは借家だったから整理して祖父母と伯父が母を連れて帰ることになった。確かにずっと主婦だった母が働くのは無理だろう。だが少年院帰りの順一は拒まれた。田舎では人の見る目が厳しい。

「分かってくれ、お前まで引き取るわけには行かないんだ。狭い田舎じゃ保護観察中なんてすぐにばれる。周りにそういう者がいないから苦労するのは母さんなんだよ」

 伯父の言葉に祖父母も辛い顔をしていた。そしてその気持ちは順一にはよく分かった。全部自分が道を間違えたから……

 順一は残ることを決めた。せめて母には肩身の狭い思いをしてほしくない……

 母は一緒に帰ろう、と何度も泣いて言ったが自分が行きたくないのだと告げた。

「どうして? 父さんいないのに母さんを一人にするの?」

 すっかり弱気になってしまった母。その向こうでうなだれる顔をする祖父母。

「ごめん。こっちで勉強したいし。俺がちゃんと働けるようになって稼いだら一緒に住もうよ」

「田舎でも勉強は出来るのよ」

「俺…… 田舎は嫌いなんだ」


 あの言葉の後の傷ついた母の顔が忘れられない。後は何も言わず伯父に言われるままに新幹線に乗って行った。最後まで順一と目を合わせようとはしなかった。


 2日間、その借家で過ごした。物は無い。引き渡しの日まで2日あるから留まった。先のことは考えていなかった。どうでもいいし。携帯は何度か鳴ったようだが取る気にならない。食べずに時々うとうと寝た。

 3日目の朝、外に出た。

「順一」

「じゅんいちー」

「順一」

 声がする方を見た。車が止まっている。その中に男たちがいた。みんなが車から降りた。

「板倉さん…… カネ…… イビキさん」

「迎えに来たんだよ」

 イビキが言う。

「参ったよ、イビキさんのイビキが凄くってさ! もう昼間に寝るしかねぇし」

「いつから」

「お母さんたちが出て行くのを見たよ。お前がたった一人で中に戻ったのも」

「……板倉さん」

 目が空をさ迷う。

「だって、あれから何日も経って……」

「いつ出てくるか分かんなかったし。いない間にどっか行っちゃいそうな気がしたから」

 カネが屈託なく言った。

「食事は交代で駅の方に食いに行ったんだ。この辺りの店、結構美味いもんが多いな!」

 狭い車の中でいつ出てくるか分からない自分を待っていたのか……

「荷物は?」

 板倉の目が順一の手にある大きなバッグを見た。

「それだけか? もっとあるかと思った」

「ほとんど処分して。俺…… 俺、どうしていいか…… 分かんなくって……」

 腕を目に当てた。長袖のシャツに涙が吸い込まれていく。カネが抱きついた。

「帰ろう! みんな待ってるよ。あったかい風呂に入ってさ、美味いもん食いなよ。俺が食事作るから」

 腕に顔を押しつけたまま頷いた。頷くことしか出来なかった。


「戻りました!」

 板倉の声に女将さんが出てきた。順一の目を真っ直ぐに見ている。

「お帰り。何も食べてないんじゃないか? 私が作っておいたからお食べ」

 女将さんが食事を作れるとは知らなかった。見たことが無い、苦手か台所仕事を嫌ってやらないのだと思っていた。

 荷物をカネが横から取る。

「部屋に運んどくから」

 イビキが背中を軽く叩いた。

「お疲れ!」

 板倉が(行け)というように僅かに頷いた。


 親父っさんはいなかった。女将さんの煮物が美味しくて、久しぶりにまともなものを食べた。父さんの遺体を引き取って以来、ずっと出前かコンビニで買ったサンドイッチのようなもの。田舎から人が出てきて、母の兄嫁が食事を作ったがほとんど味が合わないのと食欲が湧かないせいで食べていなかった。

 今頃腹が減っていたのが分かる。ご飯をお代わりして勢いよくかき込むのを女将さんは見ていた。途中で箸が止まる。

「こんなに…… 食えるなんて……」

 自分にショックを受けた。箸が手から落ちた。

「俺、薄情だ…… 一番苦労掛けたのに食い気だけはいっちょ前に残ってる……」

 女将さんがそばに来た。落とした箸を拾って上に置く。そして順一を引き寄せ抱き締めた。

 抱き締めてくれる…… こんな自分なのにしっかりと抱き留めてくれる。しがみつき合って抱き合った母とは違う抱き方。徐々に順一の手が女将さんの背中に回る。そして掴んだ。自分だけがしがみつくように。自分だけが泣くために。相手のことを考えずに。


「おいおい、俺の大事な女にそんなに抱きつくな」

 泣いて泣いて、ようやく声が落ち着いてきた頃だ。柔らかい声。振り向くと廊下で襖に背を預け腕組みした親父っさんが立っていた。いつからそこにいたのか背中をずっと撫でてくれていた女将さんは最後にぽんぽんと背を叩いてくれた。順一はゆっくり離れた。自然に頭を下げた。

「なんだい、若いのに抱きつかれてるのを見て嫉妬かい?」

 女将さんも笑っている。

「よせやい、そんなガキンチョに誰が」

 親父っさんは隣りに座った。肩を抱いた。頭をコテンと自分に預けてきた順一を避けもせずに「よしよし」と言う。女将さんはそっと立って行った。

「充分泣いたかい? 辛かったな、あれもこれも。分かってるよ、全部。お前は気がつかなかったろうが、葬式の手伝いに和泉んとこの社員を行かせといたからな。お前を張るってんじゃなくって、心配だからだ。あのまま母ちゃんと一緒に田舎に行くんならそれもいいかと思ってたんだ」

 親父っさんがゆっくり話してくれる。

「だがな…… お前、俺んとこにずっといろ。やることもやれることもいくらでもある。今のお前は全部終わっちまったような気になってるだろう。しばらくは気持ちのリハビリだ。ゆったり風呂に浸かって美味いもん食って、ゆっくり寝てりゃいい。落ち着いたらまた考えようや。俺も千津子もみんなもお前を好いてる。今は難しいだろうが、『八木順一』ってのを一緒に取り戻すんだ」

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