テルの物語 -5

「順一っ! 車に乗れっ! 急げ!」

 1階から響いた板倉の声。切羽詰まったような声に財布と携帯だけ掴み、階段を駆け下りた。玄関には親父っさんも立っていた。

「いいか、気をしっかり持てよ。親父さんが事故に遭った。赤信号で突っ込んできたバカがいたらしい。ついさっき和泉から連絡があったんだ。容体は分からねぇ。いいな、ちゃんと母ちゃんに付き添うんだぞ」

 頭の中が真っ白になった。言われるまま、板倉の後を追いかけた。エンジンがかかって順一が乗るだけだ。ドアを開いてそこで体が固まった。

「順一!」

「おれ……」

「バカヤロー! こんな時に『俺』なんかどうだっていいだろっ! 親のことだけ考えてやれっ!」

 板倉の怒鳴り声でハッとした。素早く助手席に滑り込んだ。

「シートベルト!」

 慌ててるから上手くベルトが嵌らない。板倉が順一の手から取って嵌めてくれた。その手で頭に手を置く。

「しっかりしろ。きっとお前以上にお母さんは怖がってるはずだ。お前が支えるんだ、いいな?」

 震える唇を噛んでしっかりと頷いた。


「母さん!」

 ICUの前で呆けたような顔で座り込んでいる母に駆け寄って抱き締めた。

「順一?」

「遅くなってごめん! ごめん…… もっと早く来なくてごめんなさい…… 半年の間…… 連絡も取らなくて……」

「聞いてたから…… 和泉さんにも三途川さんにも。写真も携帯で送ってくれた。順一…… 順一!」

 母が順一にしがみついて体を震わせた。

「父さんが…… 父さんが…… どうしよう、順一、どうしよう」

「そばに行っちゃいけないの? 酷いの?」

「まだ意識が戻らないの…… 父さんの車、前がめちゃめちゃだって聞いた…… どうしよう」

「待ってて」


 ICUに近づいた。カーテンが引かれていて中は全く分からない。やっと出てきた看護師に追い縋った。

「息子です! 父さん、どうなんですか!?」

「息子さん?」

「はい!」

「手術は無事に終わりましたよ。落ち着いたら病室に移りますからね。でも今日は無理だと思います。詳しいことは先生が説明なさいますから」

「ありがとうございます!」

 母の元に駆け戻る。

「手術、上手く行ったって! 今日は無理でも病室に移すって言ってたよ!」

「ほん、と? 父さん、いきてる?」

「生きてるよ! 大丈夫、父さんは強いんだから。大丈夫だよ、母さん!」

 その夜は二人してICUのそばで過ごした。一度は安定したから帰るようにと言われたが、その後動かない二人に看護師が毛布を持ってきてくれた。

「ありがとうございます」

 母の声がしっかりしているのを聞いて、ようやく順一は子どもに戻れた。


 医師の説明を母と一緒に聞いた。覚えているのは『脳挫傷』『開頭手術』『油断は出来ない』そんな言葉。現実とは思えない言葉ばかり。

 それでも2日目には父の目が開いた。

「父さん!」

「父さん!」

 母と順一の声が重なる。ぼんやりとした目だ。きっと何が起きたのか分かっていないのだろう。

「父さん、俺だよ。順一」

 頭を動かせない父の上に顔を寄せた。だんだんと自分に焦点が合ってくるのが分かる。

「じゅん、おまえ、」

 そこで言葉が止まる。医師が言っていた、厳しい状態だったからどんな後遺症が出るか分からないと。

「いいよ、まだ喋らないで。父さんが怪我したって聞いたから飛んで来たよ。今、家に戻ってる。今日の朝も母さんと一緒に来たんだよ」

 今度は母が呼びかけた。

「順一が助けてくれてる。ずっとそばにいてくれてるから心配しなくて大丈夫よ」

 父はホッとしたように笑顔を見せた。涙が溢れてくる。やっとあの笑顔を見た。

「俺、ずっと謝りたかった。父さん、ごめん。たくさんごめんが言いたいけど、なんか喉が、詰まっちゃって…… ごめん、本当に」

「いい、よかった、よかった」

 その言葉で許されているのだと知った。


 翌日には父はもっとしっかり話すようになっていた。

「じゅんいち、まいにち、なにしてる?」

「勉強してるよ、本も読んでる。時々自動車整備の和泉社長に仕事も教わってるよ」

「がっこう、どうする?」

「もうちょっとしたら定時制に行こうかって思ってるんだ。じゃなかったら高卒認定受けるとか。今度父さん相談に乗ってくれる?」

「いいよ。おまえ、がんばってるな」

 嬉しそうな顔をしてくれるのが、順一も嬉しい。

 時々父の言葉が詰まる。何を言っていいか分からなくなるらしい。

「後遺症だと思いますよ。時間と共に回復していくこともありますが、リハビリが必要でしょうね。体の右側にも麻痺がありますし、油断せずに様子を見て行きましょう」

 母の顔にショックが浮かんでいる。けれど、生きている。

(生きてるんだ、父さんは。良かった、生きてる)

父がいなくなるなど考えられない。だからそれだけで順一は幸せだった。離れていた半年が嘘のようだ。よく暮らしてこれたものだ。


 家に戻ると母は洗濯機をかけた。順一は明日の朝、持って行くものを確認する。

「母さん、バスタオルも要る?」

「念のため1枚入れといて」

「分かった」

 食事を作ると母は凄く驚いた。

「あの家では当番があるんだよ。朝5時に起きて家の中と庭と表を掃除するんだ。それからみんなの朝食を作る。夕飯も作るんだよ。料理はね、出来る範囲でいいんだ。この前来たばかりの人は朝からインスタントラーメン作ってさ、でもみんな文句なんか言わない。愚痴るけどね、でも作った人に文句は言わない。親父っさんとか女将さんとか、お嬢さん、息子さんは不味くたってお代わりしてくれるよ」

 息子が大人びてきたことに目を細める母。知らないところで知らない生活をしている。けれど息子は活き活きとしていた。しっかりと面倒を見てもらっているという安心感を得た。

 あんなにいろんなことがあったのに。今だって外は暑いのに長袖を着ている……


 翌日、朝食が終わって順一が食器を洗った。すっかり家事が身に付いている後姿を、順一が入れてくれたお茶を飲みながら母は見ていた。昨日はいろんな人が来た。近所の人や会社の人。親父っさんのところからは体に障るといけないからと、見舞いだけが届けられた。

 相手方の弁護士と自動車保険会社の人も訪ねてきた。治療費は心配なく、生活費も困らないように出すと言われた。事故を起こした相手はかなりの資産家の甥っ子だと言うことで、看護に集中できるようにしてくれるそうだ。

 後は元気になって退院するだけ。リハビリは必要だろうけど自分が手伝うつもりだ。もう親父っさんのところを出て家に帰ると決めていた。これからは自分が家を支えていく。

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