テルの物語 -3
時間が過ぎていく。俯いて涙が落ちていた。膝が濡れていく。肩が震える。
「……ぅ」
その小さな声に顔を上げた。勝蔵の頬に涙が伝っているのを見て目を見開いた。
「辛かったな…… いいか、お前はどこも悪くなんかねぇよ。国ってのはな、法律ってヤツに基づいて動いてる。中にはくっだらねぇ決まりもある。お前がこんな目に遭っていいとは俺は思わねぇ。だが世の中に決まりが無くなったら真面目なヤツも真面目には暮らしていけなくなっちまうんだ。だからそこに境界線が出来る。こっからは踏み外すなっていう境界線だ。それを越えることを許さねぇのが法律だ。そこに情も何もねぇと俺は思っている。だがそいつがあるから守られてる人がいるのも事実だ。法律は必要悪だ。これは俺だけの考えだ。正しいとは言えねぇ。逆だ、そういう考えを持つのは世の中に逆らうことになる」
どこか勝蔵の目が寂しそうに見えた。
「お前は境界線に守られる側の人間だ。だが踏み外しちまった。それだけのことだ。一歩、片っぽの足が境界線を出た。ならその足を引っ込めりゃいい。それでお前は元の世界の人間に戻れる。たかだか一歩。だが大切な一歩だ。その足を引っ込めろ。後ろ足を前に出すな。今のお前に出来ることはそれだ」
身も知らぬ男が自分のことで泣いてくれていた。対等に話をしてくれている。そのことに胸が震えた。
「親父さんはな、後悔なんぞしてねぇよ。仕事を変えたってことをな。お前を守りたい、その一心で変えたんだ。自分の誇りもお前の前じゃ二の次だった。裏切られたなんてこれっぽっちも思っちゃいねぇ。ただただお前が愛しかった。お前に代わるもんなんか無かった。そこを考えろ。そのためにお前はここに来たんだ。今は無理だろう、でも自分を真っ直ぐに見て、親父さんのことを真っ直ぐに考えることが出来たらお前の中でけじめがつく。お前の気持ちはよく分かった。しっかりお前をこの三途川勝蔵が預かる。俺は甘くなんかねぇぞ。ここはそんなところじゃねぇ。後は自分で考えるんだ」
勝蔵は懐から手ぬぐいを出した。それを順一に渡す。顔を拭いて鼻をちーんと噛んだ。
「冷えちまったが茶を飲め。喉が渇いたろう」
冷えても美味しかった。胸のつかえは取れはしなかったけれど、どこか楽になっていた。初めて全部を話した。不思議だ。ここまで話したことは無かった。
「おい!」
すぐに襖が開いて、最初の男が出てきた。
「こいつは板倉と言う。目つきは悪いがまあまあいいヤツだ。お前の面倒を見るのは別のヤツだが、こいつが何か言ったら優先して従うんだ。板倉、後は頼む。こいつは大事にしてやってくれ。だが手加減は要らねぇ」
「はい。じゃ、荷物を持ってついて来い」
順一は勝蔵に頭を下げた。渡された手ぬぐいを持ったまま板倉についていく。廊下を渡り、二階への階段を上がった。右側へ曲がり、一番奥の部屋の襖が開けられた。
「今日からこれがお前の部屋だ。好きに使っていい。後で
それだけ言うと部屋を出て行った。
荷物は大したものを持ってきていない。僅かな着替えとちょっとした日用品。ただ暮らすならそれでもいいだろうが、ここで二十歳まで暮らすのならそういうわけには行かない。
カーテンはちゃんとしたものだった。レースのカーテンと遮光カーテンの2枚がかかっている。淡いグリーンですごく落ち着く。
ふっとさっきの三途川さんを思い出して、顔に似合わずロマンティックな人なんだろうか? と思った。そして、失礼なことを思ったとすぐ反省する。
窓は庭に面していて、外を眺めて息を呑んだ。広い。手入れが行き届いている。無理な造園をしていなくて、痛々しく丸や四角に形を整えられたものが無い。どこまでも自然で、そして雑然としていなかった。
(いつでもこれを見れるんだ)
安心感が生まれた。口調からは荒っぽさを感じたが、きっと三途川さんはきちんとした人だ。話してくれたことも難しいことを分かりやすく真面目に話してくれた。
『法律は必要悪だ』
少年院で何度も考えた。どうして自分が罰を受ける側なんだろう。どうして自分に敵意を剥き出しにしてきた連中には罰は下りないんだろう。ずっとそれが胸の中でしこりになっていた。けれどあの一言でそれが取っ払われたような気がする。
『必要悪』なら、納得も行く。大事なもの、必要なもの、正義、自分を裁いたものをそう考えれば腹の底から怒りが湧く。だが『必要悪』だ。人の間に住む限りは理不尽でも呑み込むしかないもの。
目を庭からその向こうに向けた。
(そうか、境界線か……)
ここにいれば守られるんだと思う。『しっかり預かった』、そう言ってくれた。そしてここに庭があって、その向こうに『外』がある。その『外』に戻れと言われたのだと思う。ここから買い物や出かけたりしてもここに戻る。戻らなくなった時、『外』に本当の意味で出た時。それが『境界線』の向こう。
順一には分からなかったが、父を見てきたこと、通り一遍でなく積んできた勉強。それは単なる知識ではなかった。父を見つめてきたから物事の本質を見る力がいつの間にか育っていた。だから窓から外を見て、それで得るものがあった。
どれくらいそうしていたのか。
「入ります」
声をかけられた。
「はい」
そう答えると襖が開いた。ちょっと長い茶髪。耳にはピアスがある。よく見れば右目の上瞼の横にも小さなピアス。
(え、なに、この人)
「庄田です。あんたの面倒を見るように板倉さんから言われました」
「……八木順一です」
「知ってます」
言い方はぶっきらぼうで、今まで接したことのない人種だ。ちょっとおっかない。その様子を見て庄田がニヤッと笑った。
「おっかないって今思ったでしょ」
「いえ……はい」
「なるべくそうなろうとしてんの。俺、親父っさんの下で使ってもらいたいし。庄田
「16?」
「だから俺、後輩。普通にタメ語でオッケーだよ」
周りを見回した。
「荷物も開けてないの? って、大した物無さそうだね。押入れとか見た?」
「まだ」
「じゃ、見て」
言われるままに押入れを見る。ちゃんとした布団とその上に載ったシーツ。そこに入っているのはそれだけ。
「布団、昨日天気よかったから干してあるし、シーツはアイロンかけといたんだ」
「ありがとう!」
そういうことをしてくれたんだと純粋に驚いた。
「でもあるのはそれだけ。何も無いんだから買いに行こうよ」
「俺、金持ってないし」
「預かってるよ。だから大丈夫。ブランドものとかは勘弁して。それ以外なら必要なもん何でもいいから。あんたって勉強するんでしょ? 見るからに物好きそうだし。だから机とか本棚とか要るだろうって、この広い部屋になったんだ」
確かに広い。8畳もある。
「他の連中は6畳なんだ。あ、悪いなんて思うなよ。別に誰もそんなこと思わねぇし。勉強するヤツが広いとこ使うの当たり前だし。行こ!」
庄田の後をついて階段を下りる。途中で板倉に会ったから頭を下げた。
「おい、なんで頭を下げる」
目をパチパチとした。世話になるのだ、頭を下げて当然じゃないのか?
「意味無く頭を下げるな。ここでは下を向いて生活するな。いいな?」
「は、い」
「よし。庄田!」
「はい!」
「変なとこ、連れ回すな。順一の必要だって物だけ買え。順一、今日買いそびれた物があればいつでも庄田に言えばいい。遠慮すると損するぞ」
それだけ言って奥に行ってしまった。
「俺、まだ16だから免許持ってないんだ。だからチャリ。いい?」
頷くと駐車場に連れて行かれた。その脇に何台かの自転車がある。
「好きなの乗って。そう遠いとこ行かないから。15分くらい走るとホームセンターがあるから最初はそこに行く」
(自転車なんて久しぶりだ……)
好きなのにいつの間にか乗らなくなった。高校に入った頃から乗らなくなったような気がする。
「それさぁ! 気に入ったんならあんた用だってみんなに言っとく! そのチャリでいいの!?」
漕ぎながら叫ぶように喋る。
「いいよ!」
「遠慮じゃなくて? あそこで遠慮だってバレるとさ、怒られっからな! 正直に言っといた方がいいよ!」
不思議な家だ。目の前を走る庄田も変わっているが板倉も変わっている。
(頭、意味無く下げるな……)
普通じゃないところに厳しい。何かをやるのに考えなくちゃならない。今の庄田の言葉もそうだ。
『遠慮は怒られる』
『正直に言う』
(慣れるまで難しそう)
三途川さんの言う通り、あそこは甘くないらしい。
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