のんのと源の物語 -5
「今度のお前の借金の相手は俺だ。今お前に350万貸してある。今この場で払えるか?」
青い顔で謙一は首を横に振った。
「どうやって返す? 源太に当たり屋をやらせるってのは抜きだ。あいつにはウチの方で働いてもらうからな」
「じゃ、あの、働くので」
「舐めてんじゃねぇぞ! 働くだ? たった今働いたって給料が入んのはいつだ!? それまで返済しねぇってのか!? カジ! その辺から白い紙持って来い!」
ビリビリと響くようなイチの声に、謙一の腰が完全に抜けた。わなわなと震えている。
(イチさん、すげぇ…… これがヤクザか……)
ノートがあったからそれとボールペンをイチに渡した。イチがペリッと一枚破く。
「そこに言う通りに書け」
ごくりと唾を飲む音がした。
『私、東謙一は須藤一郎様に本日付で350万円の借金をしました。返済は1ヶ月15万円。36回払いにて返済いたします。遅延した場合には次の返済日まで利息2倍にてお支払いいたします』
「今日の日付、書け」
「こ、これ、返済、無理です、こんな契約してないです、無茶」
「なんだ? 借りるだけ借りて返さねぇつもりか! お前は今金融に借りたんじゃねぇ、俺に借りたんだ! 書かねぇならその腕へし折るぞ! カジ!」
カジの手が謙一の左手に食い込んだ。
「か、書きます! 待って、書くから!」
左手を取られたまま日付を書かされる。イチが台所から包丁を持って来たのを見て、カジ共々蒼褪めた。
「な、なに……」
「慌てんな。指出せ」
(え、詰めるつもりか?)
カジの方が慌てている。だがイチは親指の先をチョンと切っただけだった。
「それで母印を押せ」
いっぺんに力が抜けて後は言われるがままに母印を押した。
「うわっ、こいつ漏らしてる!」
殺されるとでも思ったのだろう。
「これであんたは俺の客になった。そこでビジネスだ。この家、幾らで売る?」
「え……?」
頭が追いついていない。立て続けに恐ろしい目に遭って、幾らで家を売るのかを聞かれている。なんと答えればいいのか……
「どうした? 俺がこの家を買うって言ってるんだ、幾らで売るか決めろ」
「いくら、って……」
「かなりの中古だ。ローンが無いってのだけが取り柄か。
こんな状況で謙一の頭の中がまとまるわけがない。咄嗟に思いつく金額が……
「350万! そしたら借金消えるんでしょう!?」
カジは吹き出し、イチは笑い出した。
「俺は構わねぇがな。お前、その後無一文になる気か? 家一軒売るってのにずい分気前がいい」
謙一がハッとした顔になる。
「あの! 今のは、間違いで!」
「聞かなかったことにしてやるよ。そこまでこっちはアコギじゃねぇんだ。それで?」
「3千万なら」
すぐにイチが立ち上がり謙一の頬を張った。
「新築のつもりか? さっきの350万でもいいんだぞ!」
「すみませんっ!」
「幾らだ!?」
「1千万……」
もう消え入るような声だ。
「そうか。分かった」
(こいつ、借金引いたら手元に650万しか残んねぇのに)
さすがにカジも謙一が哀れになってくる。
謙一の目の前にバッグから取り出した帯封の札束をイチが一つずつ積んで行った。
「100、200.300……」
目の前の福沢諭吉に頭がくらくらしているらしい。謙一から言葉が出ない。
「で、これで650万だ」
(親父っさんが言ってた2本って、2千万のことじゃねぇのか?)
「これでさっきの借金はチャラになった」
手元にある書いたばかりの借用証書を謙一の目の前で破り捨てた。
「あ、ありがとうございます!」
(お前、今650万でこの家を売ったんだぞ)
教えてやりたくなる。何度も礼を言って頭を下げるその姿に。
「これは俺の恩情だ」
イチはさらにその札束の上に追加の束を載せた。350万。これで全部で1千万。
「その代わり、条件がある。そのための恩情だ。お前は1週間以内に東京を出ろ。どこか田舎にでも引っ越せ。もしチラッとでもその姿を見かけたらただじゃおかねぇ。さ、次の誓約書を書いてもらおうか」
今度は言われるがままにすぐに書いた。
『私、東謙一は1週間以内に東京から去ることを条件で須藤一郎様に350万を無期限無利子で借用いたします。約束を違えて東京に戻った場合、速やかに350万円を一括払いにて返済いたします』
そして、今日の日付と母印。
「1週間後、ウチのもん引き連れてここに来る。もちろんお前はいないよな?」
「はい! いません!」
「ならいい。邪魔したな。カジ、帰るぞ」
車の中でカジは喋らなかった。
「どうした、喋る気分じゃねぇのか?」
「……イチさんはヤクザっだったんだなって」
イチは運転しているカジの横顔を見た。
「引いたのか? もう俺とやっていけねぇって」
「違う。ただ……似たようなことをしてても違うんだって思い知らされたよ。覚悟ってヤツかな。俺は正直どっちつかずで親父っさんにくっついて動いてる。イチさんはあの組の中に自分を持ってるんだな」
「そりゃな。俺には他に生きる道はねぇって思っている。親父っさんに救われたんだ、だから親父っさんに従う。それだけだ」
カジはさっきのやり取りで気になっていることがあった。
「聞いていいか?」
「なんでも」
「親父っさんは2本って言ったよな、それって2千万ってことだろ?」
「そうだ」
「それだけ出すって意味じゃなかったのか?」
「2千万を? まさか! その中で収めろって話だ。そこは俺の裁量になる。組に損させずにまとめりゃそれは俺の手柄だ。あのな、何もせずただ親父っさんに認められたっていうだけじゃ幹部なんかやってらんねぇんだ。あいつには1,350万かけた。他のヤツなら最初にヤツが言った350万で家を取り上げる。俺は……まだ甘いんだ、そういうとこが」
(あれで甘いのか……ヤクザってそういうもんか。親父っさんのとこでさえ)
改めて親父っさんがヤクザだということを認識する。
「でも親父っさんは俺たちに見返りを要求してこない……」
「お前たちはヤクザじゃねぇ。ごっちゃにすんな」
家に着いて親父っさんに報告に行った。
「そうか、350万でいいってか」
「すみません、俺1,350万で片を付けました」
「いや、いい。よくやった、イチ。1千万で人生やり直す機会を手に入れたと思えば良し。そう思わねぇほどバカならもう救う価値なんぞねぇ」
その言葉でカジはもう一つ奥の親父っさんの考えがやっと分かった。
(親父っさん、あの謙一ってヤツにも立ち直るチャンスをやったのか……)
「最初っから……そのつもりだったんですか? 兄貴の方も助けるって」
「源太の身内じゃねぇなら捨ててる。だがウチの居候の兄貴だからな。これなら源太も安心して兄貴から離れられるだろう」
「……ありがとうございます!」
カジは全部見越していた親父っさんを改めて有難いと思った。ヤクザはヤクザだ。やはりそういう世界には違いない。だが、三途川勝蔵は筋を通す男なのだ。他のヤクザもんとは違う。
「で、手続きの方は?」
「そっちは明日朝早くに財務の桃井が動く。登記簿と公正証書もな。カジ、ヤツには自分の物だけ持ち出していいと伝える。1週間したら源太を連れて行ってやれ。取っておきたいものもあるだろう。その後はウチの『休憩所』として使う」
『休憩所』とは避難所のことだ。どこで対抗組織や警察に追われるかもしれない。そういった連中を退避させるためにそんなところを抑えてある。組との関係も分からないからそこに逃げ込めば追手を躱せるということだ。その位置は幹部しか知らない。それぞれの組でそういう場所を持っている。柴山もそうだ。
「時々源太を掃除に行かせろ。本人がイヤだと言うまであそこの管理を任せる」
源太は自分の家を失いはしたが、思い出は消えない。家に入れば嫌なことだけではなくいい思い出も蘇るだろう。
「のんのさん」
「なんだ?」
「俺、戻んなくて良かったんだよな? 兄ちゃんのとこ」
「そうだ、それで良かったんだ。辛いか?」
「うん……今は…… カツ弁当、買ってあげたかった……最後っくらい」
「いつか。いつかその気持ち、兄貴に届くよ。それを信じてやれ。世の中に兄貴を信じることが出来る人間はきっとお前だけだ。きっと立ち直る。自分の人生を見つける」
下を向く源太の顎を持ち上げた。
「お前はもう下を向くな。一緒に先を考えて行こう。一つ礼を言わせてほしい。お前のお蔭で決心がついたことがあるんだ。俺には難しいことだったんだけど……ありがとう」
訝しい目で見る源太の瞳をのんのは優しく見つめた。
(明日。藤田に謝ろう。許してもらえなくたっていい、それは当然なんだ。
けど、ちゃんと謝りたい)
「源太、俺はお前が眩しく見えるよ。テルさんは厳しいこと言ったし、その通りだと思ってる。でもお前は逃げずに頑張ったんだよな。よく生きてきたな。良かった。本当に良かった」
それがなんなのか、のんのにはよく分からない衝動だった。今の言葉で潤んだ瞳の源太を抱き締めずにいられなかった。そしてその唇に自分の唇を重ねた。源太の体がビクン! と硬直する。慌てて離した。
「ごめん! なにやってんだ、俺は…… 部屋、他に変えてもらうから。悪い、今の忘れてくれ」
「のんのさん……」
「悪かった。もし同じ家が嫌なら俺から親父っさんに言う。アパート探すよ。だからお前は」
「のんのさん!」
その強い口調に言葉が止まる。
「あの、びっくりしたけど……いやじゃなかったです…… 俺も変なのかな、自分で何言ってんのか分かんなくなっちゃった…… でも、部屋。今のままでいいです!」
きっぱりと言い切る源太がさらに輝いて見えた。
「いいのか? ホントに……」
さっきの思いがどうなるのか何だったのかは分からないが、消える保障なんて無い。責任を持てない、年上として。
「のんのさん、初対面からずっと俺のことだけ考えてくれた。そんな人、初めてだった。自分のことよく分かってないけど。でも俺はのんのさんが好きです!」
一緒に暮らしていくうちにのんのと源太は自然とそんな仲になっていった。源太は月に二度、家を掃除に行く。全部の窓を開けて換気し、電気、ガス、水道がちゃんと使えることを確認する。布団や消耗品の管理は組でやってくれるから庭を掃除したり、窓を拭いたり。表札は『東富雄』のままだ。その方が組としては隠れ蓑になる。管理費として源太は月に5万の給料をもらった。
行ける時にはのんのも一緒に行った。源太の両親の墓参りにも一緒に行く。
源太はのんのに勉強を教わった。通信制で高卒の資格を取るためだ。源太の将来をもっと広げてやりたいという気持ちからだった。3年で78単位を取り、親父っさんのお蔭で特別活動にもきちんと参加できた。
卒業の日にはとっくに成人していたから夜遅くまで祝いの宴会が続いた。源太の隣にはいつものんのがいる。兄がどうなったのか、源太は知らない。親父っさんかイチに聞けば教えてくれるだろう。けれどもう後ろを振り返らないと決めた。辛くなって過去が這いずり出そうになると、そこにはのんのが立ち塞がってくれた。
のんのはあれから2度、藤田に電話で謝罪した。驕っていた、独りよがりだった、申し訳なかった、自分が馬鹿だった……
けれどその言葉は届かなかった。
『もう二度と声を聞きたくない』
そう言われ、どんなに酷いことを言ったのか改めて悔いた。痛みは少しずつ和らぐだろうが、傷はきっと残るだろう。
(俺はその傷を戒めとしなきゃならない。消えなくていいんだ、また繰り返さないようにするために)
三途川の家を出て二人で住むようになり、そして優作が死にかけたことを知った。すぐにのんのはテルに電話をかけたが怒鳴られただけだった。
『関わるんじゃねぇ! お前たちは一般人だ、ヤクザとつるむんじゃねぇ!』
源太は冷たい人だと思わずにいられなかった。『あの優作』が死にかけたのだ、気にかかるに決まっている。
「源太、理解しろ。みんな俺たちを大事に思ってくれてるんだ。今回のことは抗争だ。近寄れば俺たちにも飛び火してくる。それをテルさんは心配してくれたんだよ」
「でも、優作に会いたいよ……」
「騒ぎが治まってほとぼりがさめたら、そしたら会いに行こう。また元気だけが取り柄の優作に『よく生きててくれたな』って一緒に言おうな」
二人は養子縁組をして家族になった。その時には親父っさんからたくさんの祝い物が届いた。
――『のんのと源の物語』完――
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