のんのと源の物語 -3
車の中で源太はぽつりぽつりと話し始めた。
母親は小さい時に病気で亡くなった。4年前のあの日、3人で買い物に行った帰りだった。源太は14、兄は18。大学も決まってその祝いも兼ねて外食し、欲しいものを買ってもらった。
後部座席に座った源太は家まで待てずに買ってもらった袋を開けた。真新しいグローブとボール。嬉しくて堪らなかった。小さくボールを上に投げてはまだ硬いグローブで掴む。
「源太、帰ってグローブ柔らかくしてやるからそれまで止めとけ。ボールを弾いちゃうぞ」
兄の言葉に「平気! そんなに上に上げないから」と返してそのまま遊んでいた。
家までほんのわずか。それは本当に運が悪かったとしか言えない。角を曲がった時に源太のキャッチする手が逸れた。硬いグローブに弾かれたボールが運転席に飛んだ。ただそれだけ。だが父がハンドルをコントロール出来なくなるには充分だった。
車は立派な家のブロック塀に突っ込んで中庭を荒して止まった。父も兄も救急車で運ばれ、源太は掠り傷。
その夜のうちに父は一言も喋らないまま息を引き取った。兄は足が折れてしばらく入院。源太は何も出来ず、父の兄弟夫婦が来て葬式も後のこともやってくれた。兄は葬式に出られなかった。
保険金は下りたが、生命保険は500万の小さなものだった。自動車保険でブロック塀と中庭の修繕をしてもらったが、庭に関しては先方の望む通りには保険が下りなかった。強弁な相手は訴えると言い出し、叔父たちは下りた保険金で示談にしてもらった。
兄弟の手元に残ったのは400万。兄が退院するまでは何度も叔父の妻たちが来てくれたが、退院してからは足が遠のいていった。
サッカーで認められた兄の大学合格は流れた。叔父たちは兄にお前が働けばいいと、助けてはくれなくなった。どの家も学生を抱えている。自分の子どもの教育費で精いっぱいだった。
優しかった兄は人が変わってしまった。あっという間に残った保険金は消えていく。源太は高校も行かずにバイトをした。全部自分が悪い。兄が何をどうしようとも何を言う資格も抵抗する資格も無い。
そのうち兄の要求がエスカレートした。事故は金になる。死ななければいい、相手から示談金をふんだくれ。逆らうなど出来ない。最初の頃は失敗でケガばかり。その度に殴られ、蹴られた。一度上手く行き50万を手に入れてからあちこち遠くに行かせては繰り返させた。示談にするから警察にも引っかからない。だが上手く行かなかったり躊躇ったりすればただでは済まなかった。
「お前、それ全部自分のせいだと思ってるのか? 自分が悪かったって」
「だってそうだろ…… 父さん、死なせた。兄ちゃんの夢を潰した。俺が……あの時言われた通りにやめれば良かったんだ、ボール投げなんて」
「そこは確かにお前の言う通りかもしれない。でもあの兄貴には充分尽くしたじゃないか。逮捕されてもおかしくないレベルだ、お前がやられたのは」
「そんなっ! 兄ちゃんは悪くないんだ、きっと立ち直って元の立派な兄ちゃんに」
カジが割り込んだ。
「戻らねぇよ、そんなもん。ああいう風に崩れちゃもうダメなんだ。とっくに人生を捨ててる、お前の兄貴は。お前はもう離れるべきだ」
「そんなこと出来ねぇよっ、兄ちゃんの面倒、誰が見るんだよ!」
「お前じゃねぇことは確かだ。あの家は借家か?」
「違うけど」
「じゃ、兄貴は家を売ってどっかに行きゃいい。お前が自分の人生捨ててつき合う必要なんかないんだ」
その後は話すことも無く三途川家に着いた。
手当てをするために園田という医師に来てもらった。
「こりゃ酷いな…… 灰皿代わりにされたのか?」
今日の2ヶ所と最近の1ヶ所を治療された。
「骨は大丈夫だ。体は丈夫そうだな。打ち身が治れば後は大丈夫だがしばらくは動かない方がいい。足首は捻ってるから湿布を続けるように。手首も動かさなきゃ治りが早いと思うよ」
「ありがとうございます。こいつの面倒は俺が見るので」
園田が源太を見下ろした。
「良かったな。のんのさんなら安心していい。ここの連中の中でも特に面倒見がいいからな」
カジは帰って来た親父っさんに状況を説明した。
「連れ帰ったんですがいいですか?」
「今誰がそばにいる?」
「のんのです」
「そうか。じゃあいつに全部任せろ。のんのも心の傷ってもんが分かってきてるからな、いい経験になる」
「じゃここに置いても?」
「返すな、そんな兄貴んとこに。どこの組か言ったのか?」
「いえ」
「ふん。ヤクザと聞いただけで弟を売ったのか。ろくでなしだ、そいつは」
夜になると源太は落ち着かなくなり始めた。寝る前の薬を持って来たのんのに頼み始める。
「俺、帰んないと。兄ちゃんの飯、作んないと」
「忘れろ、兄貴のことは」
「そうは行かないよ!」
「源太、お前を売ったんだぞ? 好きなようにしていいって言ったんだ、あのクソ兄貴は」
「それは相手がヤクザだって驚いただけだよ! 誰だって驚くよ、でも帰ればきっと安心してくれる」
「何を安心するんだ?」
「ヤクザじゃなかったって言うよ」
「そしてまた当たり屋をやって失敗したら灰皿になるのか?」
無言になった源太を抱き締めた。不憫だった。何もかも自分が悪いと擦り込まれて。事故の原因にはなっただろう。だが兄にも立ち直ることは出来たはずだ。少なくとも弟の体を使って何もせずに暮らしていくなど出来るわけがない……
「源太。ここにいろ、俺が面倒見てやる。もう充分頑張ったんだ、お前は」
あの兄の姿、言葉にのんのの腸は煮えくり返っていた。
食事は部屋に運び、薬を飲ませ、眠るまで脇で本を読んでいた。あれから特に何も喋っていない。源太は静かだった。家に帰るとも言わなくなった。源太を見ないように本を読み続けていると寝息が聞こえてきた。あどけない顔だ。
(遊びたい盛りを潰して兄貴のために働いたのか……)
最初はバイトをしていたと言った。中学が終わってすぐ。ということは1年で400万を使い切ったのか。確かに使うことは出来るが、それをいざという時に備えてなんとかすることも出来ただろう。
(兄貴は何もする気がなかったんだな)
復讐だったのかもしれない。大学への希望を絶たれ、父を亡くし、不安定な日々を過ごし。けれど、とのんのは考える。
(恨んだだけなら源太を放り出したはずだ。一人で生きていくことを選ぶだろう。でも源太だけを働かせて挙句に当たり屋をさせてヤクザに差し出した…… 消耗品にしてたのか、初めから)
14歳で重い荷を背負うことになった源太が可哀そうだった。自分の14歳を思い出す。クソ生意気なガキだった。頭のいいことを鼻にかけ、周りを見下し、テストは常にトップ。友だちなんてもの自体を信じなかったし必要にも感じなかった。自分を引き立てるために存在していると思っていた。
進学校に進んでからもトップ。大学には難なく入り、そこで藤田と知り合った。自分では友人だと思っていなかったが藤田はなぜかあれこれ気にして忠告をくれた。だが聞く耳など持たず、逆に藤田を憐れんだ。自分はたくさんのものを手にしている、あいつはこれから『努力』という二文字に縋って生きていくのだろうと。
なのに目の前の源太は…… 自分の過去を塗り替えることも出来なかったのんのは、どうしても源太を幸せにしてやりたくなっていた。
気が抜けたのか、体が痛むせいか、源太は大人しい3日間を過ごした。信じられないほど眠った。信じられないほど食べた。そして、日を置いたことで3日前までのことを遠い夢のように感じるようになっていた。
『親父っさん』という人と話をした。過去のことや兄のことなど一切聞かれなかった。
『ここにいちゃどうだ? 取り敢えず体が治ったら一緒にゆっくり考えて行けばいい』
血も繋がっていないのにまるで肉親のように気遣ってくれた。ここの人たちも何かと甘やかしてくれた。まるで昔の家族に包まれているように温かいものを感じた。
(俺…… 迷惑かけたのに)
廊下で最初に出会った板倉という人とばったり顔を合わせた時は思わず顔を伏せた。緊張してううごけなかった。
「そうビビるなよ。悪かったな、あの時は。お前の事情知らなかったかし。でもな、他のヤクザだったら半殺しの目に遭ってたぞ。親父っさんに感謝しろよ」
そう言って肩をぽんっと叩いてくれた。それからは板倉を見ると頭を下げるようになった。
(板倉さんとイチさんはヤクザ。板倉さんはやっぱりちょっとおっかないけど、イチさんはなんか話しやすいな)
他の人たちのことも覚え始めた。
(テルさんって優しいな。いきなり頭見せて『テルだ。俺はここの太陽だ』なんて言うし。増田さんってふわふわした人。それから手島さんってヤバそうな雰囲気)
定番のメンバーは、イチとカジとテルとのんの。後は入れ替わり立ち代わり、顔ぶれが変わる。板倉は事務所を任されるから来月からここにはたまに来る程度になると聞いた。
少しずつ動くのが楽になっていく。3か所のタバコの痕は治療をされて他のものよりずっと見た目が良くなってきた。
(なんで今まで我慢できたんだろう)
源太はそれが不思議だった。増田がタバコを吸う。親父っさんに怒られるから外に吸いに行くのだが、帰ってきてその匂いを嗅ぐと吐き気がしそうになった。タバコの温度が蘇るような気がした。
もう帰らなくていい、何度もそう言われて自分でもそれでいいような気がし始めていた。
5日目。携帯にメールが入った。
『今話せるか?』
画面から目が離れない。
(兄ちゃん……)
ハッと我に返って思わずのんのを探した。そばにいてほしい、そう思った。
「あの、のんのさんは?」
「のんの? 買い物に行ってるよ。今日の当番はアイツだから」
増田の返事が途中から耳に入らない。
(今、って言ってる。かけないと)
習性とは恐ろしい。あっという間に兄の言葉が源太を縛る。
外に出て駐車場の奥に入った。2回のコールで出た。すでに背中を冷や汗が流れている。
『俺だ、どうなった?』
その声は簡単に支配者の声になった。
「なにも、なにもされてないよ」
『出れるか? 俺は心配してたんだぞ、お前のこと。すぐに戻って来るかと思ってた』
心配していた。その言葉に涙が流れた。
「ホントに? ホントに心配してくれてた?」
『疑ってんのか?』
途端に怒気を含んだ声に変わる。
「ごめん、疑ってなんかいないよ、ごめん」
何度か謝ってやっと最初の声に戻った。
『帰れないのか? 携帯持ってるんだから監禁されてるわけじゃないんだよな?』
「されてない」
『抜け出せるか?』
「戻ってほしいって……こと?」
『じゃなきゃかけるか!』
「うん、ごめん」
すぐに謝るのはもう条件反射だ。
『逃げて来いよ。そん時にな、金、盗んで来い』
「え?」
『か、ね。分かんねぇのか? ちっとでいいんだ、バレない程度の額で。俺、今カラっけつなんだ。夕べから何も食ってねぇ』
「ごめん! 飯作んなくて」
『そう思うなら金盗って来い。ポストの脇に弁当屋があったろ? あそこのロースかつ弁当が食いたい」
切れた携帯を見て自分が何をするように言われたのか分からなかった。どうすればいいのかも。
どこに金を仕舞ってあるのかなんて分かるはずもない。途方に暮れるが兄の言葉は絶対だ。14から4年間叩きこまれて来た。そこにあるのはただ怯えだけ。
「ただいま」
のんのの声だ。これが電話の前だったらきっと事態は違っていただろう。けれどもう他の選択肢など源太には無かった。
「お帰りなさい」
「ただいま、源太。今日はな、肉をたっぷり買ってきたんだ。喜べ、カツ丼だぞ」
(カツ…… そうだ、カツ弁当って言われた)
買い物をして来たのだ、今のんのは金を持っているはずだ。チラッと見ると尻のポケットに財布が入っていた。
「のんのさん、ごめん!」
そう叫んでのんのを突き飛ばした。
「な、なにするんだ、」
引っ繰り返ったのんののジーパンから財布を抜き取った。そのまま外に走り出す。のんのの叫びを聞きたくなくて必死に走った。
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