優作の物語 -5

「待ってよ、そこ分かんない。重力知るのにリンゴ落としたの? なんでリンゴなの? 他のじゃダメだったの?」

「そこに躓くな」

「だって重力の勉強の最初でしょ? 大事なとこじゃん!」

「要するにな、日常のちょっとしたことがきっかけでそういう発見が出来るってことだよ。誰もが落ちた、拾う、ってそういうところで終わってしまう。だがニュートンはそこに人とは違うインスピレーションが働いた。なぜ落ちるか? 落ちるってどういうことか? 地球は丸いわけだ。つまりどこで落ちても一か所に向かっていることになる。地球のど真ん中だ、落ちる方向は。そこに力の働き方の法則って言うのを見つけたんだよ」

「ふーん…… ニュートンって人さ、貧乏じゃなかったんだね」

「どうして?」

「貧乏なら落ちるの見て考え込んでないよ。すぐに拾って食べる」

「なるほど!」


 優作に勉強を教えるのはいつだって楽しい。久保木は真っ直ぐに物ごとに切り込み、真っ直ぐに行動する優作を気に入っている。だが致命的な部分、理解不足の面がその優れた部分を隠してしまうのがもったいなくてしょうがない。

 あれから一週間。物理はリンゴで躓いているし、英語は文法で躓いている。古典は外国語より難解らしく、H+O2がなぜ水になるか納得がいっていない。優作の勉強には『納得』というものが必要なのだ。他の生徒は『そういうものだ』と考えて次に進むが、優作にはそれが出来ない。

「優作、ハードルを下げないか?」

「下げるって? ハードルは跳ぶもんだよ」

「そうじゃなくてな。ただ教えるだけならこのスピードで構わないんだ。お前だって納得しながら勉強できる。だが進学を考えるなら違う勉強の仕方を考えなくちゃならない。進学って言うのは医大ってことだが」

「要するに俺には無理って言いたいの?」

「お前のやる気は買う。お前はいい加減に物を言うヤツじゃないからな。お前に似合うのはメスを持って人の体を切ったり、針と糸で縫ったりすることじゃないと思う。一人の人に向き合ってその世話をする方が合っているって思うんだ」

 俯いた優作の拳がぎゅっと固まる。言い過ぎたのか? かえって追い込んでしまっただろうか、

 優作がぱっと顔を上げた。そこには満面の笑顔。

「先生、行けるとこまで行く! 降参なんていつでもできるよ。でも今したくない」

「……お前らしいな。分かった! ごめんな、先生、先のことを心配したんだ」

「ありがとう!」


 現在の授業まで追いついているわけじゃない。だから今回の中間テストではこの補習は全く反映されていない。けれど優作は気にしなかった。

(赤点ばっかりだな。優作、大丈夫か? きっと落ち込んでいるだろう)

 そう思った久保木。

(今日は補習無しにするか。一日くらい休みを入れてやらないと)

中間テストの間でさえ補習をした優作。だから少し休ませてやりたいと思った。

「今日は帰っていいよ」

「なんで?」

「疲れたろう、テストで」

「どうして? あ、先生疲れた? そこ考えてなかった、ごめん! じゃ、先生休んでいいよ。俺ここでドリルやって帰るから」

「いやいや、それじゃ意味が……」

 その顔が普段と全く変わっていないのに気づいた。

「優作、テストのことショックじゃなかったか?」

「ショック? どこが?」

「毎日補習して一ヶ月だ。なのに成績は上がらなかっただろ?」

「それ、当たり前だと思う。俺が勉強してんのはもっと最初の頃の中身だから。先生、そんなこと気にしてたの? 元気出せよ」

(なんか違う……)

 今さらながら優作の心のタフさに驚く。久保木は家庭を持っているわけじゃない。だから学校で過ごす時間が増えても不都合に感じたことが無い。職員室でもこの補習のことを何か言われたことはない。むしろみんな口には出さないが応援してくれているような気がする。意味合いは違うが。同僚の考えていることは、『お前も大変だな、あんな生徒を相手にして』のような同情に見える。

「お前がそう思ってるならいいんだ。がっかりしてるんじゃないかって心配したんだよ」

「先生、心配性だね。ゴールは医者になることなんだ、俺みたいな頭じゃよっぽど頑張んないと。きっと焦ったらダメだって思う。誰かの目を気にする必要無いからさ、いいんだよ。高校だって大学だって一発で合格するわけ無いよ。人より時間がかかるんだからその分遅れてもしゃあないって」

(どっちが生徒だか分からないじゃないか! こいつの方がよっぽどポジティブだ)

「よし! じゃこれまで通り頑張ろう!」

「疲れたら休んでいいからね。先生だってデートとかしたいだろうし」

「ばか! 余計なお世話だ!」

 卒業を迎えて、優作のテストに赤点が無い時は無かった。高校は全滅。

「いいんだ、勉強は頑張る! 昼間工場で働いて夜間高校に行けるようになったのは先生のお蔭だよ。ありがとう!」

 泣いていたのは久保木の方だ。優作は晴れやかな顔をしている。いつの間にかゴールは『頑張る』ことになっていて、『医者になる』『あの子が好きだから』が遠退いていた。第一『あの子』の名前さえまだ知らない。

「いいのか? 卒業前に告白しなくて」

「勉強追いつかなかったのに? そりゃ無理だ。まだ成果上げてねぇもん。頑張ってるのだけ認めてくれってのは虫が良すぎるよ。それより勉強頑張んないと」

「俺の家に来れば続き面倒見てやるぞ」

「卒業したんだからさ、しばらく一人でやってみるよ。でもどうにもならなくなったら電話していい?」

「もちろんだ!」


 就学支援金制度を利用できるように久保木が手続きをしてくれたので、学費で困ることはなかった。昼間は工場でカットした肉をパックにしていく。時たまもらう肉を施設に持って帰り喜ばれるのが楽しみだった。4年間の通学のことにも理解を示してくれ、明るく真面目に働く優作は職場でも大事にされた。

 だが……

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