優作の物語 -4

「元気だねぇ、あの子は」

 園内で転げ回って遊んでいる男の子に園長は目を細めた。転んで膝に擦り傷が出来ると止める間も無く舐めて友だちを追いかけていく。そのくせ、友だちが転ぶと負んぶしようとして自分が転ぶ。

 優作6歳。やんちゃで笑顔がいい。友だちが多くて思い遣りがあって。滅多に泣かないすごくいい子。……悲しいくらいにいい子だった。

「このまま施設に置いておくのは……せっかく身内がいるのに」

「しょうがないです。お祖母ちゃんは要介護で寝た切りだし」

「もうすぐ入学式ね。きっと学校でもお友だちたくさん出来るわね」

 両親は事故で死んだのだと本人には言ってある。胸の大きな傷はその時のものだとも。3歳だったからあまり両親のことも記憶に残っていない。発見された時には親子で1人だけ息があった。手当ての甲斐があってやっと助かった子ども。けれど引き取り手はいなかった。

 小学校でも友だちはたくさん出来た。弱い者いじめが嫌い。ケンカにすぐ入って行って最後には誰と誰のケンカだったか分からなくなる。日直も掃除も嫌がらない。友だちが具合悪くて床に吐いた時もすぐ雑巾を持ってきて拭いた。

「汚ねぇ!」

「佐野に近づくなぁ!」

「手なんか洗えばきれいになるんだよ、ばぁか」

 そんな子どもだ。ただ勉強は苦手だった。


「俺、バカなんだと思う」

 4年生の保護者面談。来てくれたのは園長先生。

「そんなこと無いわよ。佐野くんなら今からだって勉強頑張ればすぐ成績上がるわよ」

「先生、成績良くないと生きていけなくなる?」

「生きてはいけるけど」

「ならいいや! 俺には勉強、向いてないと思うから」

 園長先生は諦め顔。

「やってはいるんです。宿題も一生懸命。でも教えてもどうしても分からないみたいで」

 専門機関が見れば、優作には『発達障害』という診断が下されたことだろう。『学習障碍児』。だが普段の様子を見ればただの勉強嫌い、衝動的で落ち着きのない子という評価しか出ない。当然治療が必要だとも思われていない。

 それでも優作は愛すべき存在だった。いるだけで全体の空気が変わる。運動会や学芸会、そんなところでは大活躍する。

 6年生では運動会の応援団長。盛り上がりは大変なものだった。

 そして中学校で多感な時期を迎えた。


「どうしてこれが分からないかなぁ」

 新しい教科、英語は理解の範疇を越えていた。

「日本に住んでてどうして外国語覚えなきゃなんないの?」

「これからの時代に英語は欠かせない語学よ。就職にだって大きく響くし、高校や大学の進学でも困るわよ」

「行かないよ、中学でいい。働くのはどこだっていいし」

「そうはいってもね、」

「困んのは俺だって言うんでしょ? でも困んないから」

 英語だけじゃない、数学、歴史、化学、物理…… 要するに勉強がだめだ。かろうして国語と生物はなんとか頑張ったが、そのうち手が出なくなる。

「生物ってさ、命を大切にするってことが分かってればいいんじゃないの? どうしてここまで細かく知る必要があるのかてんで分かんない」

 生物の久保木は担任だ。普段から優作をよく見ていた。性格がすごくいいのも人間性もよく分かっている。だからこそ心配だった。

「だがな、佐野。このままじゃ本当に中卒で終わるぞ」

「それで何が悪いのかな。俺がいいって言ってんだし」

「将来こうなりたいとか、無いのか? 仕事の種類とか」

「俺、ケンカなら負けないし。ボクサーとかいいかもしんない。それにいい加減なの嫌いだからどっかの工場とかでおんなじ仕事続けるっていうのも」

「お前にはもっと可能性があると思ってるんだよ。いいヤツだ、お前は。確かに短気だし後先考え無しの時もあるが、お前がなんかやらかす時っていつも自分のためじゃない。福祉の道だってあるんだぞ。体の弱い人を助けたり、高齢の人を介護したり」

 優作の考え込む様子を見て久保木はそれ以上を言うのをやめた。

「先生も一緒に考えるよ。だから佐野、お前もよく考えてみてくれ。いいな?」


 優作にも好きになった女の子がいた。長い髪をポニーテールにしている隣のクラスの子。いつもその髪ゴムは違う色だ。

「真紀ぃ、今日は水色?」

「そういう気分なの」

「水色の気分?」

「そうそう」

 とても繊細そうで優作には天使に見える。彼女の制服はいつもピシッとしていて上履きも鞄もほとんど汚れていない。持ち物はいつも真新しく見えて、パステルカラーのハンカチを持ち歩いている。

「今度の連休、どっか行くの?」

「誕生日プレゼントにって香港に連れてってもらえるの」

「相変わらず凄いなぁ。お父さんもお母さんもお医者さんだもんね。お兄さんもお医者さんになる勉強してるんでしょ? 真紀はどうするの?」

「私もそうなりたいの。だから勉強頑張ってるんだよね」

 女の子同士の会話は優作に強い刺激を与えた。

(お医者さん…… あの子も人を助ける仕事をするんだ)

やっぱり天使だと思った。その足ですぐに担任のところに行った。

「先生!」

 大きな声に顔を上げると離れた入り口から優作が飛び込んでくるところだった。

「走るな!」

 職員室の中で走る優作に他の教師の目がキツい。

「ごめん! もう走っちゃった」

「全くお前は! で、何の用だ?」

「医者になるのって、どれくらい勉強したらいい?」

「医者? いきなりだな! 確かに人を助ける仕事だが介護の方がお前には合ってると思うぞ」

「いいから! 教えてよ、なに勉強したらいい?」

 やる気になるのはいいことだと思った。

「全部」

「……全部って……どれか、じゃなくて、全部ってこと?」

「そうだ、全部だ」

「無理だよ! だって今までのもあんまり分かってないのに」

「じゃな、放課後残るか? お前部活とかやってないだろ? 補習してやるよ」

「そしたらなれる?」

「ちゃんと高校卒業して大学を出ないとだめだ。長く勉強することになる。どうだ? 頑張れるか?」

「……いったんやるって決めたことだから。頑張る!」

「そうか。いつから補習するか?」

「今日から!」

「すごいな! どうした? 何がきっかけでやる気になった?」

「隣のクラスの女の子」

「誰?」

「知らない。髪の長い子。天使みたいな子」

 担任は笑った。

「そうか、きっかけはなんだっていい。やる気になったのが凄いよ。放課後教室で待ってろ」

「うん!」

(頑張ろう! 同じ人間なんだし。お医者さんはいっぱいいる、俺がなれないわけない。……園長先生、腰痛いんだよな。それも治してあげられるかもしれない!)

 そして優作は必死に勉強した。

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