第4話 洋一の物語 -1
幼い顔をしたその若い男は、雨水が下水に流れ込む側溝の上に顔をつけたまま倒れていた。
「カジさん、あれ!」
優作が気づいたのは奇跡だ。もう辺りは真っ暗で男は黒っぽい服を着ていた。ちょうど通りがかった車のライトが照らした方に優作の顔が向いた。土砂降りの中。雨水だけでも充分溺死できそうな雨量だった。
「おい! しっかりしろ!」
傘を放って優作は男を抱き起した。カジが自分の傘を閉じて優作に突き出す。それを受け取って自分の傘を拾った。カジが男の細い体を肩に担ぎ上げる。
優作は先に家に走った。
「誰か! 手伝ってくれ!」
緊迫した声にテルが飛び出してきた。続いてのんの。
「倒れてる男を拾った! 今カジさんが担いで来てるがこの雨だから」
「分かった! 案内しろっ。のんの! お前は手当ての支度しとけ!」
テルが優作の後ろを走った。
「こりゃひでぇな」
そんな声がぼんやり聞こえた。
「おれ……いきて、る?」
「気がついたのか? ああ、生きてるよ」
遠くから答えが返ってくる。
「いきてる……ちくしょ……」
それきり洋一はまた気を失った。
次に目が開いたのは翌日の昼。見えたのは木目の天井、ぶら下がっている蛍光灯。
「いて」
小さく呟いて顔を動かすと襖の開いた和室に寝かされていることが分かった。
「どこだ?」
「三途川の家だよ、ここは」
返事のあった方を見る。痛みにぎゅっと目を閉じた。
「大丈夫か? 無理するな、傷はかなり深いからな」
「きず…… あ」
しまった! という顔。
「事情、あるんだろ? なんで刺された?」
どきりとする。
(この男は誰だ? ここは? まさか通報されたんじゃ…… それともあいつらに捕まった? いや、それなら手当てされるわけ無い、姉ちゃん……)
「姉ちゃん!」
起き上がろうとした体に激痛が走る。
「だから無理するなって! いいか、今は動いちゃいけないって医者が言ってた。これ以上出血したら入院することになるぞ。お前、それ困るんだろ?」
「あんた……だれ?」
「俺は八木だ。テルって呼ばれてる。なんかあるんだろうが取り敢えず安心しろ。ここは心配するようなところじゃない」
「けいさつには?」
「届けなんか出しちゃいないよ。脇腹に刃物傷なんて物騒なもんつけてたらただじゃ済まないだろ? 見たところ学生に見えるが」
「ちがう、俺は……バイトしてて」
「酷いケガしてるんだ、嘘なんかに神経割くな。何も聞かないよ」
洋一の耳に、追いかけて来るいくつもの足音が蘇った。
(寝てる場合じゃないんだ、行かないと)
「たのむ、行かなきゃなんないとこがあるんだ、立たせてくんないか?」
「バカ言うな、そんな状態で立てるわけ無いだろうが!」
「いい、自分で……」
その肩をまたテルに押さえられた。
「何かの縁だ、言えるなら事情を言ってみろ。何を切羽詰まってるんだ?」
絶望的な気持ちで洋一は事の発端を思い返した。
寺田洋一、20
母が亡くなって以来、男手一つで育ててくれた父は姉が14、洋一が11の時に事故で死んだ。だが保険金が下りたお蔭で暮らしは困らないはずだった。
叔母夫妻に引き取られた二人はそれなりに可愛がられたが、春香が自分たちに遺されたはずの通帳からかなりの金額が消えていることに気づいた。
春香18、洋一15。僅かな金を渡されて姉弟二人、叔母の家を追い出される。すぐに働き始めた姉の苦労を思いこっそりバイトしたがばれて停学。そのまま退学して、昼間は清掃会社で仕事をしながら定時制高校に通った。
暮らしは厳しく、なんの資格も無い姉は仕事に苦労した。そんな時に洋一は日頃可愛がってくれた近所の年配の谷という小男に
だが谷は洋一が風邪で寝込んでいる間に現行犯で捕まってしまった。今さら少ない給料を姉に渡すわけには行かず、洋一は単独でスリを始めた。
谷の手元を身近に見ていた洋一は元々が器用だったからすぐに腕が上達した。姉には黙って仕事すら辞めて、その道に入って行く。
春香21、洋一18。不運というしかない。スった相手が悪かった。電車の中で痩せた男の尻のポケットに手を掛け、その手を掴まれた。桜華組というヤクザ組織の組員だった。袋叩きにあった上、その組員に命じられたのがスリの仕事。
「無理です!」
「お前、姉貴いるんだな。いいんだよ、その姉貴に弁償させたって」
「だってスッちゃいないです! 財布に触りもしてない!」
「いや、スられた。ほら、これだ」
両脇を二人に押さえられて洋一のジーンズのポケットにその組員の財布が押し込められる。
「こんなの、卑怯だ!」
「うるせぇ! やるか、姉貴をウチの組の店で働かせるか。どっちを選ぶ?」
言うことを聞くしか無かった。もう姉に苦労させたくない。やらされたのはヤバい仕事。反対勢力の扱う覚せい剤をスる。
「いいか、買ったやつからスるんだ。あいつらは商売上がったりってわけだ。捕まっても組の名前を出すな。春香ってんだろ? お前の姉ちゃん。ずい分可愛い顔してたな」
洋一はスリ続けた。だがそう長くは続かない。警戒した売人たちは罠をかけて洋一を捕まえた。
「どこの組織のもんだ!?」
それに答えない洋一を殴る蹴る。その隙をついて逃げようとした時に脇腹を刺された。
「姉さんが危ないんだな?」
「おれ、どうしたらいいか……失敗したし、連絡、入れてないし……」
「お前に命令した組員はどこの組のヤツだ?」
「それは……」
事情を話はしたが、洋一は桜華組の名前を出さない。
「言わなきゃ守りようがないだろ!」
「そんなこと、できんの!? 相手はヤクザだよ!?」
テルが黙って出ていくのを見て洋一は自虐的に笑った。
(少ない給料でもあのまま我慢してりゃ良かったのか? 貧乏人は貧乏に暮らせってか?)
戻って来たテルは一人の男を連れてきた。そんなに年が行ってないのに貫禄がある。
「俺はイチって言う。だいたいの事情は聞いた。お前、どうしたいんだ? 動けねぇんだ、姉さんを助けらんないだろ? もう2日寝てるんだ、今頃どうなってるかお前に分かんのか?」
「あんたら、なんだよ! わけ分かんないヤツに言えるわけないだろっ」
「三途川組って聞いたことあるか?」
「あるよ、それくらい」
桜華組が目の敵にしている組だ。
「俺はその組のもんだ。悪いようにはしねぇ、言ってみろ」
洋一の顔から血の気が引く。よりによって、三途川組に拾われたのか……
「その顔からすると、桜華組か? そんなとこだろ、あそこは悪どいからな」
「何もしないでくれっ! 俺を追い出してくれりゃいい、事務所に帰る、あんたらに助けられたことは言わないから!」
「それじゃ姉さんはどうなるんだ?」
「どうって…… あんたらには関係無いだろ……」
「助けてやるって言ってるんだ。ついでに桜華組と手を切らせてやる」
「そんなこと……」
出来るわけ無い、そう思った。
「今日も医者が来る。内臓は大丈夫だが今動けばまた出血が始まる。姉さんを助けるには自力では無理だぞ。よく考えろ」
イチは立ち上がるとテルを目配せで廊下に呼んだ。
「あいつから目を離すな。交代で世話してやれ。放っときゃきっと抜け出す。俺は親父っさんとこに行ってくる」
「分かった」
中に戻ると洋一の表情が強張っている。
「ここはお前の考えるようなおっかないとこじゃないよ。組の事務所じゃないし」
「じゃ、ここは?」
「自宅。親父っさんの」
「あんたらは事務所じゃなくてここに詰めてんの?」
「俺たちはヤクザじゃない。本物は今来たイチさんだけだ」
「じゃ、使用人?」
テルはくすっと笑った。
「確かにそんなもんかもしれないな。けど、俺たち別口に働いてるよ。ここで共同生活ってのをしてるだけだ」
「共同生活?」
「当番決めて掃除したり料理したり。親父っさんとイチさんは組のことで忙しいからな、俺たち居候でそんなことやってるわけだ」
「居候……」
「お前もここにくりゃいいんだ。ここにいればみんなが守ってくれるし。姉さんも呼べるぞ」
くらっと来るような誘いだ。けどヤクザの一家に世話になって本当にそれで済むのか?
「その後は? 本物のヤクザになるのか?」
「ならないよ! 少なくとも俺にヤクザは無理だ。他の連中もいつかここを出てくと思うよ」
「なんで」
「親父っさんが自分の道を見つけろって言うからさ。イチさんは考えて親父っさんの下にいることにしたんだ。居候連中はみんな碌なもんじゃなかったよ。みんな親父っさんに拾われたんだ」
そこに優作が顔を出した。
「よっ! どうだ? 少しはマシか?」
怪訝な顔をする洋一にテルが教える。
「お前を助けたのはこいつだよ。土砂降りの中で引っ繰り返ってたお前を見つけたんだ」
「……ありがとう。でもそのまま捨てといてくれても良かったんだ」
「なんだと!?」
「待てって! こいつにも……そう言や名前聞いてなかったな」
「……洋一」
「洋一にもいろいろややこしい事情があるんだ、許してやれ」
「誰だってややこしい事情ってのを抱えてるよ。だからここにいるんだろ!?」
「そりゃそうだけど。今は勘弁してやれよ、体に障る」
「あ、飯持って来ていいのか見に来たんだった」
「バカ、なら順序が違うだろ」
優作が廊下に出るのと一緒にテルも出た。
「なんだよ」
「桜華組に借りがあるらしい。ホントは抜け出したいんだろうが姉さんが捕まってるって話だ。交代でそばについてろってイチさんからの指示が来てる」
「桜華組って…… 大丈夫なのか?」
「後はイチさんが動く」
「そうか。分かった、飯は俺が食わせるよ」
「じゃ、ちょっと任せていいか? 俺は洗濯もん片付けてくるから」
「いいよ、俺が拾ったんだ、面倒見てやる」
「怒るなよ」
「もう怒んねぇよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます