ナッチの物語 -4
10分したら部屋に行く、そう言われて夏男は自分の部屋に戻って待った。のんのに言われた通り、襖を開けていると閉塞感を感じずに済む。
こんなにゆったりしたことがあっただろうか。父の絡みや親のごたごた、そしてあの事件。勉強に力を入れていたことに特に何も感じない。必要でやったんじゃない、逃げるにはちょうど良かったからだ。認めてもらえて、誰も勉強というバリアを浸食してこない。
「待たせたな」
源だ。手には炭酸を2本持っている。渡されて蓋を開けて一気に半分まで飲んだ。気分のいいゲップが出る。
「美味いか?」
「はい!」
「冷蔵庫、2つあるんだ。でっかい方が俺たちの。自分のものには名前を書いとく。書き忘れたら無くなってても文句言わなこと。親父っさんも女将さんも俺たちには規則がましいことはそんなに言わない。でも俺たちの間には暗黙の了解があるんだ、当番みたいな感じでな。始めは教えてやるよ。冷蔵庫だが小さい方は親父っさんたちのだ、絶対に手を出すな。あれを開けていいのはイチさんとカジさんとテルさんだけ。他に冷凍庫が2つある。それと別個に野菜だけしまうとこがある」
「親父っさんたちが小さい方を使うんですか?」
「人数が違うからな。多い方が大きいのを使うの、当然だろ?」
やはり、よく分からない。
「それって、組にとってどんなメリットがあるんですか?」
「メリットねぇ…… そういう発想が生まれんのはお前に学があるってことか?」
「学って……高校は止めたし。必死で勉強はしたけど意味無かったし……」
「勉強に意味もへったくれも無いんと違う? ま、いいや。そこは自分で考えることだし。ここ、合わなかったら好きな時に出てっていいんだ。そん時のルールだけ今教えといてやる。部屋はきれいにしていけ。布団も片せよ。置手紙とか要らない。それだけ」
「それで……出てっちゃっていいの?」
「構わないさ。最初に親父っさんが聞いたろ? 『野村と桑野は?』って。あいつらは出てったんだ。そうだ、ここにいるつもりだったら2階に行けよ。2階はさ、テレビがあるんだ。2つ部屋が空いたんだから好きな方使え。決まったら掃除しといてやる。布団も干しとくから取り込むのだけ自分でやってくれ。他に欲しいもんがあったらなんか働くんだな」
「バイト、ってこと? 源さんはなんの仕事してんの?」
「当番ちゃんとやってりゃ親父っさんからそれぞれに3万はもらえる。俺は当番の日以外は八百屋で手伝いしてる。カジさんはイチさんの手伝いだ。のんのさんは塾の先生やってる」
「え!?」
「あの人、頭いいんだ。大学は途中で辞めたんだけどすごい優秀でさ」
心なしか源の声が弾んでいる。
「で、ここに住みついてから親父っさんの知ってる塾で中学生の講師探してるってんでそこで教えるようになったんだ」
徐々に違う世界が見えてくる。
「俺も……バイトしていいのかな……」
「好きにしていいんだ。考えて見ろよ、いろんなこと。じゃ、よく考えてから部屋決めといてくれ。出てっちまってもいいからな」
源が出て行ってからしばらくぼぉっとしていた。
聞いたことが本当なら新しい未来が見えそうな気がする。この前まで最低な日々を送った。言えなかったけれど、仕出し弁当屋が売れ残ったものを捨てるのを待って拾って食べた日もあった。ここにいれば住むところ、食べる物には困らない。いろんなことを考えていい。
(バイト、したい。服も買いたいしビデオも見たい。遊びたい!)
ただ勉強の毎日だった。ゲームセンターも行きたい、ボーリングとかカラオケとか。そんなのをやってみたい。
(桜華組に行ってそんな自由ってあんのかな)
多分ないだろうと思う。それにここにいてもヤクザになる必要はないのだと言っていた。
(本物は親父っさんとイチさんだけ。カジさんでさえヤクザじゃないんだ……)
なら、迷う必要がどこにあるだろう?
2階に上がってみた。襖を見て可笑しくなる。
『空いてる』
そう張り紙がある。覗いてみる。片方は角部屋。窓が多い分明るい。もう一つを見る。窓は少ないが部屋がさっきのより広い。それに机がある。悩んでいるところに源が来た。
「ここにいるってことは残んのか?」
「うん、そうしたい」
「そうか。部屋、決まった?」
「迷ってる」
「こっち少し広いしな」
「それに机がある」
「机?」
源が怪訝な顔をした。
「向こうは明るいし。広さはどっちでもいいんだ、俺一人なんだし。今までのこと思えばどっちも贅沢で」
「そうか……机か。おい、そっち持て」
片側を持たされた。たいした机じゃない、引き出しはちょっとだし大きくも無い。だいたい椅子が無い。
「これ……」
「机が無いから困ってんだろ? なら使えばいいって。どうせ誰も使わねぇから」
運びながら涙が流れる。
「なんだよ、机っくらいで泣くなよ。言っとくがこの家に椅子なんて洒落たもん無いからな」
バイトして一番最初に買いたいもの。それが今決まった。
バイトは手っ取り早く『未経験可』という募集の張り紙があるファーストフードの店を選んだ。選んだはいいが、住所、電話、身元保証人。バイトの経験そのものが無いからそんなことを聞かれて焦った。あの家を住所にしていいのか、電話は、保証人は……
結局とぼとぼと帰ってきて自分の部屋となった畳の上に寝転がる。
(どうしたらいいっていうんだ?)
明るくなったと思った未来が早くも暗くなってくる。家、家族、家庭があるということがバイト程度の単純なことにさえ深く関わってくるのだと初めて知った。
家を捨てる。『俺は独りで生きるんだ』
その潔さがカッコよくてクールだと自分では感じていたのに、根底から覆されてしまった。バイトにさえつけない。自分は社会からの落ちこぼれになったのだと、敗北感に包まれる。進学校に通っていたのだからその意味くらいは分かっている、自分は負け組だ。父親と同じ。
「どうした、バイト見つかったのか?」
源だ。どうやら夏男の保護者担当になったのは自分のように感じているらしい。
「バイトなんて……」
ごろっと源と反対の方に体を向けた。
「すぐ見つからないからって落ち込むなよ。やれそうだってのに決めればいいんだ。後は面白そうだって思ったのにすると長続きするから」
「そんなもん選んだからってどうにもなんないよ」
源がそばに座った気配を感じた。
「なんかあったのか? 朝はもっと元気良かったじゃねぇか」
「どうせ俺は落ちこぼれなんだ……負け組なんだ、まともにバイトすら出来」
強い手が腕と服の背中を掴んで引き摺り起こされた。
「お前、なんか勘違いしてねぇか?」
「……何を?」
「落ちこぼれだの負け組だの。自分でそう決めてんなら何も変わんねぇってことだよ。する前っからそんなこと考えてんならホントにお前はクズだってことだよ」
夏男の目に怒りが湧く。
「そんなこと言ったって! 俺には住所も電話も身元保証人も無いんだ。バイト選んだからなんだってんだよ! 最初っから無理だったんだ、一人で生きるなんて!」
「バカヤロー!」
殴り倒されてあまりの痛みに涙が滲む。
「おい、何怒鳴ってるんだ? 2階で揉め事は無しだぞ」
テルだ。
「こいつ、今日バイト探しに行ったんだ。すぐ帰ってきて負け組だの落ちこぼれだのうだうだ言いやがって」
なんとか起き上がった夏男の顔を見てテルは溜息をついた。
「穏やかに話せないほどのことなのか? 源、氷包んだタオル持ってこい。これじゃ面接だって受けらんないだろ」
足音高く源が下に降りて行った。
「夏男、聞けよ。源はお前に自分を見たんだと思うよ。ここに来たみんながそうなんだ。やっとまともな布団に寝てまともなもの食って。それでまともに戻ったとか、なったとか思う。お前もそうだったんだろう?」
夏男は力なく頷いた。
「そして外に出た。いくら寝床と食べる心配が無くなったって金は要る。生きてるだけでいいんなら働かなくたってこの家では生きていられるんだ。それだけならな。けど、それで済まないのが人間だ。いろんな物が欲しくなる、してみたくなる。だから働くことを考える」
その通りだ。テルの言っていることはそっくりそのまま、今の自分だ。
「家が恋しくなったか?」
言われてドキリとした。恋しくなんかなっていない。あの家に帰って、じゃどうするのか。暗い母とあの家で二人きり。考えただけでゾッとする。
けど……
「恋しいとか……そういうんじゃない。俺、何も出来ないって……一人になりたかったのに一人じゃ何もできないんだってそう思って」
「当たり前だ、一人だけで何かできると思ってんなら大間違いだ。生きていくにはバックになるもんが必要なんだよ。定住地とか自分を保証してくれるもんとかな。それを用意しないで生きてくんならそれこそ裏の世界にでも行くしかない。それを落ちこぼれだとか負け組だとか言うんなら、それは自分で選んだ結果だよ」
「大人って……汚ねぇよ。すぐ選択がどうの、結果がどうのってそういう偉そうなこと言うんだ。ガキだと思って俺を見下して」
大きな笑い声が起きた。驚いて顔を上げる。カジ。笑い声など初めて聞いた。
「ガキが、ガキじゃないって? それを言うお前はほんっとにガキだな」
「ガキなんかじゃ!」
「じゃ、クソガキだ。働くってのは甘いこっちゃない。見も知らない人間を使って給料を払うんだぞ。店にとっても多少のギャンブルなんだ。お前がとんでもないヤツかもしれない、閉店後になんか盗んで逃げるような」
「そんなことしない!」
「それが分かると思ってんのか? 『一生懸命働きます』そう言えば使ってもらえるなんて思ってたのか?」
「じゃ……やっぱりバイトなんかできないじゃん……」
カジも座った。今の状況が夏男には不思議だった。自分のことを考えるのに大人がこうやって囲んで話してくれたことがあっただろうか。自分たちに何の得も無いだろうに。
「お前はなんか努力したか? ここに落ち着くことに決めたんだよな、バイト先探してんだから」
「そう思ったけど」
カジの言う努力とかが分からない。何をすればいいというのか?
「何しろって言ってんの? 当番やれとか? なんか役に立つことしろとか」
「ホントに分かっちゃいないな。ここじゃ好きにやればいい。誰かのために動かなくたって構わないんだ。まずこれが基本だ」
「それがおかしいってんだよ! 見返りを要求しないなんて、世の中にそんなことあるわけ無いじゃないか!」
「お前の言い分は分かった。信じる信じない、それは勝手だ、好きにしろ。後は何が分からないんだ?」
「だから……さっきあんたが言った『努力』ってやつ」
カジにわざと『あんた』言った。クソガキとまで言われて、甘く見られたくないという気持ちもある。どこでもいい、対等な部分が欲しい。
「努力したかどうかは自分で分かるだろう? 後は考えろ」
さっさと立ち上がったのに慌てる。
「ちょっと待てよ! 言いっ放しかよ! そんなんじゃ分かんねぇよ!」
「ガキ。お前がちっとはまともにものを考えるようになったら名前を呼んでやる」
カジは下りていき、困ったようなテルが残る。そこに源が上がって来た。
「これ」
氷を包んだタオルを渡されて、いまだにジンジンする頬に当てた。
「あ、つっ!」
冷やすのは気持ちいものだが、いきなりの氷は痛みを伴う。
「しっかり冷やしとけよ、面接に困るだろ」
そう言い残して源も下に降りて行った。
「……自分で殴っといて」
「そう言うな。ここにいる連中はな、みんな同じだよ。だからお前が今悩んでることやどうしていいか分からない状態は百も承知してるんだ」
「ならなんで教えてくんないんだよっ」
テルは困り果てたように頭を掻いた。
「みんな通ってきた道なんだ。知ってるから後から来たヤツに楽をさせてやる。学校の勉強じゃないんだよ。楽をさせるために世の中はあるわけじゃないんだ」
結局やる気も起きず、そのままだらだらと3日を過ごした。ちゃんとした時間に起きれば朝食も食べられるし、三食の食事に困ることは無い。風呂も入れてテレビを眺めてごろごろし。
何をやれとも言われないから意地でもやらなかった。何か自分に対して反応が欲しい。お前の存在が分かっていると言われたい、認めてほしい。
けれど誰も何も言わない。自分が何もしなくても風呂はきれいだし、家の中にはゴミ一つ落ちていない。風呂を出て洗濯籠に入れっぱなしにすればきれいになって乾いたものを淹れる大きなかごに入る。それぞれが自分のものをそこから持っていく。替えの服は洋一が何枚かくれた。
本当の『食っちゃ寝』が出来る。そして、居心地が悪くなってくる。
みんな普通に話しかけてくる。嫌いなものはなんだ? とか、テレビの音がうるさいぞ、とか。でもそれだけ。当番をやる者同士の共感が無いから会話も減る。みんなそれぞれ自分のやることに散っていくから取り残されたような気持ちになる。
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