ナッチの物語 -3
朝目が覚めたのは6時50分。
(夕べ早く寝ちゃったからな……まだこんな時間か)
壁にかかっている時計をチラッと見てまた目を閉じた。久しぶりに伸び伸びと眠った。まだうとうとしたい……
跳ねるように起きた。もう一度時計を見るともう6時56分。
(ヤバい!)
脱ぎ散らかしていたTシャツを拾ってケンカの名残のあるよれたジーンズを履く。布団はそのままに廊下を速足で歩きながら手櫛で髪を乱暴に梳いて夕べ夕食を食べた部屋に近づいてスピードを落とした。
「おはようございます」
「おはよう!」
洋一と源が声をかけてくれた。カジはぼそっと言い、イチは頷く。テルが手を上げてのんのが後ろから「おはよ」と言ってくれた。優作はこっちを見ずに、けれど手を上げてくれた。
とっくに朝食はテーブルの上に広がっている。夕べと違って、自分の席は一番端になっていた。
「そこの方が食いやすいだろ?」
源が小さな声で言ってくれたから頷いた。
「親父っさん! できました!」
「おう」
(いるんだ……)
どきっとする。親父っさんの後ろから中年の女性が一緒に入って来た。驚いたことに着物だ。それがよく似合っている。恰幅がいいという言葉が合う。親父っさんとよく似たオーラみたいなものを感じた。
「野村と桑野は?」
「朝から見てません」
「そうか」
「夏男、そばに行って挨拶してこい。女将さんだ」
隣りの源に言われて途端に頭の中がカッと熱くなる。
「でも! なんて言えばいいのか……」
「名前言って後は簡単に何か言って来ればいいんだ。ほら、女将さんが茶碗握る前に行け!」
言われるがままに立って女将さんと言う人のそばに座った。
「あの、江木夏男といいます。昨日、組……親父っさんに連れて来られて」
「がんばんな。ここじゃみんな自分で考えるんだ、あんたも自分で決めてしたいようにおやり。いるのも出てくのもあんたが決めるんだよ」
どう返事すればいいのか分からず、「はい」とだけ言って自分の席に戻った。
「あれで……良かったのかな」
「上等だ」
源がにこっと笑った。
親父っさんが茶碗を持つ。
「今日は誰だ?」
「俺です!」
「源か、そりゃ覚悟して食わなきゃな。いただくよ」
女将さんが続く。
「いただきます」
全員が一斉に「いただきます!」と食べ始める。
「あの、源さん、覚悟って?」
じろっと睨む源の代わりに向かいにいる洋一が答えた。
「源さんは下手なんだ、料理が。そう言う意味」
「源さんが作ったんですか!?」
玉子焼き、サラダ、佃煮、漬物、味噌汁。
「え、これだけ?」
「文句言うなら食うな」
斜め向かいで食べているカジが低い声で言う。
「出されたものが全部だ。源、お前作ったのは玉子焼きと味噌汁だけだな」
「すみません」
「源」
女将さんだ。
「はいっ」
「味噌汁のダシは何使ったんだい?」
「前、昆布使うといいって教えられて」
みんなが顔をしかめながら味噌汁を飲んでいる。夏男も飲んでみると味噌の味にほんのわずかな昆布の香り。
(まずっ!)
「ばか! 昆布使うのは澄まし汁とかおでんとか湯豆腐とか、そんな時だ!」
のんのが源に小さい声で言う。源も自分で飲んでイヤな顔をした。
「味見、しなかったってことだな」
イチの声がまるで断罪しているように聞こえる。
「今度、頑張ります」
「そうしろ」
親父っさんはそのまま味噌汁を飲んで「お代わり」と椀を差し出した。すかさず受け取ったテルが味噌汁を注いで渡した。
(これ、お代わりすんの?)
女将さんも椀を差し出し、イチもだ。全員というわけじゃない。優作も洋一もお代わりはしない。だから自由なんだと思う。のんのはなぜか3度もお代わりをした。源がのんのを見つめて、のんのは頷いた。それにぺこっと源が頭を下げた。
食べ終わるとみんなばらばらと立っていく。それぞれすることがあるのだろう、片付けもせずに源だけがやっている。
「俺も手伝います」
「いいんだ、お前は自分の好きなことやってろ」
黙々と片付けている姿に聞いた。
「味噌汁、のせいですか?」
「なにが?」
「上手く作れなかったから罰で一人で片づけてるとか」
源が顔を上げる。
「おかしなこと言うな? なんで俺が罰を受けるんだ?」
「だって誰も手伝わないし」
「ああ、今日は俺が当番なんだよ。だからだ」
「当番?」
「朝掃除して風呂洗って飯を作って片付ける。その当番」
「俺も?」
「好きにしていいんだ、別に」
(不思議なとこだな)
あまり当番のことを聞くのは止めようと思った。訳も分からずやらされたくはない。
「部屋、戻ります」
頭を下げて割り当てられた部屋に行った。
(なにしてればいいんだろう)
取り敢えず布団をしまった。それだけでやることは終わってしまう。寝転がってみたが落ち着かなくて起き上がる。テレビがあるわけじゃないし、本だって雑誌だって無い。
ジーンズのポケットに手を突っ込んで持っている全財産を畳の上に広げた。2,470円。何をどうするにしても半端な金額。パチンコをやって増やせるような軍資金にも心許ない。
(追い出されたらネットカフェか……)
けれどその先の生活は…… 考える余裕が出てきて、先々のことが不安になって来る。
「入ってもいいか?」
昨日優しく声をかけてくれた『のんの』という人の声だ。
「はい」
急いで正座をした。襖を開け放したままのんのが座った。
「ここは開けとけ。気が滅入るだろ? 今日はいい天気だ、廊下から中庭も見える」
「はい」
「昨日、威勢が良かったんだって? 優作があれこれ言ってたが大人しいんだな」
表情が柔らかい。
「あの、これからどうしたらいいのか分かんなくて……なんでここに連れて来られたのか」
「俺もそうだが、親父っさんに拾われたんだろ? なんで、ってそれが理由だって思っときゃいいんだ。親父っさんが連れてきたからそれでいい。イチさんも昨日言ってただろ?」
確かにそう言われた。
「でも、そんな理由って」
「何か目的があるとか、行くとこがあるとか? そういうのは?」
「……ないです」
「これからどうするって決めてないのか? 桜華組って昨日言ってたろ?」
「あれは! あれは、取り敢えずそうすれば食えるかなって……」
「あそこに行ったらお前はただの使いっ走りで一生終わるぞ。いいように使われて鉄砲にでもされて、上手く行かなきゃ消されるかムショか。そんなんでいいのか?」
「頑張れば簡単に上に行けるって聞いたから」
「誰に?」
「パチンコ屋で近くに座ってた男が話してた」
「それ信じたのか? ばかだなぁ」
のんのが目を丸くしている。
「じゃ、ここに入れってことですか? 三途川組に。だから組員の中に連れて来たとか」
のんのが笑い始めた。
「なに、おかしいんですか! 組が違うだけでどっちもヤクザでしょ? 人増やすためにどうでも良さそうなヤツ拾って集めてんじゃないんですか?」
笑いが止まる。ピタッと見据えられて夏男は黙った。
「勘違いするな。お前みたいなヒヨッコを組に入れるほど親父っさんは困っちゃいない。それにここでほんもんの組員はイチさんだけだ。みんなここの居候みたいなもんだ。親父っさんに拾われたもんばっかりだ」
「イチさん、だけ?」
「他は全部あちこちの事務所にいる。ここにはほとんど来ない。親父っさんは外と中をきっちり線引きしてるんだ」
のんのの話がよく分からない。それで親父っさんに、いや三途川組になんの得があるのか?
「あの、親父っさんはそれで何したいんですか? 将来の幹部候補育てるとか」
「ばか、ここにいるからってヤクザになる必要なんかないんだ。言われなかったのか? 好きにしていいって。こうも言われたろ、なんか自分の中で決まるまでいたっていい、出てってもいい」
「……言われた」
だからと言って、何をどうしていたらいいのか。
「でも、ここにいてただ食って寝てりゃいいんですか? 金とかは? 払わなくちゃなんないんでしょ? 食事代とか部屋料とか」
「払いたければ払えば? 出せば受け取ると思うよ。食って寝てたかったらそうしてりゃいいし」
「でもここにじっとしてても何も変わんないし」
「そう思うなら変わるようにすりゃいい。女将さんが言った通りだよ。自分で考えて自分で決める。答えは誰もくんないし、だいたい答えなんか誰も持っちゃいないからな。そう言う意味じゃお前とたいして変わんないんだよ。俺だってまだこれからどうしたいかなんて決まっちゃいないんだ」
のんのが出て行って今の話を思い返す。
(自分で考えて、自分で決める……)
あまりにも大雑把で逆に分からない。夏男は部屋を出て源や洋一を探すことにした。きっとあの二人ならもっと分かりやすいことを言ってくれる。
源をすぐに見つけることが出来た。廊下を歩いている時に中庭を見た。本当に見事な中庭だと足を止めて見ると、そこで源がはき掃除をしている。窓を開けた。
「源さん!」
「うわっ! ……夏男か、脅かすなよ!」
「すみません」
「いいけど。これ、内緒にしといてくれ。実は今朝寝坊しちゃったんだよ。だからここの掃除しないで飯の支度しに行ったんだ」
「誰かに怒られるんですか?」
「そんなのいないよ」
「でも黙っててくれって」
「してないと親父っさんが掃除しちまうんだよ、箒と塵取り持って。だからやるんだ」
「組長、親父っさん、掃除が好きなんですか?」
「そんなヤツ、いるわけないだろ。でもそうなっちゃうんだよ。前に洋一が段取り悪くて朝飯を作れなかったんだ。そしたら親父っさんと女将さんが作り始めちまって。片付けまでされてみんなしんどい思いしたんだ」
ますます不思議で堪らない。夏男は真剣な目で聞いた。
「源さん、ここのこと、教えてください」
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