第3話 ナッチの物語 -1
夏に生まれた男の子だから『夏男』。
単純明快な名前をつけた両親は、単純明快な思考を持つような親じゃなかった。
「勉強なんかしたっていいことねぇぞ」
父は酔うと二言目にはそう言う。自分より年下の男が上司になって『負け組』と陰で言われているのを聞いてしまってからだ。
(なら、辞めりゃいいのに)
「どうすんの! 先月より給料少ないじゃない! なんで残業しなかったの!」
「あんな若僧の言うこと聞いて残業なんかやってられっか!」
(なら、辞めりゃいいのに)
小学校の時はよく聞かされた。
『お母さんはね、お父さんにデート誘われて初めてお化粧したのよ』
(あれ言ってた時の母さん、きれいだったよな)
目の前にいる目の吊り上がった女性を見て、そんなことを思った。
親を見ていると未来が暗くなる。夏男は父に逆らって勉強に入れ込んだ。その方が楽だ。
「勉強してるから」
「宿題があるんだ」
「テストが近いから」
まるで魔法の言葉だ。それを言えば、父が絡んでくるのを母が防いでくれる。お蔭で進学校には入れたけれど、高校2年の3学期に全てが崩れた。
「ただいまー」
なんの返事もなく、どうせ二人がケンカしてムスッとしているのだろうと思った。玄関は開いたままだ。いるのは間違いない。父は『今日は会社に行きたくない』と、子どものようなことを言っていた。
構わず喋り出す。暗い家で一人っ子の夏男はいつも明るく振る舞う。
「今日はさ、部活サボって帰って来た。テスト一週間前なのに隠れてやるなんて、ウチの部長もよくやるよ……」
台所に入ろうとして夏男の靴下を濡らしたのは、真っ赤な血だった。
「帰ってきたらお母さんが倒れていたんだね?」
「はい」
「玄関は開いてた?」
「はい」
「お父さんは仕事?」
「はい」
「何か見なかった?」
「何か聞かなかった?」
「何か無くなってる物はないかな?」
「変な電話がかかってきたりしてなかった?」
「今朝のお母さんに変わったところは無かった?」
「最近、何か気づいたこと、ないかな」
刑事の矢継ぎ早の質問に言葉が止まる。
「なにを……」
「ん? なんだい?」
「なにを答えれば満足ですか……」
「満足って、大事なことを聞いてるんだよ」
「俺、今大事なことは母さんのそばにいることです。どうでもいいよ、そんなこと」
「お母さんのケガはたいしたことないんだよ。心配かもしれないけど、先生に任せるんだ。脳震盪を起こしてるだけだからね」
「血が、流れてたんだ」
「頭の傷は見た目はひどく見えるけどそれほどのもんじゃないんだよ。そんなに心配しなくても大丈夫だか」
「あんたの母さんじゃない……あの血は俺の母さんの血だよ、あんたが何も感じなくたって、俺の母さんの血だよ!」
刑事は帰って行った。
『落ち着いたらまた話を聞くから』
(落ち着いたら? なにが? 玄関開いてて入ってきたら血が流れてて母さん倒れてて意識なくて救急車呼ぶのに手が震えて呼んでも返事が無くて……なにが落ち着くんだよっ!!)
目を開いた母が夏男を見て真っ先に言った言葉は、
「ごめん……ごめんね、夏男、ごめんね……」
だった。
「なに? なんで謝ってんの? それより大丈夫? あまり喋んない方がいいよ」
目が覚めたことにほっとした。声が聞けてほっとした。なのに、『ごめんね』。
手を握られた。それはいつもの乾いた温かい手じゃない。小刻みに震えて冷たかった。その手を温めたくて両手で包んだ。
「ね、誰が母さんをこんな目に遭わせたの? 強盗? それとも」
「父さん」
「……ね、冗談言ってる場合じゃないよ」
「父さんなの、私が悪いの、ごめん、ごめん……」
それ以上言わない母に、何も聞きようがない。
(父さん、が? 叩いてるの見たことあるけど、父さんが、あんなに血が出るほど……?)
どこか現実味の無い母の言葉。斜に構えて両親を見てはいたが、よくある仲の悪い夫婦なのだと思っていた。元々は恋愛結婚だったのに、会社での出世問題が引き金となって壊れていく、よくある夫婦なのだと。
けれどここまでするほど、父は何を怒り狂ったのだろう。
ベッドの母の事情聴取、家に財布を取りに戻った間抜けな父。
母の浮気も、それが父の良く知っている相手だったという事実も、今さらどうでもいいことで、それを聞いたから知ったから自分までいろいろ聞かれたから、だからといって現状が変わることも無くただ足元が崩れて。
学校をやめたのは好奇の目に耐えられなかったからじゃない。野次る声に耳を塞ぎたかったからじゃない。
自分の可能性を考えるのをやめたかった、無駄だから。それを教えたのは他でもない、ろくでなしの父だった。自分が父を認めていないことを自分の中で誤魔化してきたのに、真実を教えたのは他でもない父だった。
『勉強なんかしたっていいことねぇぞ』
夏男は学校をやめ、離婚して家で待つ母の元には帰らず、執行猶予付きで周りをうろうろしていた父を殴り、そして姿を消した。
もうすぐ18を迎える春だった。
電話を受け取ったのはイチだった。
「なんて言ってんのか分かんねぇよ! もうちょっときちんと喋れねぇのか!」
『だから、いてっ! この野郎! 大人しくしろっ』
『ふざけんな! 手、放せよっ』
「おい、優作! 一体なにやってるんだ?」
電話の向こうで騒動が怒っているのは確かだ。
『スターラックってパチンコ屋で……わ! 噛みつきやがったっ』
そのまま切れてしまった。
「なんの騒ぎだ?」
舌打ちして出ようとしたイチに親父っさんが声をかけた。
「優作ですよ。あいつスターラックでなんかやらかしたみたいで」
「その電話、店員からか?」
「いえ、本人から。ケンカじゃないかって思うんで行って来ます」
「しょうがねぇな…… 俺も行くよ。あそこの店長が真面目にやってるか気にかかってたしな」
靴を履きながらイチがボヤく。
「親父っさん、何度も言うけどウチはヤクザですよ。慈善活動家じゃない」
「お前は固いんだよ、頭が。どんなヤクザだろうが地元では世話になってるのにちげぇねぇんだ。俺がヤクザをやめねぇのは、やめちまったら路頭に迷うろくでなし連中が何すっか分かんねぇからだ。その心配が無きゃとっくにやめてるよ」
「それ、
桜華組と言うのは対抗勢力だ。組長の萩原とは昔から仲が悪い。先々代の桜華組は今の三途川組とは逆だった。つまり三途川組を悪とすれば桜華は善。それが今では入れ替わってしまっている。勝蔵の寝首を掻こうと虎視眈々と狙っている組織だ。薬、闇金、そんなのは表の仕事と言ってもいい。裏じゃ臓器売買にも手を出しているんじゃないかと、この世界では売り出し中の悪の巣窟だ。
「こうやってお前と二人で歩くのは久しぶりだな」
「あんまり有難くないんですけどね。カジもいないんだから親父っさんにふらふら歩かれたくないんですよ」
「ふらふらか。ちげぇねぇ」
もう初夏だ。風が気持ちいい頃合い。この時期は町が華やいで見えて勝蔵はちょっとウキウキしてくる。とてもじゃないが家の中でくすぶってはいられない。
そんなに遠い距離じゃない、あっという間に散歩は終わりとなった。
「表に出ろ!」
「ガキのくせにいい度胸じゃねぇか!」
道路にまで聞こえるようなそんな声。別の声が宥めるように呼び掛けている。
「優作さん、その辺にしとこうよ」
「うるせぇ!」
「ウチはいいんだ、けどお客さんが……」
「全くアイツは……」
イチより先に勝蔵は店に入った。
「優作! 何やってやがる!」
「親父っさん……」
振り返った途端に急に背筋が伸びた優作に、後ろから飛びかかって来たのがいて優作は派手に前につんのめった。勝蔵は思わず笑った。
「威勢がいいな、小僧」
ちょっと小柄な痩せた若い男。男というより子どもと言った方が近いくらいだ。
イチが優作を引っ張り起こす。多分いい男の部類に入るだろうと思われる顔から鼻血が垂れて結構な見てくれになっていた。カッとなりやすい優作、22歳。そこらのお姉ちゃんからよく声をかけられるが、こう見えて硬派。ただ頭がちょっと弱くて喧嘩っ早いのが欠点だ。
「鎌田、ちゃんとやってるか?」
「はい、そりゃもう。優作さんがこいつが騒ぎを起こしてるのを表で聞きつけてきてくれたんですが」
「逆に大騒ぎにしちまったってことか」
鎌田店長ははっきりとは答えられず、困ったように薄い頭を掻いた。
「悪かったな、何か壊したんなら弁償するから言ってくれ」
「とんでもないです!」
そこに問題の若いのが割って入った。
「ジジイ! 俺のこと無視して喋ってんじゃねぇよ!」
素早くイチがその間に立つ。鋭い音がしてみるみる若いのの頬が赤くなっていった。
「この辺で収めろ。お前も散々暴れたんだろ?」
「チクショウ! バカにしやがって! 俺は桜華組に世話になる……」
「なんだと?」
勝蔵の柔らかい目が細くなった。
「鎌田、またな。今週の上がりの分は要らねぇよ。迷惑料だ」
頭を下げる鎌田に背を向けて、勝蔵は若いのに顎をしゃくった。すぐにイチがその腕を捩じり上げて表に連れ出す。優作がその後に続いた。
「イチさん、俺に渡してくれよ」
「だめだ」
「どうすんだよ、そいつ」
「親父っさんが用があるらしい」
「マジかよー、こいつ連れ帰んの御免だからな」
「なら親父っさんにそう言え」
「クソっ! 放せ、放せよっ! ジジイ、何とか言え!」
イチの腕の捩じり上げ方はなかなかいい角度を保っていた。お蔭で若いのは暴れも出来ず毒づきながら歩いている。
近づいてくる高い塀。大きな屋敷。若いのが建物に呑まれたように大人しくなった。門を抜けて中の引き戸に近づく。
「優作、親父っさんに戸を開けろ」
痛そうに足を引きずりながらも勝蔵を追い越す時にはちゃんと頭を下げて引き戸の下を蹴ってからガラガラッと開けた。そこをスッと勝蔵が入って行く。
若いのが中に連れ込まれた。
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