カジの物語 -5

「梶野さん」

「はい」

「話は聞いてるのかい?」

「何も……アパートを引き払ったっていうのと、今日からここに住めって……」

「それだけ?」

「はい」

「まったく、あの唐変木! しょうがない、よく聞くんだよ。今日からここがあんたの住まい。田久保のところの社員を庇ってケガしたんだってね。借金があってウチの人が肩代わりした。あんたが一生懸命仕事してたっていうのも聞いているよ。治療費は全部会社が出すから当面のあんたの心配は生活費ってことだろ? ここにいればそれは心配ない。だから体をしっかり治しな。いいね?」

「……ありがとうございます、こんなによくしてもらって……でも、ゆっくりはしてらんないんです。働いて家族に楽をさせたい、金を作んなくっちゃなんないんです」

 奥方がにっこり笑う。笑顔がきれいだと思った。

「早苗ちゃんと勇太のことかい? あの子たちはここで面倒見てたんだよ。あんたが渡してたお金は、早苗ちゃんがほとんど返済に充ててくれたよ、あんたには内緒でね。だから借金はずい分減っている」

「ここで…… じゃ、今ここに!?」

「いないよ。あの子は実家に帰した」

「な、なんで」

「母親がね、倒れたんだよ。父親一人だけじゃやっていけないってんで行かせた。向こうに行けば食べるのにも住むのにも困らないって話だ。でもあんたを行かせるわけにはいかない。いや、行きたきゃ行けばいい、別に監禁するわけじゃ無し。けどそれは今のあんた達にいいとは思えないんだよ。とにかくまともに動けずに行けばまた早苗ちゃんが苦労するだけだ。そこを考えることだね。篤!」

「はい!」

 篤はすぐに顔を出した。

「部屋に連れてっておやり。今日はゆっくり休みな。2、3日よく考えてまた話そうじゃないか。あの人が早苗ちゃんから引き受けたんだ、引き受けたからにはウチの人間だと思っているよ。いいね?」


 連れて行かれた2階の部屋はきれいに片付いた6畳だった。使い慣れた冷蔵庫、テレビ、そういったものが全部そこにあった。

「取り敢えず適当に置いたんだけどさ、もし不便なら明日までに言ってくんないかな。動かすから」

「ここ、一人で使っていいのか?」

「今朝まで俺が使ってたんだ。だから構わないよ」

「お前は? どこで寝るんだ?」

「俺さ、明後日から上野の小料理屋で世話になることになったんだ。学校、まだ残ってんだけど向こうの板長が面倒見てやるって言ってくれて。だからもう部屋、要らないんだ」

「いなくなるのか……」

「少しは寂しい?」

「ずい分面倒見てもらったからな、ありがとう、世話になるばっかりで」

「じゃ、頼みがあるんだけど」

「なんだ? 俺に出来ることならやるよ」

「親父っさんのそばにいてくんないかな。春になったらここ、人がだいぶ減るんだ。みんな会社の内定とかもらえてここから独立すんだよ。板倉さんがここを仕切ってるんだけど、あの人外に出ることが多くってさ。できれば知った人にいてほしくって」

「俺は……」

「体、治ってからでいいんだ。ここってさ、誰も何かやれって言わないよ。自分からやんなけりゃ何もしないで済む。けどあんたならきっと放っちゃおかないだろ? だから、頼みます!」

 篤に頭を下げられ、それでも悩んだ。夜は眠れず悶々とする。

(早苗に……勇太に会いたい)


 篤の独立を祝う宴会にちょっと顔を出した。ごつい連中が顔をくしゃくしゃにして口々に『頑張れよ!』と声をかける。体格のいい、一際ごつい顔をしたのが近づいて来た。最初に出迎えてくれた男だ。

「あんた、梶野、だよな? カジって呼ばせてくれ、俺は石原だ、ガチって呼ばれてる。頭が硬いんだ、ほら触ってみろ」

 頭を突き出してくるから触ってみた。

「ほんとだ、硬い!」

「だろ? これで何人も頭割ったもんだ。いろいろ聞いてる。もし残るって決めたら親父っさんを頼むよ」

「石、ガチさんもどこかに就職ですか?」

「いや、俺は組の事務所に行く。ここは一気に人が減るんだ。そんなこと気にするような親父っさんじゃないし、女将さんじゃない。けど俺たちは心配でな。これ、内緒だぞ。お前らなんぞに心配されて堪るか! ってぶっ飛ばされちまうからな。さ、上に上がれ。まだ体が半端なんだ、宴会なんかにつき合うな」

 ここはいい所だと思う。最初の頃のように『やくざもん』という感覚は消え始めていた。けれど。


 篤がいなくなって翌々日の早朝。梶野は荷物を持って部屋を出た。静かに外に出て、というわけにはいかない、例の引き戸でガタガタっと音がした。

「いいよ、俺が締めとく」

 突然の板倉の声に跳び上がりそうになった。

「俺のこと、見張って」

「バカ言え。それほど暇じゃない。今日の朝の当番がたまたま俺だったってだけだ」

「当番?」

「掃除。庭と便所と風呂の。ついでに朝飯も作る。奥さんのとこに行くんだろ? 親父っさんがそう言ってたよ。近いうちにカジは出てくだろうって。金だけは働いてきっちり送れよ。額はいくらでもいい、でも背負ったもんはきれいさっぱり片を付けるんだ。じゃな」

 追い出されるように外に出され、引き戸がガタガタと閉まった。呆然としていたが、我に返ってそこで頭を下げた。早朝の空席が目立つ電車に乗る。早苗の実家まで2時間半。

 古びた家の前に立った。玄関を開けるのに長いこと逡巡した。引き返そうとした時に玄関が開く。驚いた顔の早苗としばらく見つめ合った。

「……元気そうで良かった」

 みるみる早苗の目から涙が零れた。しっかりとその体を抱き寄せる。

「悪かったな、辛い思いばっかりさせて。俺、自分のことばっかり考えてたよ。大事なものをいつの間にか忘れて…… 本当に悪かった。お母さんは? まだ病院か?」

「家に連れ帰ったの。寝たきりだけど、家に帰りたいって言うから」

「そうか……どこに行っても大変な思いをするな」

「自分の親だから……三途川さんは? 来ていいって言ってくれたの? 一緒に住めるの?」

「……俺さ、働く、あの人の世話になって。まだリハビリが必要ですぐには働けないけど。金を送るよ。で、貯金もしてお前たちを迎えに来る。時々会いにも来るからな。信じて待っててくれるか?」

「……うん。ごめんね、ケガしたのにそばにいられなかった」

「同じ頃だったって聞いた、お母さんが倒れたの。仕方ないよ。それに俺はこの通り元気だ。お前のお蔭で借金も減ってる。俺、頑張るよ! だから勇太を頼むな」


 戻った梶野に、誰も何も言わなかった。病院には通わされた。腕が動くようになると当番が回ってくるようになる。仕事は田久保社長の元で慣れない事務をやらせてもらった。ひたすら一生懸命に働いた。


 時は巡り……


 電話の向こうで早苗は泣いていた。

『ごめんね……こんなつもりじゃなかったの、ごめんね』

「いいんだ。その人、いい人なんだろ? 幸せにしてくれそうか?」

『うん……』

「勇太のこと、ちゃんと頼みたい。その人に会わせてくれないか?」

『え?』

「話し合ってくれていい。本当に頼みたいんだ。養育費も送る」

『そんなこと!』

「させてくれよ。じゃないと俺は勇太になにもしてやれない父親ってことになる。いいんだ、俺の自己満足でも。謝るんじゃなくってさ、『ありがとう』って言ってくんないかな。俺は謝んなきゃなんないことばっかりして来た。一度でいいよ。お前からその言葉を聞きたいんだ」

『ありが……とう…… 勇太に会いに来て。勇太にもちゃんとあんたのこと話すから』

「それは」

『岸田さんにもあんたに会ってほしいってちゃんと言うね。本当に……ありがとう』

(あの時終わってたんだ……俺が早苗が一生懸命働いた2万をパチンコですった時に。早苗。今度は幸せになってくれ。俺には出来なかった。済まん)


 梶野がこのまま組に入れてくれと言った時。親父っさんは首を縦に振らなかった。

「もっと考えろ。答えはゆっくり出すんだ。まだ早ぇよ」


 数年経って抗争が起きた。裏切った連中の先頭に立って殴り込んできたのは板倉だった。玄関の前で鬼の形相で立ったのがカジだった。



 ――「カジの物語」 完 ――

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