カジの物語 -4

 梶野の意識が戻った時、ちょうど誰もいなかった。ぽぉっと天井を眺めていた。やっと言葉が浮かぶ。

(ここはどこだ?)

 経過を覚えていない。とっくに台風は去り、空は晴れ上がっている。起き上がろうとしたが体が言うことを聞かなかった。

(なにがどうなってるんだ? あ、仕事……勇太……)

ようやくちゃんと頭が働き始める。

(ドジ、踏んだんだ…… どうしたらいいんだ、これじゃ働けない……)

現実を把握するにつれ、焦りが生まれ喉がカラカラになっていく。

(寝てる場合じゃないんだ)

なんとしてでも起きようとしているところに看護師が入って来た。

「梶野さん! 何してるんですか!」

 なんとか動かすことが出来た右手で体を起こそうともがいていた。力が入らず、女性の看護師にさえ押さえつけられてしまった。

「仕事、行かなくちゃならないんです、帰らせてください」

「何言ってるんです! 2日間意識が無かったんですよ? 肩は手術して固定していますが、当分動くなんてとんでもないです。先生に連絡しますね。動かないで待っていてください」

(手術? ここ……一人部屋だ。金……)

 ベッドの上でただ茫然としていた。


 医師から現状の説明を受けた。肩が潰れていること。幸い頭部には損傷が無いこと。復帰まで2ヶ月はかかること。

「2ヶ月、ですか……」

「リハビリもしなくてはね。2ヶ月経ったからと言ってすぐに現場復帰は無理ですよ」

「先生、俺金無いんです。手術代も入院費もどうやって払えばいいか」

「労災の扱いになってますよ。会社側で面倒を見るって昨日社長さんが言っていました。だから心配要らないと思いますよ」

 少しほっとした。これで借金でも作ることになったら元も子もなくなる。

「あの、誰か見舞いに来たでしょうか」

 もしかしたら早苗と勇太がきたかもしれない。

「私には分からないですね。後で看護師にでも聞いてください。とにかく焦らずにしっかり治していきましょう。退院を考えるのはまだ先ですからね」

(早苗、勇太……済まん。こんなことになってどうしたらいいんだ……)


 次の日、面会に来たのは組長だった。

「少しは良さそうだな。ひとまず良かった。内臓はどうってことないんだから、果物を持って来たよ。頼んでおくから許可が出たら食わせてもらえ」

「あの、永井さんは?」

「無事だよ、お前のお蔭でな。ありがとうよ、この通りだ」

 組長が深々と頭を下げた。

「良かった…… でもどうしたらいいか…… 俺、働けなくなっちまって」

「しょうがねぇ、これは事故だ。それも人さまを助けようとしての事故だからな」

「でも! 何ヶ月も仕事休むなんて出来ないです!」

「おい、まだ静かにしてろ、その体で何ができる? 今はそんなことを考なくていい。借金の返済もしばらく待ってやる」

「ほんと、ですか?」

 声が震えた。それが一番気がかりだった。早苗に迷惑をかけたくない。早苗に水商売をさせることになるのかと、心配で堪らなかった。

「俺ぁ、嘘は言わねぇよ」

「組長さん……」

 その時、肝心なことが梶野の頭に浮かぶ。

「でも、俺は働き始めていくらも経っちゃいない……やっぱり稼がなきゃなんないです、どうやっても。家賃だって生活費だってある、ぼぉっとしてるわけには…… 俺、真面目にやってきたいんです、勇太の保育園代だってきっと早苗は苦労してるはずなんだ、だから!」

 そこまで言って腕組みをした組長が優しい目で自分を見ているのに気がついた。

「お前、本当に変わったな。働けねぇもんはしょうがねぇよ。人間、頑張ったってやれねぇもんがある。そしてやれることもな。今はお前の仕事は体を治すことだ。それだけ考えとけ。いいな?」


 それからは田久保社長、永井、会社の人たち、板倉や篤が入れ替わり立ち代わり見舞いに来るようになった。篤と言うのは、板前になると言った若いのだ。

 永井は申し訳ないと何度も頭を下げた。

「ありがとう、梶野。お前がいなかったらどうなっていたことか…… 俺が現場に行ったことも誰も気づかなかったろうし。本当はそこに寝てるのは俺のはずだった……いや、きっと助からなかっただろう。済まん、俺のせいで」

「永井さん、なるようになったっていうことです。仕方ないです。誰のせいってわけでもないんだ。そう思いたいです。だから言わないでください」


 早苗が来ないこと寂しかった。けれど板倉にも聞くに聞けない。

(まだ許してくれないってことか……苦労、させたからな。待ってろ、必ずお前たちに楽させてやるから)

 そのためには体を治さなくちゃならない。ちゃんと食べてしっかり歩けるようにもなっていく。

 そして退院の日を迎えた。


「俺、あんたの運転手ばっかりやってるような気がする」

 篤が苦笑交じりに言う。

「悪いな、ホントに」

「別にイヤで言ってんじゃないよ。そう言えばさ、免許とか持ってんの?」

「いや、持ってない。そんな余裕無かったし」

「ふぅん」

 連れて行かれたのは大きな家だった。

「篤、ここって?」

「親父っさんのとこ。ここに連れて来いって言われたから。ガラの悪そうなのもいるけど、みんな気のいい人たちだから怖がんなくてもいいよ」

 初めて見るその家には威圧感はなかった。組長の家と聞けばもっといかついイメージがあったが、昭和の家という印象だ。ただ堅固な壁が普通の家とは違って見えた。

 門を抜けて玄関の引き戸を開ける時に篤が下の方を蹴る。

「これ、その内覚えて。こうしなきゃ開かないから」

(覚えてって、今日は挨拶に来たんじゃないのか?)

梶野はそう思っていた。入院中、良くしてもらった礼を言いたかったからそれ以外のことを考えていない。


 入った途端に声をかけられた。篤が言った通り、がらの悪そうな男だ。

「お前が梶野か。親父っさんがお待ちだ。来い」

 ドスの利いた声とはこのことだと思う。返事も出来ずに後ろをついて行った。

(すげぇ……)

 廊下の両脇の部屋を見る。とにかく広い。圧倒されるような部屋が広がる。そして隅々まで掃除が行き届いていた。

 通された部屋には組長が座っていた。

「来たか。まぁ、座れ」

 座布団があったがそれには座らず頭を下げた。

「入院中は世話になりました。ありがとうございました。帰ったら一日も早く仕事ができるように頑張ってリハビリします」

「そのことだがな」

「はい」

「アパートは引き払った。誰も住まねぇ空き家に家賃払うのももったいねぇ」

 何を言われているのか分からない。

(帰るところが……無い?)

「あんまりです! あそこ追い出されたらどこに住めばいいんですか! そりゃ働きが無いから文句言う立場じゃないだろうけど」

「落ち着け。お前の住むとこならある。ここだ。後で部屋に案内させる。まだ肩もまともじゃない。自分の世話さえままらなねぇだろ? おい! 千津子!」

「はいよ」

 奥から貫禄のある女性が出てきた。小柄なのにやたら迫力があって『やくざの女房』その表現がぴったりだ。

「俺の女房の千津子だ。後のことはこいつに任せてある。俺は出かけなきゃならないんでな。千津子、こいつが梶野だ。後は頼む」

 事の成り行きに頭が追いつかない梶野はおっかなそうな奥方の前に一人取り残された。

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