カジの物語 -3
もう半年経った。梶野は変わった。社員は16人だ。自分より若いのは2人だけ。後はみんな年上で、ほとんどが職人気質で気難しい。とっつくのは大変で、中々馴染みにくかった。けれど元来、梶野は真面目だ。休むことも無く、どんな天気でも事務所に行く。残業にも嫌な顔一つしない。むしろ給料が増えて有難い。
「今日は台風だぞ。なんで来た?」
「永井さんだって来てるじゃないですか」
「……違いねぇ」
永井が笑った。顔を見ると『お茶!』としか言わなかった58のとっつぁんだ。小柄でも建設業にいるだけあってがっしりとしている。
「お前、真面目だな」
外は叩きつけるような雨に風が加わったようだ。
「それしか取り柄無いですから」
「大事なこったよ。家族持ちか?」
「なんですけど」
「なんだよ、歯切れ悪いな」
「子どもは1人です。ついこの間まで3人でいました。でも……俺がいい加減なことしてたから愛想尽かされて……また一緒に暮らすために俺は頑張るつもりなんです」
「そうか。お互いいろいろあるな。今度酒でも飲もうや」
初めての言葉が梶野は嬉しかった。
「俺んとこは息子2人いるんだがな、難しい仕事やってるよ。俺にはさっぱりだ。上のヤツは結婚していいとこに住んでいる。下のは会社の寮にいて滅多に帰ってこない。だから独りもんみたいなもんだ」
「奥さんは?」
「倒れてな、病院よりマシかって施設に入れたよ。いい年して、行けば折り紙だの塗り絵だの一緒にやっている」
言いながら永井はカッパを着始める。
「どこに行くんですか?」
「昨日、野田邸を覗いた時にちょっと気になったとこがあってな、こっから近いし見てくる」
「俺も行きますよ、一人じゃ危ないです」
「慣れてるよ」
「支度します、待っててください!」
一緒に野田邸に向かった。新築の二階建て。まだ外側にはホロがかけられている。土砂降りの中、永井は基礎の中に潜り込んだ。気が気じゃないほど長いこと中に入っている。
「永井さん! 大丈夫ですか!?」
やっと出てきた永井は大丈夫だと手を振った。
「大丈夫だった。どうも若いのがやった後ってのは気になって仕方ねぇ」
突風が吹いたのはその時だ。しっかり組まれていたはずの足場が崩れてきた。
「永井さんっ!」
永井はとっさに頭を庇った。それが突き飛ばされて水溜りに顔から突っ込む。頭を振って、手で顔の泥を拭った。ハッとして振り返った。
「梶野っ!」
木材の下に手が見えていた。
救急車が来てすぐに病院に運ばれた。連絡をもらった田久保社長がすっ飛んで来た。
「永井さん、あんた、怪我は!?」
「俺は掠り傷だ。だが梶野が……意識が戻らねぇ」
落ちてきた木材が頭部に当たっていた。潰れた肩の手術は済んでいる。
「あいつ……俺を庇って。家族もいねぇんだろ? どうしたらいいんだか」
「三途の親父っさんに知らせてある。もうすぐ来るよ、家族連れて」
気がつけば梶野が喜ぶだろう、そう永井は思った。
板倉が入って来た。後ろに勇太を抱いた早苗がいる。
「奥さんですか?」
「はい」
「こっちです、あいつ俺を庇って木材の下敷きになったんです」
「私は社長の田久保と言います。これ、全部労災の扱いになります。だからそっちは心配しないでください」
病室は個室だ。呼吸器が取りつけられた勇吉の姿に早苗がよろけた。板倉がそれを後ろから支える。永井がすぐに椅子を持って来た。
「この天気の中、出勤したんですよ、こいつ。真面目によく働くヤツです。俺につき合って現場を見に行ったばかりに申し訳ないことを」
「……別れるんです、私たち。だから今日来たこと、黙っていてほしいんです」
「奥さん! 何があったか、詳しくは聞いてませんがこいつ、後悔してましたよ。また一緒に暮らすために頑張るんだって言ってました。考え直せなんて言わねぇが、良くなるまでそばにいてもらえませんか」
永井は頭を下げた。
「それは……無理です。疲れたんです、ホントに。ずっとサラ金だの何だの督促に追われて。三途川さんに助けられて『絶対に立ち直るから待っててやれ』って言われました。でも……実家に帰るって決めたんです。明後日東京を出ます。そのこと、伝える気もありませんでした。落ち着いたら離婚届を郵送するつもりでした」
板倉を振り返った。
「ありがとうございます。ここまで連れてきてくださって。もう帰ります」
「親父っさんが来るまで待った方がいいですよ。そんなの焦って決めなくたって」
「板倉さん、三途川さんには本当に良くしていただきました。東京を出る前にご挨拶に伺います」
「せめて意識が戻るまで」
そう言う田久保に頭を下げ、永井にも頭を下げた。
「申し訳ないと思っています。落ち着いたら……手紙を書きます」
廊下に出てしまった早苗の後を板倉が追う。
「……ろくでなしだったら俺なんか助けねぇよ」
ぽつんと永井が言う。
「俺のせがれなんかよりずっとマシじゃねぇか。この状態で捨ててくなんて」
「夫婦のことは他人には分からんよ。そういうもんだろ?」
「そうだが」
「後は三途の親父っさんに任せるしかないよ」
永井には『頑張る』と言った梶野が不憫に思えた。
板倉は病院の入り口手前で早苗を捉まえた。
「奥さん、なんであんなことを? 親父っさんから聞いてる。梶野さんのこと、ずっと見守っていくって言ったんだろ? 奥さんも少しずつ働いて借金がある程度返せたらまた親子一緒にって」
「……申し訳なく思ってます、もし何か必要なら」
「そういうこと言ってんじゃないよ! 梶野さん、頑張ってたよ。財布ん中にあんたたちの小さい写真が入ってて見せてくれたよ。『勇太が声、忘れない内に早く一緒に住まないと』ってな。こう言っちゃなんだが、ここで見捨てるくらいなら最初っから愛想尽かして出てっちまえば良かったじゃないか。あんたが頼んだんだろ? もし出来るならチャンスが欲しいって。だから親父っさんは手を貸したんだ」
早苗は眠っている勇太を胸に、俯いてぽとぽとっと涙を落した。
「実家の……母が先週倒れて。父が面倒見てるけどもう一人じゃ無理だって夕べ電話があって……」
板倉は黙って聞いた。その先はもう分かった。
(仕方ねぇってことか……)
「私が行かないと。今度は父さんが倒れちゃう。母さんが持ち直しても持ち直さなくても、私、実家に帰るしかないんです」
「親父っさんにはその話したのか?」
「いえ……夕べのことなので頭がまとまらなくて。そしたらあの人が……」
「座んな。もうじき親父っさんが来る。病室に行かなくっていいからここで待つんだ」
促されて早苗は座った。
10分ちょっとして親父っさんが入って来た。そばについているのは、組のもん一人だ。
「親父っさん、連れてんの一人だけですか!?」
「外の天気考えろ、そんなにぞろぞろ連れて歩けるか。ましてここは病院だ。それよりあいつはどうだ?」
「まだ意識が戻らなくて」
「そうか……」
早苗が立ってきて深く頭を下げた。
「目が開いてないんじゃせっかくのあんたの顔を見ることも出来ないな。あいつもよくよく運の無いヤツだ。今日はすぐそこのホテルを取ってやる」
「それが、実家に戻るってさっき聞いて」
板倉の言葉で親父っさんの顔から表情が消えた。
「いやっ、聞いてやってください、引き換えになんない事情ってのがあります」
じろっと見てくる親父っさんに板倉はもう一度頭を下げた。
「お願いします」
親父っさんは早苗に奥の椅子へと顎をしゃくった。窓側のそこは周りにほとんど人がいない。ガラスには雨が叩きつけるように降り注いでいる。早苗はぽつぽつとさっきの話をした。
「そうかい……そりゃ天秤にかけらんねぇな。親と梶野と。あんたも苦しい決断になる。どっちを選ぶのが正解か誰にも分かんねぇこった。思う通りにしな。あんたが帰るならこっちは俺に任せておけ。様子は知らせてやる。ただ、離婚はだめだ」
早苗が顔を上げた。
「それは二人で話し合ってからだ。梶野は頑張って必ず戻って来る。それから二人で決めろ」
「……はい」
「これは言わねぇ約束だったが。毎月、梶野から金を預かっている」
「お金? 返済のため、ですよね?」
「いや。あいつは働き惜しみをしねぇ。早出だ残業だと、手取りで23は稼いでいる。家賃が4万。食費やらなんやらで6万。残り約12万でそのうちあいつが決めた返済額は6万だ。で、毎月あんたに4万が手元に行っているな」
「はい」
「そして、勇太にと2万ずつ預かっている」
「え?」
「先々子どもは物入りになる。そのためにあいつは金貯めてるんだ。だが自分で持っているのが不安だと、通帳を俺に預けてるってわけだ。まだ給料は6回しか出てねぇから12万しか貯まっちゃいねぇがな」
「それじゃ……あの人の手元にはいくらも残らない……」
「楽しみなんだと。金が貯まっていくのが。10万越した時に言ってたよ。『勇太にしてやれることが出来たから働くのが楽しくてしょうがない』ってな。だから今は何も決めるな。俺との約束だ」
「はい……はい……」
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