カジの物語 -2

「立てよ」

 さっきのスーツの男に言われて座り込んだ。

「親父っさんの一発は効くだろう?」

 笑って手を伸ばしてくる。その手に摑まった。

「これがここの鍵だ。失くすなよ。お前んとこに連れてってやるから車に乗れ」

 返事もせず助手席に座った。

「良かったじゃねぇか、やり直せるんだ。ああ見えて親父っさんは面倒見がいい。だからこそ、お前の負うべき借金を全部肩代わりしてくれたんだ。精いっぱい働いてりゃ道も開ける」

「……ヤクザの手先になんかなって堪るか」

 男はハンドルを回しながら笑い始めた。

「何がおかしいんだよっ!」

「お前みたいな半端もんを組に入れる? お前が働くのは別のところだ」

「何をさせるんだよ……ヤクの運び屋とか……」

「テレビの見過ぎじゃねぇのか? 親父っさんはヤクは嫌いでな。そんなもんに手を出さねぇよ」

「じゃ、俺はどこで働かされるんだ?」

「俺は知らねぇな。明日は休みだろ? なら明後日から仕事ってことだ。明日お前を迎えに来るのはもっと若いもんだ。そいつはお前の事情ってのを知らねぇから何聞いても無駄だ」


 家に入ると恐ろしく広く感じた。家電がきれいさっぱりと消えている。残っているのはタンス、布団、幅60センチの小さな食器棚。食器棚は古いから売れなかったのだろう。

「これだけか……」

 明日からどうなるのか分からない。早苗とも話せず、勇太をもう一度抱くことも無いまま真っ暗な道に踏み出す。

 夜は9月の中頃だと言うのに、布団をかけてガタガタ震えて包まった。そのまま一睡もせず朝を迎えた。


 軽トラの荷台には半分もスペースがあった。

(スカスカだな……)

 そのスペースが自分の不甲斐なさを表しているような気がした。若い男はあまり喋ることも無く駅の近くで車を止めた。

「あそこ。印鑑持ってきてる?」

「ああ」

「あんまり待たせないでね」

 あの組長に言われた通りに動いている自分に嫌気がさしていた。手元には7万ある。

(このまま逃げるか……)

 自分がしないに決まっていることを思ってみた。その先にあるのは、息子との別れだ。早苗との終わりだ。足は止まらず信用金庫の中に入った。

「混んでなかったみたいだね」

「ああ」

 助手席に座った愛想の無い自分に内心笑う。これからの生活が見えないままだ。なのに、ただ働くためにだけあのアパートに向かうのだ。きっと休みもなく一日重労働なのだろうと思う。

 荷を部屋に入れると若い男はあっという間に出て行った。簡単に片づけて真新しい畳に寝転がった。カーテンのかかっていない窓から陽射しが差し込む。

立て続けに起きた自分の環境の変化に疲れが出て、そのうち眠ってしまった。


 ノックというより荒々しくドアを叩く音で梶野は起きた。

「はい」

「やっと起きたか。開けろ」

 あの組長の声かと、心で毒づきながら開ける。

「片付いたな」

 組長は中を見回してそこにどっかりと胡坐をかいた。

「そうか、茶も無いんだった」

(お茶入れろってことか? 勝手なこと言いやがって)

 目の前に幾つかのものが放り出された。

「そこで明日から働くんだ。今日、夕方社長んとこに挨拶に行くぞ」

 小さな冊子と書類。社員証。

「その社員証は仮だ。写真を持って行けば正式なものが出来る。早めに撮った方がいい。保険証は出来上がり次第渡される」

「保険証?」

「知らねぇのか?」

「いや、あれはアルバイトや日雇いじゃ出ないよ」

「ヤクザだってそれくらい知ってる。その書類には雇用条件が書いてあるからよく読んどけ」

 慌てて目を通した。

――正社員

(え? 正社員?)

 田久保建設株式会社。初任給205,000円。賞与2回計3ヶ月分。社保完備。

「あの、面接とか」

「要らねぇよ。お前、前の職場ではこつこつと真面目に働いていたな。荷が崩れたのは運が無かったと思っとけ。終わったことを引き摺るんじゃねぇぞ。今度はまともな会社だ、社長は俺の懇意だしな。よく働けば認められる。お前が変わったと感じたら女房と子どもをここに連れてきてやる。頑張れるか?」

 涙が落ちて書類が濡れた。

「どうして、ここまでしてくれるんですか?」

「ちょいと気になったからな。それだけだ」

「それだけ? それだけでここまでしたって……ヤクザなのに」

「何をしようが俺の勝手だ。いい若いもんがくすぶってるのは好かねぇ。それだけだ」

 組長は立ち上がった。

「後で迎えを寄越す。社長にちゃんと挨拶しろよ。借金の返済額と日付は自分で決めろ。その代わり毎月同じ日に同じ額だ。自分で決めたことは守れ」


 組長が出て行った後、再度書類を見た。

(正社員……賞与。正社員だ!)

 探しても探しても見つからなかった仕事。休みは土日祝日、8時半から5時半まで。今はあの組長がただのヤクザには思えない。

(きっと早苗も勇太も無事だ。……別れたい、早苗はそう言ったのか……)

 なら、今の自分に出来ることは一つだ。しっかり働いて早苗の作った借金を全部返そう。そのためには例え面白い職場でないとしても文句は言わないつもりだ。


 社長の名前は田久保英二。

(初めまして、梶野勇吉です。お世話になります。一生懸命働きます……)

昼間の若い男が迎えに来た車の中で挨拶の言葉を何度も繰り返した。これはやり直しだ。与えられたチャンスだ。どうしてもものにしたい。

「ねぇ、道覚えた?」

「道……悪い、見てなかった」

「送り迎えするわけじゃないんだからさ、覚えてくんないと。アパートの駐輪場にチャリが届いてたよ。それで通えって親父っさんがあんたに言っとけって。しょうがねぇな、帰りには道、覚えろよ」

「分かった」

「……やる気になったの? やけに素直じゃん」

 どう見ても年下だが腹は立たなかった。それより知りたいことがある。

「親父っさん、そう呼んでいるのか? 組長のこと」

「みんなそう呼んでるよ。変わってんだろ、あの人」

「どうしてこんなことしてくれるのか知ってるか?」

「さあね。けど俺も拾われたんだ、親父っさんに。高校2年の時にさ、親父に半殺しの目に遭ったんだよ。その最中に誰だか入ってきて親父を叩きのめしたんだ。それが親父っさんのとこの板倉さん」

「板倉……」

「あんたを古い方のアパートに送った人」

「あの人か」

「それで板倉さんが連れてってくれたのが親父っさんの家だった。デカい家でさ、今そこに住み込んでるんだ」

「ヤクザになるのか?」

「学校に行かせてもらってるよ。専門学校。俺、板前になるんだ」

「金は? 貯金とかあったのか?」

「親父っさんのとこで下働きしてるんだ。掃除したり食事作ったり。神社の掃除とかもしに行くんだぜ。それでもらう給料で調理学校に通ってる」

 不思議な話だ。まるで慈善活動のような。

「で、俺みたいにせがれをまっとうにしてもらったからって、親父っさんに恩返ししてんのが田久保さん。どうしようもない息子だったって言ってたよ。その息子を親父っさんが家に預かったんだ。1年したら真面目になってさ、今じゃ自分の親父と仲良く仕事してるよ」

(そういう風に人脈を広げてんのか……凄い話だ)

 自分は助けられているのだと、梶野はようやくそれを受け入れた。


 田久保社長は厳しそうな人に見えた。

「梶野勇吉です。これからお世話になります。履歴書とか書いてきてないんですが」

「ウチに書式があるからそれに書き込んでくれればいい。後で事務員が渡すよ。写真はまだだな?」

「はい」

「今日帰りにでも撮れるか?」

「はい」

「保険証や雇用保険の紙なんかは後日渡すことになる。今、国保に入ってるか?」

「いえ、手続きしなかったんで」

「健康で良かったな。でも家族は困っただろう?」

 言われて初めてそれを考えた。

(具合悪くて病院に行かなかったって……保険証が無かったからか? 確かに俺は禄でもない男だ)

「俺、真面目に働きます。頑張ります」

 初めて田久保社長が僅かに笑った。その笑い方を見ると、きっとそういう表情が乏しいだけなのだと分かった。

「真面目なヤツだって三途川さんが言ってたから信用してるよ。あの人が言うなら確かだからな」

 梶野は頭を下げた。

「よろしくお願いします!」

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