第2話 カジの物語 -1

「梶野! 明日はどうする?」

「ああ? ……8時から並ぶ。今日はダメだ」

「俺はずい分稼いだ。ラーメン奢ってやるよ」

 鈴木がパチンコの両替をするのを待って一緒に歩き出す。

「今日はついてたな! 座って1,000円で出たもんな。お前、幾らすったんだよ」

「2万。ここんとこついてねぇよ」

 梶野と呼ばれた男が面白くなさそうに言う。

「カミさん、何も言わないのか?」

「言われる前に家を出るからな」

 鈴木は茶目っ気たっぷりに梶野の顔を覗き込む。

「可哀そうにな、パートで必死に働いてんだろ? お前も少しは仕事すりゃいいのに。俺でさえやってるぜ。週に3日だけど」


 梶野勇吉、25歳。去年の夏まで通販会社に出荷する組み立て家具をトラックに積み込む作業をしていた。それほど給料は高くなかったが、れっきとした正社員。2つ下の妻早苗と生まれて1歳の男の子、勇太。それなりに幸せに暮らしていた。去年の夏のボーナスで、映りの悪いテレビを買い替えるつもりだった。

 荷がトラックに載る前に崩れたのは梶野のせいじゃなかった。いくつもの品を一まとめに結束していたバンドが緩んでいたのだ。会社はボーナスも退職金も無しで梶野を放り出した。

 結束機がイカレていたのが分かったのは梶野が会社を辞めてから1ヶ月後。会社はそれを隠した。


 妻と子どものために、必死に仕事を探した。けれど高校中退の現場仕事しか知らない梶野に、まともな仕事は見つからない。短期の工事現場やガードマン、ピザの宅配。次々に仕事を渡り歩いているうちにどんどん正社員への道は遠ざかる。

 妻はパートに出たが、給料から保育園の料金を引けば3分の2も手元に残らない。

 少しずつ梶野の友人の質が落ち始める。競馬、パチンコ。そんなところで過ごす時間が増えていく。

 妻の危惧を余所に、始めの頃は勝ち続けた。ビギナーズラックみたいなものだ。後の保証も無いのに、新しいテレビ、掃除機、冷蔵庫と古ぼけた家電を買い替えていく。だが喜ぶはずの早苗の顔が暗いままだから、徐々に家にいる時間が減り始めた。

 そしてビギナーズラックは過去のものになった。


「おい、金」

「無いよ、そんなの」

「お前、昨日給料日だったろ」

「保育園代とか家賃とか。消えちゃうよ、あんなもん。どうすんの? 家賃、もう4ヶ月溜ってるし今月はガス代を2ヶ月分払わないと止められちゃうんだよ?」

「うるせぇな! 1万寄越せ、稼いでくるから」

「1万あったらガス代が払えるよ!」

 そして給料から2万を取った。

「稼ぎゃいいんだろ、一発当てればすぐに取り戻すさ」

 そして財布を空にして公園のベンチでふて寝した。


 翌朝家に戻ると見たことも無いおっさんがいて、早苗も勇太もいなかった。

「お前、誰だよ」

「お前が梶野勇吉だな」

 そんなに大きくない体に溢れる貫禄が、おっさんを大きく見せる。

「だからなんだってんだ」

「お前の女房、借金をこさえてな。あまり質の良くないサラ金から。で、その債権を俺が買い取った」

「なんの……ことだ?」

「なんのこと? お前さん、男が働かずにどうやって女房が子どもを育ててると思ってるんだ?」

「パートの給料でなんとかやってるって聞いてた」

 おっさんの目には侮蔑が現れている。なぜかその目をまともに見られない。

「俺が時々飲みに行く居酒屋でお前さんの女房は夜7時から2、3時間皿洗いをしていた。そこの主人はお人好しでな、子どもを奥の部屋に寝かせてもらって働いてたわけだ。けどここんとこ顔色がひどく悪かった。一昨日倒れそうになったがお前さん、それを知ってたかい?」

 一瞬目を伏せる。昨日金を寄越せと言った時の早苗の顔色は確かに悪かった。帰ってくるのは遅い。だからそんな仕事をしているのを知らなかった。まして、借金など。

「だから訳を聞いた。ガスも水道も電気も家賃も支払いが遅れている。保育園代も今月は払えるかどうか分からない。借りた借金の催促も酷い。だから俺がその債権を買い取った」

 債権を買い取る……目の前の男が薄気味悪く見えてくる。

「早苗はどうしたんだよっ! 勇太も!」

「お前さんにそれを聞く資格はねぇな。どうせ放ったらかしだったじゃねぇか、何を今さら」

 鼻で笑われてカッとなる。殴りかかろうとするのをいつの間にか後ろにいた男に羽交い絞めにされた。

「チクショウ! 放せっ、放せっ!」

 大音声が響き渡る。

「ぐだぐだ言うんじゃねぇっ! 女房は子どもを連れて他で働かせている。自分と子どもの食い扶持だけ働きゃいいって言ってある。だが、借金は残ってるし、溜めた家賃、光熱費、保育園代。そりゃ残ったまんまだ。どうする?」

「どうするって……それより、早苗をどこにやったんだ! 水商売か!?」

「バカヤローっ!!」

 立って来たおっさんの拳が頬にめり込んだ。歯がぐらついたのが分かる。

「どうしようもねぇヤツだな。いいか、お前に仕事を紹介してやる。そこで借金を返すために働け。きっちり返し終わったら女房をお前んとこに返してやる」

「警察に届けるぞ!」

「ああ、やってみろ。お前は一生貧乏の沼で這いずり回ることになる。俺はチャンスをやろうってんだ、人生をやり直すためのな。それが要らねぇってんなら俺は構わねぇぞ。女房は自分の名前で金を借りたんだ。お前が稼がねぇってんなら、それこそ女房に体で稼いでもらわなきゃな」

 途端に早苗の泣きそうな顔が目に浮かんだ。

「あんた、誰なんだよ」

「俺か? 俺ぁ、三途川勝蔵ってんだ、三途川組の組長をやっている」

 やくざと聞いて、梶野は目の前が真っ暗になった。


 梶野は組長の車で小さなアパートに連れて行かれた。6畳一間だ。小さな台所。トイレ、風呂は共同になっていて無い。天井にはそんなに古ぼけていない蛍光灯が取りつけられている。外観は古かったが、意外と中はきれいだ。

「明日からここに住め」

「あのアパートは? 荷物だってあるし」

「最小限のものだけ持って引き払え。明日一んちだけ休みをやる。車は若いもんが軽トラで昼一時に迎えに行く。それまでに荷物をまとめておけ。電化製品は結構新しいからな、全部売っ払う」

「なんの権利があって!」

「ここの敷金、出せるか? それも借金に上乗せするか?」

 梶野は返事が出来ない。

「ここの家賃は4万だ。扇風機とストーブは家電を売っ払った金から買ってやる。冷蔵庫は一番小さいのだ。一人だからそれで充分だろ。風呂は銭湯にでも行け。借金も溜まってた滞納金も全部俺が片付けた。だから働いて俺に返せ」

 自分で決めたことじゃない。納得が行くわけが無い。

「早苗と会せてくれ、話してから決める」

「よくよく甘ったれてるな、お前は。こうなったのは誰のせいだ? てめぇのケツはてめぇで拭け。女房は別れたいって言ってるが俺はそれを止めてある。亭主にもチャンスをやれってな。離れて互いを考えるのにも持ってこいだろ? 逃げるなら逃げろ。なら女房に夜働かせるだけだ」

「チクショウっ! 会ったことも無かったお前の言うことなんか誰が聞くか! 早苗が別れるって言うはずが無い、勇太だっているんだ!」

 何を言っても組長には堪えていない。

 改めて目の前の男を見た。年は50手前か。体つきは梶野より一回り小さく見える。だが発する貫禄が桁外れ。ビリビリとした空気が伝わってくるようだ。殴られたのを考えればかなりの腕力があり、しかもケンカ慣れしている。打ち込んできた拳は見えなかった。ヤクザの組長だから当たり前なのかもしれないが、とうてい自分では勝てそうになかった。

 真っ直ぐ自分に向かう大きなきつい目から目を離せない。太い眉、鼻はちょっと潰れ加減。引き締まった口から出る声は、良く響く重い声。だが……魅力的だ、男から見ても。いい男というのとは違う。引き寄せられる何かがそこにあった。

 一瞬頭をよぎったものがある。

「あんた……まさか早苗と」

 言い終わらない内にまたぶん殴られていた。口の中に鉄の味が広がる。

「てめぇみたいな亭主を持って女房も救われねぇな。下衆の勘繰りってヤツだ、それは。会いたかったら働け。嫌なら逃げろ。俺はどっちでも構わねぇ。お前が決めるんだ」

 殴られて倒れている梶野の頭の脇を通って部屋のドアを開けた。

「おい! 送ってやれ。あっちは片付いたのか?」

「はい」

「幾らになった?」

「ほとんど新品でしたからね、22です」

「ずい分出したな」

「親父っさんの名前を出しましたから」

「そうか。寄こせ」

 ビシッとスーツを着た若い男が組長に茶封筒を渡す。

「お前んとこの家電を売った金だ。ここの敷金が4万。お前の支度金に5万。扇風機とストーブに1万。残るのは12万だ。この内10万を女房に渡す。そして最後に残った2万。明日軽トラでここに来る途中で駅に寄らせる。その近くに上山信用金庫ってのがあるからそこで通帳を作れ。2万そっくり入れるんだ。後は好きにしろ」

 組長は外に出て迎えに来ていたピカピカの黒塗りの高級車でアパートを後にした。

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