イチの物語 -6
一郎、27歳。お嬢27歳。この頃には事務所でも組長と若頭以外には頭を下げられるようになっていた。目端が利いて状況を掴むのが早い一郎は、親父っさんに重宝されている。
ある日、また父娘の言い合いが始まった。
「飽きねぇなぁ」
カジののほほんとした声。あれ以来、二人の喧嘩は口だけになっている。せいぜいお嬢がその辺にある物を蹴り飛ばしたりするくらいだ。
「今度はなんだ?」
一郎も口喧嘩にまでは入り込まず、今ではすっかり傍観者だ。
「親父っさんが会社辞めろって言い始めたんだ。いい加減大人しく花嫁修業でもしろってな」
「お嬢にか? 無理だろう!」
「親父っさんとしては登山なんかするお嬢が危なっかしくてしょうがないんだよ」
この喧嘩は長引いて、親父っさんの厳命で交代でお嬢を見張ることになった。要するに実力行使で会社を辞めさせる気になったのだ。
女将さんはこの件に口を出さなかった。お嬢は若いもんを騙したり、恫喝したりと手を変え品を変え凄んだが、さすがにみんなは親父っさんの命令に逆らうことはできない。
「ごめんください!」
それはお嬢が会社を休んで5日目の金曜の朝だった。時間は7時前。
「はい! お待ちを!」
一郎がすぐに玄関を開けた。背の高いやけに存在感のあるスーツ男がそこにいる。
「河野蓮司と申します。お嬢さんのありささんに用があって来ました」
内ポケットから出した名刺を受け取った。お嬢の行っている会社だ。
「ありささんの直属の上司です。取次ぎをお願いします」
(やけに落ち着いてる。ヤクザもんの家だって知らねぇのか?)
会社の人間ならお嬢に取り次ぐわけには行かないだろうと思った。奥に入って親父っさんに名刺を渡した。
「こういう人が玄関に訪ねてきてます。お嬢の上司の方だそうです。こっちに上がってもらいますか?」
「俺が行く」
それが河野蓮司と親父っさんの初めての対面だった。
「河野さんですね? 父親の三途川勝蔵と言います」
「上司の河野です」
「ずい分……若いね、あんた。ありさは会社を辞めることになった。悪いが帰ってくれ」
「本人の意向ですか?」
「そうだ。もうこれっきり会社には行かねぇと言っている」
「彼女はそんな中途半端なことをする人間じゃありません。会わせてください」
「そうはいかねぇな。親がこう言ってるんだ、大人しく帰ってもらおうか」
「そうですか。ちょっと失礼します」
親父っさんのドスの効いた声にびくともしないのに驚いた。
(堅気、だよな?)
何を失礼するのかと思っていると、河野は大きく息を吸い込んだ。
「三途! 俺だ、河野だ! お前、退職するって本当か!?」
凛とした大声に若いのが度肝を抜かれている。その声にはなんの躊躇いも遠慮も無い。
「課長! 私、辞めませんからねっ!!」
部屋から出さないようにとの親父っさん命令でカジがお嬢の部屋の前で頑張っているが、パシーン! という音が聞こえた。
(あ、カジさん、引っ叩かれたな)
そしてドスン! という音。
(ああ、突き飛ばされた)
そしてお嬢が姿を現した。
「奥へ引っ込んでろ!」
「父さんにそんな権利無いっ!」
「うるせぇ、俺が決めたんだっ!」
そこに低い声が割って入った。
「三途川さん。私に部下を返していただきたい」
「なんだと?」
「彼女は私の有能な部下です。いないと困る。業務が滞ってしょうがない。三途、支度しろ」
「はい」
「待て! おい、若僧! お前、年は幾つだ!」
「年? 25ですが」
「25? くくっ、はっはっはっ! おいおい、そんな年でありさの上司だ? 舐めてんじゃねぇよっ!!」
この声にはたいがいビビる。
「失礼ですが、年齢で判断なさるんですか? 三途川さんといえば由緒正しいヤクザ一家と聞いていましたが、噂は所詮噂ということですか」
(こいつ、ケンカ売ってやがる……ヤクザ一家と分かってて一人で突っ込んできたのか? なんでこんなに落ち着き払ってるんだ?)
「いい度胸だ。俺がどういう人間か分かってて喧嘩吹っ掛けてんのか!」
「あなたが組を背負ってるなら、私は自分の部署を背負っています。たいして変わりはないですよ、生き方としては。ただ私は筋の通らない生き方はしていない」
(うわぁ、親父っさんに『筋が通ってない』って言いやがった)
これは度胸じゃない、バカだと思う。
「課長、そこまでにしておいた方が……」
お嬢が止めに入った。心なしかおろおろしているように感じる。
(まさか、お嬢……この若僧に……)
胸がツキンと痛む。咄嗟に河野の前に立った。
「帰ってくんないか? あんたも怪我したくないだろ」
「怪我?」
そう言いながらスーツのボタンを外していく。上着を横に放り投げた。
「しますか? 喧嘩」
「なんだと!? 『とうしろ』が
「小っちゃいな、あんた。なら最初っから警察に連絡してるよ。そんなもんに頼るような上司じゃ三途とはつき合っちゃいけない。こいつは肝っ玉が据わってるからな」
「人の娘を『こいつ』呼ばわりか!」
親父っさんの我慢ならないと言う本気の怒りが一家の中にびりびりと伝わった。あっという間に臨戦態勢。身を解こうとするお嬢は、ガッチリと両腕を後ろからカジに掴まれている。
腰を低く落として同じく臨戦態勢に入った河野が、家の中に響き渡るほどの声で一喝した。
「親は子を育てたら後は黙って見てりゃいいんだ! ごちゃごちゃ言うな、あんた娘を潰す気か!?」
ヤクザを相手に一歩も引かない態度、目つき、言葉に声。親父っさんとの睨み合いが続く。
(こいつ、他の人間を誰も見ちゃいねぇ、ただ親父さんを真っ直ぐ見てやがる)
腹は立つが、その度胸はどうやら偽物じゃないらしいと空恐ろしさを覚える。
(堅気にもこんなヤツがいる……)
親父っさんの体からふっと力が抜けた。
「わっはっは! あんた、気に入った! 上がれ、上がれ。おい! 酒用意しろ!」
(親父っさん、気に入ったんだな、こいつを)
確かにその潔さには清々しい気にさえなった。河野は脱ぎ捨てた上着を拾って掃うと、普通の声に戻った。
「三途、支度して来い。仕事が山積みだ」
「はい。ちょっと待っててください」
お嬢は支度をしに部屋に戻った。
「上がんねぇのか?」
「勤務中ですので」
「あんたも相当な頑固もんみたいだな」
「そちらこそ。まるでヤクザみたいでしたよ」
そう言ってニヤッと笑った顔は太々しいほど余裕の表情だった。
「行って来る」
「帰ってくるんだろうな」
「さあね。仕事次第」
「お騒がせしました。仕事が終われば帰らせます」
きちんと一礼して出て行った後ろ姿に親父っさんは感心したように呟いた。
「堅気にしとくには勿体ねぇようなヤツだな。今すぐ事務所を一つ任せてぇくらいだ」
あれきり河野は来なかった。しばらくはお嬢がすぐにでも結婚の話をするんじゃないかとヒヤヒヤしていた。けれど、日々はそれなりの日常を繰り返していく。
新しい若いのをその時々で親父っさんは拾った。パチンコ屋で暴れてるヤツ。厄介ごとを背負った若いスリ。
そんな毎日の中で初めて親父っさんに息子がいるのを知った。何も聞けずにいるが、『幸司』というお嬢の弟は18の頃、ふらっと出て行ったらしい。ふんわりと浮世離れしたような息子だったと聞いた。いなくなって数年してから東南アジアから葉書が来ただけで後は消息不明。
時々親父っさんの顔が寂し気になる。
(若いのを拾うのって、幸司さんのことを思い出すからかな……)
そうなのかもしれない。クセのある連中ほど放っておけない。そしてその連中は今はこの一家の中で笑って暮らしている。それを親父っさんは目を細めて眺める。
『ここは通過点だ、いつ出て行ったっていいんだ』
親父っさんのあの言葉を、消息不明の息子のことと重ね合わせると悲しい。
(俺、親父っさんにどこまでもついて行きますよ)
組のもんになっているのは、この家の中で自分だけ。育ててくれている親父っさんと女将さんに恩返しをしたい。
お嬢は結婚した。池沢
(縁、無かったな……)
しばらくここで一緒に暮らしたが、今では近くの一軒家を買ってそこに親子4人で暮らしている。お嬢は仕事を辞めた。時折、ハイキングだなんだと一郎にも声が掛かる。だから荷物持ちについて行く。
最近じゃ事務所の間がガタガタしている。どうも東井が反旗を翻そうとしているらしい。一郎はそっちに全身の神経を尖がらせた。
若いのが親父っさんに気に入られて一家を背負うことになるそうだと噂になった。それが原因だろうと言う。
(親父っさんの背中を守んなくちゃいけねぇ!)
この世界は、いつ何が起きてもおかしくない。独り者の柴山とそこの連中も今では一緒に住んでいる。親父っさんの警護も兼ねて。
一郎は三途川一家で骨を埋めると決心している。生き死にがいつだろうとどこだろうと、そんなことはどうでもいい。
『筋の通った生き方をする』
それこそが一郎の信条だ。
――「若頭 イチの物語」 完 ――
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