イチの物語 -5

 テーブルはしまわれ、上座に座布団が用意される。親父っさんと女将さんが戻り、お嬢が戻った。

「ここに座れ」

 親父っさんが目の前を指差すからそこに動く。女将さんが三宝に置いたとっくりと盃を掲げるように持ってそれを親父っさんの前に置いた。みんなは一郎の後ろの方へ並んで座る。

「これは須藤一郎と三途川勝蔵との盃だ。お前が正式な組との盃を受ける前に心変わりしたとしてもこれはそのままだ。いつでも頼れ、俺は応える」

 二つある盃をそれぞれが持つ。女将さんが注ぎ終わるのを待った。

「一緒に飲むんだよ」

 女将さんの言う通りに親父っさんが口に運ぶのと一緒に盃を口にし飲み干した。今度は二人の盃を交換して、もう一度飲む。

「その杯は死ぬまで持ってろ。たとえお前がどうなろうともお前は俺の子ってことになる。これから先、俺は今日お前がしてくれたようにお前にもきっちりとした態度でやって行く。それは互いにだ。いいな?」

「はい」

「お前たち」

 親父っさんが後ろにいる者たちに呼びかける。

「こういうことになった」

「はい!」

「一郎。これはお前にもらった盃だ。大事にする」

「親父っさん……俺も……俺も大事にします。ありがとうございます!」


 次の朝、一郎はのんのに叩き起こされた。

「一郎さん、時間です」

 時計を見ると5時。

(なんの時間だよ)

 それでも寝起きの良さは刑務所で叩きこまれている。すぐにそばに置いていた服を身に付けた。

「のんのさん、どうしたんですか?」

「のんの、それでいいんですよ。夕べっからあんたはそいう立場になった。早く慣れてください」

 その笑顔に困ったように頷く。やはり来たばかりだ、そんなわけには行かないと思う。

「今日は一緒にやります。朝飯の前のやることです。それぞれの部屋はいる人間がやるから手を出しません。だからそれ以外を全部掃除します。毎日やってるからきれいだって、そういう理屈は要りません。だからって時間かけてやるもんでもない。誰かに聞いたかもしれませんが、要は6時に終わってりゃいいです」

「6時ってのは」

「朝飯の用意です」

「それも自分たちがやるんですか!」

「そうですよ。今日は一郎さん。そこは頑張ってください」

 のんのはにやりと笑った。

 


 早いものであれから半年経つ。初回はまともに作れなかった食事も何度も周りの連中の手伝いをして覚えて行った。上達するにはそれしかない。

「やっぱり真面目だよなぁ、イチさんは」

 テルが笑って言う。

『一郎』と呼ばれたくなくて『俺は野球はしねぇ!』と何度も主張し『イチ』と呼んでもらえるようになった。本当は八田組で『一郎』と呼ばれていたのを忘れたいからだ。ここで同じように呼ばれるとどうしてもあの頃を思い出してしまう。もう過去とは縁を切りたかった。

「最初の頃のイチさんの飯は食えたもんじゃなかったからな」

「じゃがいもは煮えてなくてがりがりで」

「目玉焼きは全部崩れてさ」

「まともなのはサラダと味噌汁だけだった」

 とうとうイチはテルの尻を蹴飛ばした。

「それくらいにしとけよな。サラダと味噌汁だけ? 他にも作ったろ!」

 テルと掛け合いで一郎をからかっていたのんのが足が届かない場所に逃げてから叫んだ。

「レトルトのカレー!」

「このヤロー!」


 女将さんがありさに囁く。

「すっかりイチも馴染んできたようだね」

「そうね、良かった! 父さん、毎日連れ歩いてるんでしょ?」

「あちこちの事務所の連中に顔を売らないとね」

「本当に大丈夫かな。ちょっと前までは堅気だったんだし」

「あの子は腹が据わってる。若いけど大丈夫だと思うよ。それに本人が思ってるより頭がいいしね。いい子が来たよ、本当に」

 あれから父娘の喧嘩がめっきり減った。しても罵り合いくらいなもんだ。

「あんたも大人しくなったじゃないの」

「あれだけ怒られればね。反論の余地、無かったもの」

「まったくだねぇ。私らに詰め寄って一歩も譲らなかった。案外、極道に向いてるよ」

「父さん好みのね」


 一郎には二度同じことを教える必要が無かった。本人に覚える気があるからそうなるのだが、ただ覚えるのではなく一郎はそこに工夫を加えていた。掃除もどんな手順でやるのが一番効率的か考える。親父っさんの言動を常に目で追い、耳をそばだてた。そして常にみんなの動きを見る。

 普段は素直に従う一郎だが、納得がいかないと食い下がって話をした。お蔭で親父っさんとも何回か衝突しているし、数度殴られもした。



「緊張してんのか?」

「はい」

 初めての幹部との対面はいつも肩が張る。

「今日行くのは柴山ってのが仕切ってる事務所だ。柴山は切れもんだ。少数精鋭ってのが好きなヤツでな、東井あずまいとは対極的だ。あの二人はあまり上手く行ってないしな。東井はどっちかってぇとチンピラを数を頼みに見栄を張るヤツだ」


 柴山組長は親父っさんの言う通り、小柄だが油断ならない男に見えた。髪は短くて両サイドを刈り上げている。目つきが鋭くて目だけを動かして人を見る癖がついているようだ。

「親父っさん、そいつは?」

「俺んとこで育ててるイチってもんだ」

「須藤一郎です。よろしくお願いします」

「俺は柴山だ」

 短い挨拶。言葉でさえ要点だけを切って叩きつけるような喋り方をする。

「若いのに見所あるってことですか? 親父っさんが直に育ててるってのは」

「ものになるかどうか。それを見たくってな」

「そうですか」

「ところで」

 組の話をしているのを親父っさんの後ろに立って手を後ろで組み、ずっと聞く。

『お前は見て聞くものをなんでも覚えろ。直感を大事にしろ、お前にはそれが向いてる。勘が働いて頭の中で組み立てていく。それは武器になる』

 親父っさんの言葉だ。

 柴山は怖い男に見えた。突き進むタイプだと思う。けれど東井に比べて柴山には裏表が無いように感じた。

(なるほど、比べてみると良く分かる)

 東井は51歳。体格が良くて、よく笑う。一見豪快に見えるが、時々尻つぼみになるのが一郎にさえ分かる。


 ほとんど毎日あちこちの事務所に連れて行かれた。

「おい、免許取れ」

 親父っさんに言われた。事務所に出かけるときはたいがいその事務所の男が迎えに来た。それ以外はカジが運転するが、堅気に戻すかもしれないカジを事務所に連れ回すのは親父っさんとしては抵抗があるようだ。

「分かりました」

 それから一ヶ月経たずに免許を取り、事務所の人間を呼ぶのをやめた。


(親父っさんは腹ん中で何を考えてるんだろう?)

 懐深い『三途川勝蔵』が気を許す相手は誰だろう? といつも不思議になる。柴山以外、誰と喋っている時も腹を括っているように見える。背中をソファや椅子に預けない。ということは、常に動ける体勢にいるということだ。つまり信用していない。

 人をじっと見ているとそういうことが分かってくる。ふんぞり返っている者は親父っさんより先に茶を飲む。柴山は親父っさんにしか茶を出さない。東井は毎回『酒、飲みますか?』と聞き、大酒のみの親父っさんは『いや、他にも回るからな』と毎回答える。

 少しずつ傾向が見え始めた。柴山は親父っさんに傾倒している。立っていても座っていても見えるように両手を広げて足に付けていた。これは素手でいるということを見せているのだ。親父っさんが前を通る時には必ず頭を下げる。部屋の中に余計な者を同席させない。

 東井や他の連中は時々、ドキッとするような手の動きを見せる。そのたびに一郎はいつでも前に出る気持ちになる。頭は下げるが深くはないしすぐに上げる。人払いをしろと言われない限り自分の席の後ろに二人、三人と立たせている。


 親父っさんは感じたことは胸にしまっておけと言った。必要な時に聞く。そして一郎が必要だと思った時には言えばいいと。親父っさんの人払いの中に一郎は入っていない。常に影のようにそばにいる。育てられていると、肌で感じた。

  


 一年近く経ち、ある日親父っさんはひどく機嫌が悪かった。そしていきなり一郎に怒鳴り始めた。

「イチっ! なんだ、こりゃぁ!」

 それは永澤という、事務所を持って間も無い組長から一郎宛に送られて来た宅配の段ボール箱だ。

「分かりません」

「お前、いつから永澤と懇意になった!」

「親父っさん、懇意になんぞなっちゃいません! 心当たりが無いしろもんです」

「ならなんでお前に届いている! 誰か一人に肩入れすると組はすぐにバラけちまう、それは承知してるな!?」

「はい! でもそれは」

「四の五の抜かすな!」

 親父っさんの拳が上がった。体がふっ飛ぶくらいの生きた拳だ、まともに受けると怪我をする。思わず一郎は目を瞑った。避けるなんてとんでもないことだからだ。

 当たる筈の拳が音は立てたが顔面には来なかった。

「ありさっ!」

 親父っさんの叫びで目を開けた。お嬢が目の前に倒れている。

「お嬢っ!」

「父さ、ん、八つ当たりで殴るなんて、最低……」

 そのまま気を失ったから慌てて一郎は抱え上げた。

「カジさん! お嬢の布団!」

 カジはすっ飛んで行った。寝かせたところに女将さんが来てお嬢の頬を冷やす。目を開けたありさは一郎に呟いた。

「イチ、ごめんね……父さんを、許してね……」

 問題の宅配の箱を女将さんはその場で開けた。

「ほっ! こりゃ……」

 女将さんが素っ頓狂な声を上げた。

「イチ、なんだい、これ」

(あっ)という顔をしている一郎に女将さんが漫画本を取り上げながら聞いてくる。一郎は真っ赤になってしまった。

「あの、俺がムショに入ってる間にその漫画が終わっちまっていて……で、たまたま親父っさんと一緒に行った時にその話が出たんです」

 親父っさんも、「あ」と声を上げた。

「で、それなら全巻持ってるって……26巻あるから送るって言われて」

「あんた、覚えがあるんだね?」

「だいぶ前の話だな、そりゃ」

「はい。半年くらい前です」

 しばらく親父っさんは黙っていたが一郎に頭を下げた。

「済まん。気が立ってたんだ。あん時は俺もいたな、それなら貸してもらえって」

「はい」

「聞きゃ良かったんだ、俺も。先にお前に中を見てもらえばよかった。ありさの言う通りだ、八つ当たりしちまった」

 親父っさんのこういうところにみんな惹かれるのだと思う。古い気質を持っている親父っさんは腹を立てると恐ろしいが、自分の非はきちんと認める。

 それ以上に、一郎は目を背けていたお嬢への思いに圧倒されそうになっていた。


 お嬢に親父っさんから殴られるところを体で庇われてから、一郎の思いは膨らんでいく一方だった。

 釣り合わないのは分かっている。自分はムショ帰りのヤクザ見習いだ。どうなるわけでもない。でも心の中は自由なはずだと、目は自然にお嬢を追っていた。

「イチさん」

 テルだ。玄関に行こうとするところを考え込むような顔で呼び止められた。

「なんだ?」

「悪いことは言わない。今の内に気持ちを抑えた方がいい」

 言おうとしていることにすぐにピンときた。

「分かりやすいか? 俺」

「一目瞭然。多分お嬢も気づいてる。お嬢の態度が変わんないんならそれが答えだと思う」

 キツい言葉だった。テルはそれだけ言うと奥に引っ込んだ。そのまま玄関で一郎は立ちつくしていた。

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