イチの物語 -4

 しかしその後にあった二人の喧嘩には一郎は我慢ならなかった。

 夕食中の親父っさんとお嬢の激しいケンカが始まった時、みんなは自分の食事を手に持って下がった。テルが小声で言う。

「お前、早く自分の飯持っとけ」

 みんなのやっているように、立ったまま夕飯を腹にかき込む。


「ふざけんじゃないわよ! 男がいったん口にしたことを今さら撤回すんじゃないわよ!」

「バカヤロー! 免許取るって言ったら普通その辺の車の免許だと思うだろう!」

「免許取っていいって言ったの、父さんでしょ! それが原付の免許だろうが船舶免許だろうが危険物取扱だろうが今さら文句言われる筋合いないわ!」

「ラリー参加なんて、死んだらどうするんだ!」

「ヤクザ風情のくせによく言うわ! 命惜しんで『ヤクザでござい』なんてどの口が言ってんの!? 代紋背負ってそんなんで組員がついてくるなんて、そんなぬるい世界で生きてんならお気楽ね!」

「このヤロー! 言っていいことと悪いことの区別くらいつかねぇのか!」

 言っている中身が凄すぎる。

「いいんですか、あれ、止めなくて!」

「ならお前が行け」

 カジが味噌汁を啜りながら言うから一郎は二人の真ん中に飛び出した。

「やめてください、親父っさん! お嬢も!」

「なんですって?」

 お嬢の向けた目も声もまるでツンドラの氷さえ解けているように感じるほどの冷たさだった。

 一郎はお嬢の身を心配したのだ。これじゃ親父っさんにぶん殴られるのではないかと。

「下がってな! 親子喧嘩に口出すんじゃないっ!!」

 お嬢は一郎に言い捨てて親父っさんに飛び掛かって行った。

 こんな取っ組み合いを見たことがなかった。ごろごろと畳の上を転げまわる二人。

「おい!」

 カジの号令の下、みんながテーブルをさっと別の部屋に移動させた。襖を外し、壁際に立てかける。その後はただ後ろに下がって二人を見ていた。

 お嬢の拳が親父っさんの腹にめり込んだ。次の瞬間、親父っさんがお嬢の肩を掴んで壁まで走って叩きつける。お嬢は倒れると同時に親父っさんの足を払う。親父っさんが倒れるとその体に跨った。顎に炸裂するお嬢の拳。2発入ったところで腕を掴まれ、逆のポジションとなった。


 一郎が呆気に取られていたのはそこまでだった。親父っさんの拳がお嬢の顔に振り下ろされる前にその背中に飛びついた。

「やめてくださいっ! これ以上はやり過ぎですっ! 親父っさん! ここまでです!」

 立ち上がったお嬢が髪を振り乱したまま、親父っさんと一郎を引き剥がして一郎の横っ面を引っ叩いた。

「引っ込んでなっ!」

 一郎はそのお嬢の頬を思い切り張った。

「ここまでだって言ってんのが分かんねぇのか! これが親子でする喧嘩か!? いい加減にしろよっ!」

 その剣幕にお嬢が黙った。振り向いた一郎は突っ立って魂消ている連中にも怒鳴った。

「あんたら、いつもこんな風に遠巻きに見てんのかよっ! これでいいと思ってんのか? 止めろよっ、これは血の繋がってる父親と娘のやるような喧嘩じゃねぇっ!」


 そこに凄い勢いで女将さんが入って来た。

「一郎、逃げろっ!」

 テルが叫んだ。

「女将さん、終わってるっ!」

 今度はカジ。

 あっという間のことで一郎も何が起きたのか分からなかった。

――ざぱーんっ!!

(え、女将さん? え!? 水!?)

「あああーー」

 みんなの気の抜けた声がする。

「いい加減におしっ! 毎回毎回私の手をかけるんじゃ……あら、どうしたんだい? 一郎、あんたまでびしょ濡れで」

「終ってたの、母さん」

 一郎にはさっぱり話が見えない。

「一郎に止められたの。怒鳴られてたところ」

 説明するありさは一郎と同じずぶ濡れだった。親父っさんは目が覚めたような顔であぐらをかいて座った。

「来るのが遅かった……ってことかい?」

 周りのみんなが頷いている。

「まさかあんたが止めに入るとは思わなかった……ごめん、私も父さんも血が頭に上ると見境つかなくなるの。気がついたら母さんに頭から水を浴びせられてる。それで頭が冷えるのよ」

「お前にとばっちりが行くとはな。済まん」

 親父さんにも頭を下げられて状況が少しずつ見えてきた。みんながテーブルをどかすのは二人に怪我が無いようにしているからだ。襖を外したのは女将さんがどこで水をぶっかけるか分からないからだ。


 一郎は濡れたままそこに座って正座した。

「座ってください、お嬢、女将さん」

 一郎は初めて『お嬢』と呼んだ。それにさえ本人は気づいてない。親父っさんの両脇に素直にお嬢と女将さんが座る。その時点で後ろにいるみんなが正座したのは一郎には見えていない。

「俺、ここに来て間が無いです。だから分かんないことが多いです。でもここでの区切りってのはお嬢に言われて知りました。組の話とここに住む一家としての区切り。で、これからの話はここに住むもんとしての話だと思ってます」

 一郎の真剣な顔。後ろの者たちにもそれが伝わっている。

「俺は頭も良くないし、なま(生意気)を承知で言います。俺は自分の親父をぶん殴って叩き出しました。追い出したの、間違っちゃいなかったと思ってます。でも親に手を上げたこと、今でもこの手に感触で残ってる。親父が倒れた時の顔も覚えてます。親に手を上げちゃなんねぇです。ましてそれが普通になっちゃいけねぇ…… 親父っさん、普段あんなにお嬢のこと大事にしてるじゃないですか。なんでさっきみたいな真似が出来るんですか」

 誰も何も言わない。ただ聞いていた。

「殴り合い、何度も見て来たしやって来たから分かります、お二人が本気で殴っちゃいねぇってこと。それはきっと意識してじゃなくって無意識で加減してんですね。本気の殴り合いならこんなもんじゃ済まねぇ。だからって……」

 声が途切れたが、次はほとばしり出ていた。

「だからって、やっちゃなんねぇです! あんなの、慣れちゃだめです! お嬢!」

「はい」

「親に飛び掛かるな! 言葉で分かり合えるだろう!」

「はい」

「親父っさん!」

「ん……」

「なんで受けて立つんですか! 力があるんだ、あんなのおっ始める前に抑え込むこと出来るじゃねぇですか!」

「ん……」

 振り返ってみんなの正座を見る。でも言葉は止まらなかった。

「慣れてんじゃねぇよっ! なんで体張ってでも止めねぇんだよ! それすんのが身内ってもんじゃねぇのか!?」

 前を見る。

「そして女将さん」

 声のトーンが落ちた。

「水用意するより、止めに来てください。止めねぇで見てる俺たちのことこそ怒鳴ってください。水かけて終わりにさせるなんて、それはホントの終わりじゃねぇです。慣れって、怖いです。俺は義理を通して罪引っ被ってムショに入った。だから気持ちは堅気のつもりだった。でもあそこに2年いたらそんなの飛んじまう。出てきたらもう心ん中から堅気じゃなくなっていた。慣れって……」


 涙が落ちる。膝の上の拳は固く握られていた。

 刑務所の中で、こんなはずじゃなかったと、理不尽だとずっと思っていた。自分に全部なすりつけて当の本人たちはとっくにいなくなっていた。チャンスはあったのだ、堅気に踏みとどまるチャンス。それはあの工場で踏ん張るかどうか。でも自分はそれに背を向けてしまった。

 しかも、堅気の人間の中にいる息苦しさに耐えられなかった……

「慣れって怖いです……放っといたら行きつくとこまで行っちまう……」

 もう声が出なかった。後は静かな空気が漂う。


「一郎……私、悪かった。ごめんなさい。どうせ分かってもらえない。自分でそう決めてた。いつもそう。頭から説得する気なんか無かった。ごめんなさい」

 お嬢が手を突いて深々と頭を下げた。

「俺は……考えるよ、お前の言ったこと。よく考える。いつからこんなになっちまったのかも考える。お前が『良くねぇ』って言ったこと、分かった。きっちり受け止める」

 女将さんも手を突いて一郎の目を真っ直ぐ見た。

「ありがとう。ウチらを怒る人はいない。あんたの言ったことは筋が通ってる。よく言ってくれたと思う。この通り礼を言うよ」

 やっと一郎の強張りが解けた。涙はまだ落ちている。

「すみません、来たばっかりで世の中のこと分かんねぇで偉そうに……でも悲しかったんです」

「一郎」

 カジの声がした。

「お前の言う通りだ、飯持って立って食ってる間に俺たちのやれることはあった。最初はびっくりしたんだ、親父っさんとお嬢の喧嘩に。でもな、ここがお前と俺たちの違いだ。俺たちは途中から……面白かったんだ。どこまで行くのか、女将さんがバケツ持ってくるのも面白かった。そう言う意味じゃ俺たちは身内と言えねぇ。ここの最初で本物の身内は俺たちじゃねぇな。お前だ、一郎」


 親父さんが立ち上がった。そして一郎の真向いに座る。

「お前、どうするんだ? いつか堅気に戻んのか? 構わねぇんだよ、ここはお前たちの通過点だ。たったそれだけの場所だ。もしチラとでも堅気に戻る気があるんならそれでいい。カジだって家庭持ちだ、気持ちが固まんねぇ限りはいつでも出て行っていいんだ。今気持ちを決めなくていい、たった今の気持ちだけ知りてぇんだ」

 一郎は即答した。

「俺はもう堅気には戻らねぇです。その分かれ道は過ぎちまいました。引き返す気もないです。ここでは修行のつもりでいます」

「そうか。二度は聞かねぇ。いいんだな?」

「はい」

「じゃ、俺んとこでお前を迎えたい。どうだ?」

「親父っさん、俺、さっき逆らったばかりです!」

「筋が通ってたよ。俺ん中じゃそれが全部だ」

(八田組は酷いもんだった……これから行く先がまともとは限らないってことだ)

 親父っさんに手を突いた。

「お世話になります。親父っさんのとこにいさせてください」

「よし、お前を引き受けた。おい、酒と盃」

「あいよ」

 すぐに女将さんが立って行った。

「着替えてくるから待ってろ」

 親父っさんもお嬢も立った。みんなは襖を戻したり畳や床を拭き始める。一郎も立ったが、カジに押し留められた。

「座っててくれ。今日はこれは俺たちがやるべきことなんだ。けじめってやつだ」

 テルも頷いた。みんなもだ。だから一郎は素直に座った。

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