イチの物語 -2
当たらなかった。ちょうど相手のそばを女性が通りかかって失敗した。銃声が響いて倒れたのはその女性。相手の男はすぐに姿をくらませた。動かない女性を見て一郎は銃を掴んだまま逃げた。遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。走っても走っても足が止まらなかった。
そしてついに走れなくなってびしょ濡れのままビルの壁に寄りかかった。自分の激しい息と鼓動に、頭の中がガンガン痛む。失敗したということと、倒れた女性のこと。どうしていいか分からない。頼みの佐藤は縛られて転がされている。組長に失敗したと連絡など出来ない、きっと荒木が佐藤を殺して次に自分を殺す。
人のいない方へ、いない方へと重い足を引き摺って歩いた。その時にやっと銃を剥き出しで掴んでいるのに気づいた。手を離そうとしたが、かじかんでいるのと緊張で手が言うことを聞かない。やっと左手でこじ開けて銃を引きが剥がし、水溜りの中に座り込んだ。行く場所がない。
(逃げる……?)
佐藤は殺されるだろう。でも自分だって死にたくはない。
(そうだ、逃げよう! そして遠いとこで大人しく……)
そこまで考えてハッとした。組長は母の住所を知っている。美味い菓子があるからお袋さんに送ってやろう、そう言われて宅配の紙を書かされた。その控えは組長の手元だ。
(だめだ……逃げらんねぇ……)
そのまま立ち上がることが出来なかった。
それから10分もしない内にパトカーが来て捕まった。持ったままだった銃を取り上げられ、手錠のかかる音をぼんやりと聞いた。
暗がりの道に座りこんだままの男を見て、通行人が警察に通報したのだ。
黙って椅子に座っている一郎に、刑事が『お前があの銃で撃ったのか?』と聞いた。それにもぼんやりと頷いた。
『誰を狙った?』という質問には答えなかった。名前も年も言わない。今は着替えさせられてまともなものを着せられている。そのまま朝を迎えた。
「あの、女の人は?」
やっと声が出て聞いたのはそのことだった。
「軽傷だよ。掠り傷だ。驚いて気絶しただけだった。心配だったのか?」
年配の刑事が担当してくれた。一郎は素直に頷いた。
「お前、悪いことしそうには見えないがな。どうせ誰かにやらされたんだろう? 言ってみろ、助けてやるから」
その刑事の目を見た。真剣な目つきに、何もかも喋ってしまおうかと思った。
(そしたら兄貴は……)
結局黙ってしまう。何をどう喋っていいか分からず、それきり日数ばかり経っていく。ついてくれた国選弁護人にも、名前と生年月日以外、何も言わなかった。
19歳だから少年法が適用され、刑罰は家庭裁判所で下る。その管轄に回されて一郎はホッとしていた。
警察もずい分調べたようで、一郎が八田組で使いっ走りをやっていることはすぐに知れた。だがそこでストップだ。誰を相手の犯行か分からない。銃の出どころも分からない。あるのは一郎の指紋だけ。
「今のままじゃ不利だよ」
弁護士は何度も言い、何度かは一郎の心が揺らいだ。けれど母が尋ねてきてその泣き顔を見た時に(言えない、母さんに何かあったら……)と、言葉を呑んだ。
出口のない犯行で残っているのは、『やったのは自分だ』と言う一郎の自供のみ。
一郎の不幸は、審理中に20歳となったことだった。『やっても未成年だ、心配ない』と組長に言われていたが、20歳を迎えた時点で刑事事件として扱われ、有罪となれば一般の刑務所に送られてしまう。
(やっぱり……やっぱりいやだ、刑務所になんか入りたくない!)
裁判所で冷や汗をかき始め、弁護士を振り返った時に傍聴席にいる佐藤の姿を見た。
(兄貴! 来て、くれたんだ……)
あれから誰も来てくれなかったのに佐藤が今ここに来たということが嬉しかった。
(生きてた……兄貴、生きてたんだ)
佐藤のことでも大きな不安を抱えていたから、一つの重い荷物を下ろせたようで気が抜けた。
(なら……やっぱり言ってもいいかも)
そこまで考えた時に、佐藤の顔に大きなあざがあるのと、ジャンバーの下で腕を吊っているのが分かった。
(え……何か、されてる……?)
佐藤が泣きそうな顔で一郎を見た。その顔を見て何もかもが終わった。
実刑3年。犯行時19歳、被害者はごく軽傷。八田組でもただの使い走りにしていただけで無関係だと突っぱねたため、暴力団としての犯行とは認められずその刑期になった。
髪を短くし、食欲が落ちて頬は削げ、面会に来た母は声も出なかった。
中で仲良くなったのが41歳の白石和夫。温和で若い連中の面倒をよく見る白石は、一郎の話を根気よく聞いてくれた。
「そりゃ、嵌められたな」
「分かってる。端っから組長はその気だったんだ」
「違う、佐藤ってヤツだよ。よくある手だ。街でガキを拾ってちょっと面倒を見る。厄介ごとをやらせるのにはもってこいだ」
「そんなバカな! 兄貴はいい人だよ、裁判にも来てくれた……」
「で、ここには面会に来てくれたか?」
「……いや」
「お前、その妹ってのに会ったことあんのか?」
「無いけど……」
「その佐藤ってのも、お前の母ちゃんも元気なんだよな?」
一郎は頷いた。
「なら、お前に殺らせるのが目的じゃなかったってことだ。そうだな、脅しってこともある。とにかくそんなもんのためにお前は使われたんだよ。どうすんだ、この先」
怒りで暴走しそうになった。今では犯罪者として扱われている。佐藤のことを思った自分はどんなに間抜けだったのか、今頃きっと笑われている……
「先のことなんて……俺、騙されて……チクショウッ……俺っ!」
立ち上がったのを押さえられた。
「待て! いいか、短気は起こすな。大人しく真面目に刑期を務めるんだ」
「なんでだよっ! 俺、何もやってないって看守に言う!」
「そっからまた裁判やり直してもらおうってか? そしたらどれだけ時間がかかるか分かってんのか? それより大人しくするんだ。きっと3年も経たずに出られる。……なんならその後俺が面倒見てやるから」
「白石さんが?」
「ああ、俺んとこもヤクザだが、そんなヤツらとはわけが違う。ちゃんとした組だ。早く出て俺んとこ訪ねて来い」
白石は後半年で仮釈放になる。だからどう見てもこの世界や刑務所に無知な一郎を放っておけなかった。
刑務所の中でも荒くれ者がいて派閥がある。白石がいる時は睨みが利いていたからそうでもなかった。だがいなくなった途端に一郎は荒ごとに巻き込まれ始め、刑務官に真面目な態度を認められながらもだんだんと
2年半後。一郎は仮釈放となった。白石が何度か面会に来てくれて、身元引受人には白石が世話したことのある人間がなってくれた。出所後の勤務先も決めてくれて、少なくとも仮釈放中の半年はそこで働くことになっている。
釈放当日はその男と白石が付き添いで保護観察所に行き無事に手続きを終えた。
その後白石に連れて行かれたのはファミレス。久しぶりのハンバーグは涙が出るほど美味かった。足りずにピザを頼むのを白石はニコニコと見ていた。
「良かった、元気そうで」
一郎は丁寧に頭を下げた。
「白石さんのお蔭です。ありがとうございます」
「でも……かなりお前も変わったよな。面会に行った時も感じたが、よっぽど中がきつかったか」
「……もう終わったことですから」
もうあの頃のふわふわと浮ついたようなものは消えていた。無実の罪で犯罪者の群れの中に2年間いれば誰でも人が変わる。体つきは逞しくなり、目つきも鋭いものになっていた。
「八田組のこと……白石さん何も教えてくれなかったけど」
「あそこは解散してる。もう忘れろ」
「そんなっ! じゃ、組長とか、佐藤とかっ!」
「ズラかったんだろうな、うわさも聞かねぇ。お前、本当に自分が狙った男のこと覚えちゃいねぇんだな?」
「覚えてない……」
「ならいっそ、その方がいいんだ。何もかも忘れて新しくやり直せ。若いんだ、いくらでも道はある」
説得されて、紹介された家電の部品を作る工場で半年頑張り、仮釈放期間が終わると同時に退職した。
「やっぱり無理か?」
「あそこじゃ俺のこと、普通に扱っちゃくれません。どうやったって前科者は前科者です。もう普通のところには行きたくないです。資格も何も持っちゃいない、やってもたかが知れている……」
「なんか資格が欲しいってんならその間面倒見るが?」
「なんでそこまですんですか? 俺だけじゃないでしょう、白石さんがいろんなヤツの面倒見てるって聞きました。そこまでするのって」
少し寂しげな顔で笑うのを見て、悪いことを聞いたような気がした。
「俺は自分のガキが作れないんだ。体がな、あそこがダメなんだよ。いろいろあって大けがしちまったせいさ。だからどうしてもお前らみたいなのを世話したくなっちまう。ただのもの好きだと思えばいい、本当にその通りだからな……お前、東京に行っちゃどうだ? 紹介してやれるところがある」
「だから普通の勤めはもう」
「そういうんじゃない。俺もずい分世話になった人だ。俺みたいに若いのの面倒を見てくれる。ただ、そのお人は厳しいぞ。厳しいが、あの人んとこならお前を預けても安心だ。もったいねぇんだよ、お前のことが。あの頃は確かにただのガキだったが、真面目で素直なヤツだと俺は思っている。真っ当な会社に入れないならそれも仕方ない。だからそこに行って世話してもらえ」
いろいろ話をして何度も諭され、白石の言う通りにすることになった。もらった紹介状には『
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