Ｊの物語：番外編『三途川一家の優しい面々』

第１話 イチの物語 －１

　雨の夜を走っていた。行き場が無い。建物の壁を背に、激しく息を継いだ。時折車のライトが影を作る。

（どうしよう！　殺（や）れなかった、どうする!?　帰れば殺される！）

　１９歳の須藤一郎。高校は出たものの、酒を飲んでは暴れる父を殴り倒して叩き出し、それきり父は行方知れず。母は田舎に帰ったが一郎は神戸の雑踏に埋もれた。

　ティッシュを配ったり、くたびれたキャバレーの呼び込みをしたり。行く先の無い若者の無計画な毎日。行きつくところは日の当たらぬ裏社会。

『八田（はった）組』

　いかにも筋ものと言った感がある、八田組長の元に連れて行かれたのはそこの若いのと殴り合ったからだ。

　唇が切れて髪はボサボサ。茶色に染めてから数ヶ月。切れたジーンズと汚れたTシャツが相まって、一郎はただのいきがったチンピラに見える。肩がぶつかったのどうのこうの。たいしたキッカケではないよくあるケンカ。だが相手が悪かった。

「お前、見所があるよ」

　ちょっとした殴り合いを見て、一緒にいた３つ４つ上くらいの男が偉そうに言った。

「ウチの組長に紹介するからついて来い」

　若造がいきなり組長に紹介すると言うのだから、それだけでたいした組織じゃないのだが、一郎にそんなことが分かるわけがない。世間を吹っ切って一人で生きてるんだとうそぶきながら、青臭いままその暴力団に身を寄せた。

　最初は良かった。組長に紹介してくれた佐藤という男に媚びを売り、『兄貴』なんて言葉で飲みに連れて行ってもらったり女を抱かせてもらったり。そう、美味しい思いを味わってしまった。

「組長が大事な話があるってよ。お前だけに話したいってさ」

　兄貴分を差し置いての組長の呼び出しは、世の中に浅い一郎を天にも昇る気持ちにしてくれた。

「なんですか？」

「おう、座れ」

「はい」

　小さな事務所の煙草の押しつけられた跡があちこちに残る古いソファ。先に座らされて組長が置いてある小さな冷蔵庫を覗き込んだ。

「一郎、ビール飲めるよな」

「はいっ！」

　目の前にビール缶を置かれる。真ん中にはピーナツをざらっと入れた紙皿。それでも組長直々のもてなしに、勢いよく飲んだビールがふわふわとした満足感を与えてくれた。

「頼みがあるんだ」

　ビールを置いて、両手を膝についた。

「組長の頼みだなんて、俺、何でもやりますから！」

「お前ならそう言ってくれると思ってたよ！　この顔知ってるか？」

　出された写真はいかにもこの世界の住人だ。

「知りません」

「そうか。ま、知らなくてもいい。お前、こいつの頭取って来い」

　冗談を言われているのだと思った。『頭を取る』その意味は分かるから。

「組長、冗談、ですよね？」

「冗談？」

「だって……それって俺に人を殺して来いってことでしょ？　そんなこと」

「大丈夫だ、段取りはつけてやる。お前は未成年だからな、どうってことねぇよ」

　普通のことのように話す組長が他人に見えた。ここに連れて来られてからちやほやと面倒見てもらった。いろんな話も聞いてくれた、父親のこと、田舎に行った母のこと。一緒に酒を飲みながら相槌を打ちながら、組長は親身になって『足元を固めて人生をやり直せ』と言ってくれた。

「おい！」

　どん！　とテーブルを叩かれて体がビクリと跳ねた。本当のことと思えなくて、何の返事も出来ていなかった。

「冗談だと？　俺はお前の親よりお前の面倒を見た。違うか？」

「それは、それは分かってます。本当によくしてもらって俺、やっと居場所が出来たって、でも」

「その親がこうやってお前に頭を下げている、頼むと。お前は俺に後ろ足で砂をかける気か？　何もせずにただいい思いしよってのか？」

（嵌められた……？）

　バカげた生活をしているからといって、自分がどんな状態かそれくらいは掴める。今、自分は追い詰められている。

「組長、お願いです！　俺には出来ない、それ、捕まったら刑務所です！　それ、無理です！」

「チャカ（銃）は足がつかないもんを渡す。後をつけて隙を見て撃つ、お前のやるのはたったそれだけだ。戻ったらその年で幹部だ、俺はお前のやることにきっちり応えてやる」

　そんなことと人生を天秤にかけられるわけがない。

「俺、すごく世話になったの分かってます。恩があるって心から思ってます。でも、これは勘弁してください、俺はまだガキです！」

「都合のいい時にガキになるんだな」

　テーブルに　ゴトッ　という音で布に包まれた物が置かれる。それが何なのか、開けなくても分かった。

「開けてみろ」

「……いや、です、組長、おねが」

　立ち上がった組長に頬が砕けるかと思うほど殴りつけられた。頭がクラっとした。

「ふざけるなよ。いいから開けて見ろ！」

　頭の中が白くなり始める。今自分は人生の分岐点にいるのに何も抗う術が無い。言われるままふらりと立って布を開いた。禍々しい、現実の凶器。

「持て」

「いや、です」

　慌てて布越しのままテーブルに置いた。組長はドアを開けて大声を上げた。

「佐藤！」

「はい！」

「来いっ！」

　佐藤が入ってくる。

「お前の連れてきたヤツは躾がなってないな」

　言うなり、佐藤は殴り倒された。腹を蹴る。佐藤は胃の中の物をそこに吐き出した。

「やめてください！」

　佐藤には可愛がってもらった。行き場のない自分を拾って組長と同じくらい面倒を見てくれた。家賃が払えないと言った一郎を自分のアパートに引き取ってくれた。一郎は佐藤の体に覆いかぶさった。

「やめてください、蹴るなら俺を蹴ってください、許してください！」

　涙を零す一郎の顔を見て、ふっと組長はいつもの顔を見せた。

（考え直してくれた？）

もう一度ドアを開けて人を呼ぶ。

「荒木！　古田！　来い！」　

　この二人は荒っぽい。ほとんど話をしたこともないし、佐藤からはあいつらにだけは近づくなと言われていた。

「なんです？」

　体格のいい荒木、凶暴な目をしている古田。

「どうもな、若いのが俺の話を聞きたくないようだ。この佐藤が連れてきたんだが」

　途端に蒼白な佐藤が組長の足元に縋りついた。

「おれ、を、おれを、あにきたちに、わたさないで」

　その襟首を後ろから荒木が掴まえて引きずった。

「なんだ、泣きを入れんのか？」

　凄みのある荒木の声。掴まえられているのは佐藤なのに、一郎はすでに動けずにいる。

「どうすりゃいいんです？」

　古田が掠れた声で言う。抗争があった時に喉を潰されかけてこの声になったのだと聞いた。

「俺はな、こっちの若いのはしょうがないと思ってるんだ。この世界を分かっちゃいなかった。だがここに来てもう２ヶ月経っている。その間面倒を見たのは佐藤だ」

「なるほどね。佐藤、まずお前を躾けなきゃなんねぇな」

「くみ、ちょ、たすけて、いちろ、いちろ」

　見ていられない、けど銃を持って撃つ。そんな恐ろしいことはもっと出来ない。縋りつく目から顔を背けた。

「弟分に捨てられるような兄貴か。組長、こいつを任せてもらえますかね」

「何をするんだ？　古田」

「まず、両手の親指を落とす」

「やめ、や、」

　佐藤の口が荒木のデカい手で塞がれた。一郎は振り向いて佐藤の目を見た。必死にその手が一郎に伸びている。

「黙っとけ、お前は」

　何度も佐藤が頷いてやっと荒木の手が口から離れた。

「鼻を落としたいが、それじゃ呼び込みも出来ねぇからな。佐藤には可愛い妹がいたよな」

　それは一郎も聞いていた。

『俺もおんなじだ、親がいないんだ。でも、１７の妹を学校に行かせてるんだ。大学にも行かせてやりてぇんだ』

　そんな話を何回も聞いている。嫌な予感がした。

「親がいねぇからお前が育ててんだよな。いっそ俺たちが面倒見てやろうか？　学校なんざ行かなくていい。いい思いをさせてやるし、きれいな服も着せてやる」

　この二人はヤクもやっているらしい。今までも連れ込んだ女をヤク中にして、水商売をさせていると聞いた。

「おねが、ともこ、てをださない、で」

　古田がナイフを出して近くにあるタオルを佐藤の手の下に敷く。

「まず、これからだな」

　逃げようとする背中を跨いで荒木が座った。一郎に伸びていた手を古田が掴み床につける。親指にナイフを当てた。

「やめて、やめてください」

　自分の声とは思えないほどか細い声だった。子どもの頃のような、震える声。荒木が佐藤の口から手を離す。

「いちろう、いちろ、たすけてくれ、ともこもたすけて、いちろ……」

　それが限界だった。

「やります。おれ、やりますから。兄貴を放して、おれ、やるから」

『持て』と言われた銃を素手で掴んだ。これでこの銃には一郎の指紋しか付いていない。自分の手にある黒光りする物を呆然と見ていた、その恐ろしい物を。布を渡されて銃を包んだ。小さい使い古しの黒いスポーツバッグを渡されてそこに突っ込んだ。組長が肩を叩いてくる。

「お前がそういうヤツだと信じてたよ。世話になった人間を見捨てるようなヤツじゃないってな」

　さっきとは打って変わった笑顔だ。

「捕まることを心配してんのか？　お前、まだ未成年じゃないか。それでど偉いことをやってみせるんだ、むしろ箔が付くってもんだ。ムショを出りゃ幹部だし、ただのチンピラで終わるところを崇められる。親に捨てられたお前が立派に生きていけるのはここだけなんだよ」

　もう、後が無かった。解放された佐藤が抱きついて泣く。

「いちろう、ありがとう、これで友子も助かる。お前のおかげだ、ありがとう」

『兄貴』を抱き返して、しがみついた。

（いいんだ、これで兄貴も妹さんも助かる、だからこれでいいんだ）

そう自分に言い聞かせた。

　もう一度佐藤を荒木が掴んだ。猿轡さるぐつわを噛ませて後ろ手にロープで縛る。

「な、なにすんですか！　俺、やるって」

「逃げるかもしれねぇからな」

「いや、荒木。俺は信じてるんだ、こいつを。だから佐藤を放してやれ」

「甘いよ、組長。いいか、ガキ。お前が終わらせて戻るまで佐藤は俺が預かる。殺りそこなったら佐藤だけじゃねぇ、お前も追いかけて殺す。分かったな！」

　土砂降りだから今夜がいいと言われた。考える間も無い。すぐに古田の運転で暗い街に連れ出された。組長から呼び出されたのはまだ明るい夕方だったが、街は人工の明かりに変わっている。

　体がカタカタ震えている。車はヒーターでイヤと言うほど暖まっているのに、震えが止まらない。

「なんだ、気が小いせぇな」

　信号で止まった時に古田が脇にあったウィスキーの瓶を渡してきた。

「飲め、３口は飲んどけ」

　言われるままに口をつけた。むせ返る背中を擦られた。

「そうか、怖いか。ま、当たり前っちゃ当たり前だな。初めてだもんな。俺が最初に殺しをやったのは１６ん時だ。組長がバカにされたのが気に食わなくってその相手を殺った。だから組長は身内同然に俺を大事にしてくれる。お前のことも組長はずっと大事にしてくれる」

　佐藤のことが頭に浮かんでいた。泣いて『ありがとう』と言った佐藤が。

「ひでぇや、本気で殴ること無いでしょ！」

　佐藤は荒木から冷えたタオルを受け取った。

「そう言うな。お前の心許ない芝居が迫真の演技になったんだ」

　組長と荒木と佐藤は３人でビールを飲んでいる。

「どうすんです？　あいつが失敗したら」

「今回のことは小林に頼まれたことだ。形ばかりでも見せときゃ恩が売れる。下手して本当に殺ってくりゃ万々歳だ」

「戻ってきたらホントに幹部ですか？」

「バカ」

　荒木が答えた。

「あんなひょろひょろを幹部にしてどうするんだよ。上手く行って戻ってきたらそん時は海ん中だ」

　佐藤は納得したような顔で頷いてビールを煽った。