カーネーションのゆりかご
Hiroe.
第1話
ゆりかごは、真っ白なカーネーションで飾られていました。穏やかな五月晴れの日のことです。春の名残をふくんでそよりと吹く風からも、地上からわずかに高いところでよどむ排気ガスからも、湿り気を帯びた人々のざわめきからも守られて、ゆりかごはひたすら静かでありました。
ゆりかごで眠るのは、神と母の愛し子です。野を駆け、歌をうたい、ステップを踏み、朗らかに笑うものです。思い出だけをもつものです。カーネーションは白いばかりでしたが、それは実に鮮やかな色彩でありました。
ゆりかごを見守るのは、天使のお告げを知ったものたちです。白いゆりかごを囲む彼らは鴉のようで、それは悲しいことでした。鴉が泣いているのを、愛し子は知っているのでしょうか。安らかに眠る愛し子に、夜が近づいてきています。遊び足りずに泣く鴉は、カーネーションをくわえて舞うのでした。
夜がきて、また朝がきます。朝がきたら、それは旅立ちの日です。真っ白なゆりかごは、河を渡るための船でした。さらさらとせせらぐ浅瀬から、ごうごうと渦まく濁流を越えて、まだ誰も知らない世界へ旅する船です。
愛し子の母もまた、鴉のようでありました。母鴉は、真っ黒い瞳から清らかな真珠を零していました。それはありふれた、やさしい奇跡です。愛し子はその真珠を、夢の中で抱いています。両手にいっぱいのまるい雫を抱きしめて、何もかもから守られた世界で、朗らかに笑うのです。母鴉には、その姿が見えているようでした。
何のへんてつもない夕方です。家路を急ぐ人々に、ゆりかごは見えていないようでした。鴉にしか見えないやさしい船は、愛し子だけのためのもの。悲しいことからも苦しいことからも、痛いことからも辛いことからも守ってくれるゆりかごです。
わたくしもまた、一羽の鴉でありました。ほんのわずか、愛し子を知っておりました。神に愛されたものにふさわしい、目鼻立ちの整った、繊細でうつくしいひとでありました。死化粧の上から、はっきりと母鴉の面影をよみとって、わたくしはまた悲しくなるのでした。
神様は、その人をご自身の傍へと招かれました。愛し子はゆりかごに揺られながら、思い出だけをたずさえて天に昇っていきます。穏やかな、永遠の眠りでありました。
わたくしは、ゆりかごにそっと手を乗せた母鴉の、あの悲しみと慈しみに満ちた目が忘れられないのです。
アイ・ラブ・ユー あなたはいつまでも私の赤ちゃん
集った鴉の瞳から、あとからあとから涙が溢れて、最後の宴が開かれました。写真の中の愛し子が笑うので、ますます鴉は泣きました。
わたくしがその人と過ごした時間は、ほんのわずかでありました。わたくしたちは友人でした。わたくしのことをやさしい女性だと言ってくれました。煙草の煙をくゆらせながら、ぽつりぽつりと明日の話をしたりしました。秋桜の咲くお祭りの日に、礼拝堂で交わした言葉が最後となりました。
カーネーションのゆりかごは、真っ白な棺桶でした。やすらぎの世界へ旅立つ彼を、真っ黒な服に身を包んで見送るのです。悲しみに暮れるわたくしたちのことを、彼こそが見守っているのでしょう。
東京の空は、彼が昇りゆくにはあまりに低く、夕方の生ぬるい風は、熱を帯びてからだに纏わりつくようで、そんなありふれた悲しみに、彼を偲んで集った鴉たちは、その思い出を語り、明日を見ようと前を向いて、一羽また一羽と葬儀場から去って行きました。都会の街の光と喧騒が、最後に残っておりました。
月日は巡り、やがて鴉の羽は白髪となって、誰もが彼と同じ世界へ昇るでしょう。それは鴉たちにとっての永遠です。その先があるかどうかなんて、いかに賢い鴉でも知らないのです。だからいつかその日がくるまで、彼らは友人であり続けるのでした。
鴉たちはみんな、目には見えないゆりかごを持っています。そのひとつを見送った、葬式というさよならの日は、真っ白なカーネーションが心を埋め尽くしているのでした。
カーネーションのゆりかご Hiroe. @utautubasa
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